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幼い日の習い事-「落ちこぼれ」の呪いが、25年越しに解けた日-

私は今、社交ダンス講師をしている。つまり、「習い事」の先生だ。

まさか自分自身が、大人になり、ものを教える立場としての仕事に就くとは思ってもいなかった幼い頃、習い事でピアノを習っていた。

小学1年から6年生まで、ちょうど6年間。
始めたきっかけも、もはや思い出せない程の時が経っている。

ただ、幼心にも記憶にあるのが、自分が強烈に落ちこぼれだ、という思いを抱いた事だった。

そんな出来れば蓋をしておきたいような、過去の苦いだけの記憶が。

ある日、私の元にダンスを習いに来てくださった生徒さんの一言で、綺麗さっぱり、塗り変わってしまった。

どんよりとした暗い空の、重たい雲の切れ間から、暖かな光の筋が覗くように。

別に後生大事に育てていたつもりもないが、心の片隅で、四半世紀も抱いていた劣等感だった。

過去の出来事は今更変わらないが、意味付けは変えられる。「今」を大切に生きる為に、自分の力になるように。

講師とは何だろう。

こんな風に、生徒さんに、教えて頂く瞬間も、沢山あるのだ。



光芒。またの名を、天使の梯子とも。

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「出来る子」と思われたかった私の憂鬱

小学生の頃、私は学校で、比較的なんでも卒なくこなせる子供だった。学級委員をし、体育のリーダー係をし、卒業式の実行委員をしていた。

あまり積極的な性格でもないため、それも全て他薦により、そういう役回りを仰せつかっていた。

絵画コンクールで貰った賞状や、マラソン大会のメダルを、早く母に見せたくて、小走りに家に帰っていく子供だった。

自分を客観的に眺めることは中々難しいが、出来るだろう、と思われ、その誰かの期待以上には出来たのだと思う。きっと周りからは「優等生」だと思われていた。

そんな子供だった私の前に、「ピアノ」という難敵が現れた。

週に1回、学校終わりに通うグループレッスン。

もうあまり覚えていないが、皆んなと外で走り回る方が楽しかったから、興味本位で始めてみたものの、たぶん家での1人きりの練習が好きではなかったのだろう。

あれ?他の子より上手く弾けないな、と感じ出した頃から、段々と練習が億劫になっていった。


「さぁ、みんな、弾いてみましょう!〇〇ちゃんから順番に、前に出て来てね。」

1人ずつ、部屋の前方にある先生のピアノの所まで歩いて行き、1曲弾いては戻っていく。終わると先生が、一言アドバイスや感想をくれるのだ。

私の番が来る。

上手に弾かなければ、と思うのだが、練習も碌にしていない。手が汗ばむ。変に緊張する。いつにも増して、つっかえてしまう。

どうにかこうにか弾き終え、先生のアドバイスを落ち込みながら聞き、伏せ目がちに、背中を丸めて席に戻る。

そんな事を繰り返しているうちに、段々と先生の目が気になるようになってきた。怒鳴ったりしない、穏やかな優しい先生だったのに。

先生は他の子よりもデキの悪い私をどう思っているんだろう。迷惑だと思っているのではないか。私のせいで、レッスン全体の進行が遅れているのでは、と。そんな事ばかりが、気に掛かった。

家に帰って、キーボードの前に座り、楽譜を眺める。復習しなければとは思うのに、手はなかなか動かない。

余計なことばかり考えてしまうレッスンの時間は、当然楽しい筈もなく。

何故、楽しくない、むしろ辛いのに、習い事を辞めなかったんだろう、と思い返してみるが、多分小学生だった自分は、自分自身が一番ショックで親に言い出せなかったのだ。

全然上手くならないから、辞めたい、と。

実際どうだったかは分かりようもないが、私自身は「出来る子」だと思われたかったのだ。幼いながらに持っていた、自分のアイデンティティだった。この歳になり、振り返ってそう思う。

今よりずっと大きな存在に映っていた親に、自分は出来ないと、告げる勇気が無かった。「出来ない」自分ほど、無力感に苛まれ、怖い事は無かった。

ますますクラスの子達との差が広がっていく6年間を過ごし、ちょうど中学に上がる春に、両親の仕事での引っ越しと共に、ピアノは辞める事になった。

そうやってピアノという習い事は、私が私自身に「落ちこぼれ」というレッテルを貼ったまま、記憶の底に沈んでいった。

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そういう所を育てているんですよ

ある日、社交ダンス講師として、女性の生徒さんをレッスンしていた時。

ご自身がピアノの先生をされていて、私がかつて習っていたピアノ教室の、同じ系列の講師だったこともあると知った。

思わず、子供の頃の苦い記憶が蘇る。

私、ピアノ、6年間も習っておいて、結局楽譜も読めるか読めないかで...恥ずかしいんです、と。

そう、楽譜の読み方も怪しいのだ。初見の楽譜を前に、さぁ弾いて下さいと言われても弾けない。もういっそ習っていたという事実自体無かった事にと思い、習い事の事を人に殆ど話したこともなかった。

すると、その生徒さんが仰った。

あぁ、先生。楽譜も勿論大事ですけど、その教室では、方針として、リズム感や音感に親しむ事に力を入れているんですよね、子供の場合。そういう所を育てているんですよ。

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頭を殴られたような衝撃だった。

ガァンと。

え、リズム感と、音感?

そこを育てている?


その言葉に、突然、思い出した。

当時は、ピアノや楽器の音が、ドレミの音階で聴こえていた自分の耳を。

楽譜の読み方も怪しい状態でもどうにか弾いていたのは、先生のお手本を耳でコピーして、リズムを体で覚えていたからだった事を。


なんだ、そうだったのか。

友達と比べて、クラスで一番ダメな自分という思いに囚われて、見えていなかった。

自分が学んでいたもの。

先生が教えてくれようとしたもの。

ちゃあんと、自分なりに、学べていたことも、あったじゃないか。たくさんではないかもしれないが、吸収していたことだってあるじゃないか。

友達と比べて、ではなく、自分の体を通して残ったものが。


今、立っている場所を思わず眺める。

私は、音楽を表現するダンサーで、目の前の生徒さんに、踊りを教えているのだ。

今の自分の、無駄になっている訳がないのだ。

ピアノを習っていた自分を、無かった事に、しなくていいじゃないか。


その日、私は幼い日の呪いを解いてもらった。

生徒さんに。

ダンスフロアの上で。

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教えるということ

今、自身が「習い事」の講師になり、何を伝えるべきか、と思う。

正しい知識、上手くなるコツ、美しい動き、技術的なあれこれ、試合で勝つには。

音楽にのって、体を動かす楽しさ。相手に伝わった時の、嬉しさ。


精神的なことなんて、と言われるかも。

でもここは、私のnoteの1ページだから、心の真ん中を綴ってみる。

出来れば、人と比べて苦しまずに、ダンスを好きでいて欲しい。

そんなことを伝えたい。

社交ダンス講師として。

比べてばかりきた自分を棚に上げて、でもだからこそ、思ったりする。

伝わるように。

そんな言葉を選べる講師であるように。


例えば。

美しさは一つではない。

あなたは、あなただから、美しいと。

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