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息子が強豪校に負ける日。【第二章】

「今日くらい休んだら?」

「いや、やらないと気持ち悪いから。」
暗い部屋でライトが1つ。色とりどりの付箋が付いた参考書を見つめたまま啓太は言う。

高3にとっての6月ともなれば、受験に向けても気が抜けない時期になってくる。
「いつも通り0時までやってから寝るよ。」
高校入学以来、夕食後から0時まで机に向かうという習慣を崩さない啓太。

「お母さん先に寝るね。おやすみ。」

この日、啓太が所属する野球部は延長戦を制し、2回戦へと駒を進めていた。
初戦でありながら終了直後に涙を流す選手の姿もあった。

敗北の涙なら理解は出来る。しかし、地区予選の初戦突破の涙は観衆の目にどう映るのだろうか。


今日彼らが死闘を繰り広げたのは春の大会で6対0と大敗した相手だった。
春はコールドこそ免れたが、圧倒的なエースを前に打線が沈黙。手も足も出せなかった。

春の敗北から夏の大会までの1か月半という短い期間で、チームを底上げするために何が必要なのか、負けたその日、部員のみで開かれたミーティングは4時間にも及んだ。

優れた監督の事を度々「名将」と呼ぶ事がある。しかし、啓太が所属する野球部の樋口監督は「瞑将」と呼ばれている。

「私は口を挟まない。ミーティングにも参加しない。チームで決めた事だけを報告しなさい。」


樋口監督の方針は「考え行動すること。」であり、チームが目指すもの、そのために必要な事、練習方法から、休みの日程までを全て部員の決定に委ねていた。

こうして夏の大会に向けて打撃と守備それぞれで方針を固めた。

打撃については自分が得意とする球種だけを打つ練習を続ける。つまり、直球を打つのが得意な選手はそれを1か月半磨き続ける。カーブなどの変化球は捨て。
変化球が得意な選手はこれの逆をやる。

打撃練習も効率を考え、ひたすら直球を投げる投手、ひたすら変化球を投げる投手を用意。
シビアではあるが、この時点で夏のメンバーに入れないと判断された投手にこの役を引き受けてもらう。

しかし、全ては本気で話し合った結果である。
選手一人一人が真剣に考えを口にする。
その熱はチーム全体に伝わり、それぞれが勝つための役割を理解していたので、不満を口にする者は現れなかった。

そして守備がメインとなる。
春の敗北はホームランこそ打たれなかったが、守備の甘さが目立った。
ノーコン投手の四球が続き、これに守りのエラーが絡めば失点は免れない。

このことから春の大会では打てる選手をメンバーとして選んだが、夏の大会は守備が上手い選手を中心に選出する事を明確にした。

この試合に出場出来なかった守備型の選手たちは俄然やる気に満ち溢れ、打撃を買われて出場していた選手は焦りを覚え始めた。

そして最後の決まりはいつも同じ。
「期末考査は全員で100番以内!文武両道を徹底」

6月下旬といえば高体連の時期であり、期末考査と重なるのが高校生の運命。

野球部である前に学生である事を忘れてはならない。学業は横一線、みんなで決めたハードルを超えた上で野球をやろうと言うのがこのチームの伝統であった。そして全員がそれを分かって入部している。

1学年240名が在籍する進学校。
東大や京大、海外の大学を視野に入れた生徒も多くいる中で、期末考査100番以内は容易なことではない。それでも、部員は練習で疲れた身体に鞭を打ち、ある者は深夜まで、ある者は早朝からと、自分で学習時間を捻出して勉学に励んでいた。

6月上旬、地区予選の抽選が行われた。
初戦の相手は奇しくも春と同じ商業。
願ってもない再戦に高鳴る鼓動を感じる選手達。

すぐにミーティングが開かれた。
メンバーを選出する裁量権を部から委ねられていたキャプテンが口を開く。


「春と同じ初戦の相手、そして勝てば春の甲子園で準優勝した実業と当たる山に入った。初戦では春から俺らが考え行動を続けた成果を見せつけてやろう。そして、プロも注目する選手がいる実業への挑戦権をもぎ取ってやろう。」

胸を熱くする部員達の「よぉうし!」の声が揃って狭い部室に反響する。

「背番号を渡します。呼ばれたら前へ。」
突然の発表で緊張が走る。

大抜擢はあるのか。エースナンバーは誰がつけるのか。1年生でメンバー入りする者が現れるのか。それぞれで思考を巡らせる短い時間。

1番から順に名前が呼ばれていく。

5番と13番、15番の名前にはどよめきが起こり、18番までを渡し終えてキャプテンが再び口を開く。

「春負けた時、皆んなで真剣に話し合ったとおり守備を重視したメンバーです。1桁番号の連中はレギュラーの自覚を持ち、2桁番号の連中は最後までレギュラーを蹴落とすくらいの覚悟で、背番号が当たらなかった連中は自分の役割を考え、それぞれ練習に臨んで欲しい。」

5番は春にはメンバー外だった2年生の名前が呼ばれた。13番には1年生の投手が抜擢された。

5番を剥奪された選手への同情の念が場を包む。
それは誰よりもストイックに野球と向き合い、頼れるスラッガーとしてチームを支えてきたキャプテンの背番号だったからだ。

10番、11番、12番、13番、14番、、と
なかなかキャプテンの名前が出てこない空気に、部員一同の頭に「まさか」がよぎる。

そして15番の時に「俺!」と声を上げるキャプテンに安堵する一同。

チームで唯一ホームランが狙えるスラッガー。これまでは得点源として活躍してきたキャプテンだったが、春の大会ではノーヒット、守備では2エラーと精彩を欠いていた。

元々守備は不安定なタイプであった。加えて、本人の野球に対する情熱や流した汗とは裏腹に持ち前の打撃もこの1か月で不調が続いていた。

チームで決めた方針は守備型のメンバー選出。
本人の中では当たり前のように5番を空け渡す考えがまとまっていた。

一度負けた相手への闘志が高鳴る。ここからの2週間、選手達が練習で思い描くのは商業のエースが投げる球の軌道。
異常に足が早い1番バッター。3人とも左打席のクリンナップ。(3番4番5番の強打者の並び。)
悔しい思いをした分、想像も容易い。

練習では背番号が渡された選手のみが実践。他はボール拾い、球出し、ケースノックのランナー役、打撃練習用の投手、守備練習の補助といった裏方に徹した。

そして来たる初戦。延長11回の末、2対1のサヨナラで勝利を飾る。

守りに守り抜いた勝利だった。
スコアボードには0が並び、キャプテンの代わりに5番を付けて出場していた2年生も好プレーの連発で、幾度となくピンチを救っていた。

春と比べれば、狙い球を絞る練習の成果もあり、ヒットが飛び出す場面も増えた。しかし、そこに連打はなく、1点が遠い展開が続いていた。

そんな中、やっと試合が動いた9回表。
商業に1点を先制されてしまう。
後がなくなった9回裏最後の攻撃、これまで采配にも沈黙を保ってきた「瞑将」樋口監督の一声がベンチに響く。

「守るべき者が守り、打つべき者が打つ。代打。行ってきなさい。」

満を持して登場したのが15番を付けたキャプテンだった。

4打席ノーヒットに抑え込まれた春の大会。
対するはあの時と同じエースピッチャー。

ベンチ、スタンドからの大声援を纏ったキャプテンが大きな深呼吸をして左打席に立つ。

初球の直球をファール。
2球目の変化球を空振り。
ここで追い込まれるも
3球目、4球目を見極めた。
そして5球目の直球だった。

3年間の全てを込めたような力強いスイングはバットの真芯でボールを捉え、その打球は見事なまでの放物線を描き、ライトスタンド中段に突き刺さった。

総立ちのベンチ、スタンドそして父母会。
土壇場で途中出場のキャプテンが同点に追いつく一発を放った。

試合は延長戦へもつれ、11回裏に商業エースが降板して投手が交代したことを機に押し切って勝利を収めた。1ヶ月半磨き続けてきた、球種を絞った攻撃が功を奏し、最後は連打が生まれていた。

春の大敗から、皆んな真剣に意見しあったミーティング、立てた新方針、絶え間ない努力、勉強との両立、自分らで決めたやり方を信じた結果が最高の形となった。

指導を受ける受動型の野球ではなく、考え行動した末に掴み取った勝利への喜びは他には変え難く、自然と涙が溢れる選手も多かった。

なにより代打とは言え、「瞑将」樋口監督が采配を振るった事に選手達は驚きを隠せなかった。

普段から采配も含めて口を出さない樋口監督。
選手の交代、サインプレーなど、試合中の采配は全てキャプテンに委ねられていた。

しかし、あの場面での代打。
試合後に樋口監督が選手らに言う。

「背番号が当たらなかった選手も含め、全員があの場面ではキャプテンの高崎が出るべきだと思っていたはず。本人は本人に采配を振るう経験が不足していた。あの采配は私の采配ではなく、チームの意思です。そうですよね?みなさん。」

一同がうんうんと頷く姿を見て、堪えていた涙が溢れる高崎。

こうして2回戦へ駒を進めたが、立ちはだかるのは春の甲子園準優勝校の実業高校。

これまで硬めてきた守りも、ホームラン連発の空中戦では対応出来ず、あれよあれよと試合が進み、気づけば10-0で負けていた。コールドゲームだった。

選手の目に涙は見られなかった。
何故なら、初戦を突破した直後のミーティングで2回戦に対する新たな方針を決めていたからだ。

その方針とは、これまで考えて行動し続けてきた自分たちの力が強豪校にどれだけ通用するのか「試し合う」ことを第一に。勝ち負けは二の次。

なので、どれだけ劣勢な状況でも、逆転にはこだわらない。点差によらず、これまでバントに注力してきた選手には送りバントのサインを出す。盗塁に磨きをかけ続けてきた選手には盗塁のサインを出す。控えとして腕を磨き続けてきた投手には敢えて満塁のピンチで登板させる。凡退したら負けが確定する場面にはフルスイングが持ち前のキャプテンを代打で登場させる。

通用しなかった事がほとんどではあったが、個々人が自信のある分野を試す事ができた。そして何より、強豪校との力量差を肌で感じ、全て良き経験として吸収した大敗となった。

その晩。

「啓太は引退した日も勉強かい。母さん先に寝るね。」

「うん。0時まではやるよ。それと引退はしないよ。」

「え?明日も2年生の練習に行くの?」

「いいや、俺は東大で野球をやる。だからここで引退とはならない。ま、東大落ちたら引退かね。」

少しの沈黙があり、啓太は一つ大きなため息をつく。

涙ぐむ母。
「啓太、偉かったね。」

父母会と同じスタンドから応援していた啓太の背中に背番号は付いていなかった。

「文武両道、文武両道って、簡単に言うけど本当に大変だった。」少しづつ涙ぐむ啓太。

「偉かったね。」と小さく手を叩いて鼻を啜り、声を震わせる母。

高校3年間、練習試合での登板はあったものの、公式戦での登板は一度として叶わなかった中瀬啓太。ここ2ヶ月はチームの打撃練習用投手として腕を振っていた。

18人のメンバーの内、投手の枠は4つ。
啓太は甘く見積もってもチーム内の投手としては6番手。中には別のポジションも守れたり、打撃のセンスがある投手もいたため、投手としてしか力になれない啓太はメンバーから外れ、下級生がメンバーに選ばれていた。

ぐしゃぐしゃに濡れた声で啓太が言う。
「母さん、弁当作りに、ユニフォームの洗濯、毎日毎日ありがとうね。特にユニフォームなんて自分で洗って当然のはずなのに。」

「いいの。」と流れる涙を堪えられない母。

「試合にも出られなかったよ。ごめんね母さ、」

「いいのいいのいいの!」啓太を抱きしめる母。

「啓太が一生懸命頑張ってたから、母さんも毎日啓太のユニフォームを洗ったの。毎日弁当を用意したの。その時間、あなたは一生懸命勉強してたじゃない。努力してたじゃない。」涙と鼻水で籠る声を大にして話す母。

「啓太が練習用のピッチャーとして、一生懸命投げ続けたから、高崎君はホームランを打てたんだと母さんは思っている。」

シクシクと涙を流して言葉が出ない啓太。

「母さんね、あの一本は啓太が打った一本だとも思ってる。だから、自分がやってきた事に誇りを持ちなさい!」

抱きつく母の手を優しく振り払い、ベットにうつ伏せに倒れ込む啓太。

枕に顔を突っ伏したまま、声を上げて泣き出す。
本当は練習用の投手を託されたその日に流したかった涙が今溢れ出す。

夏に向けてチームの機運が上向きになったその時に泣いてなどいられなかった分、その悔しさも上乗せして啓太の心を締め付けた。

チームへの恨みなんか一つもない。
皆んなで話し合って決めたこと。
上級生という理由だけでメンバー入りする事ほど虚しい事はない。あのミーティングまでに結果が出せず、周りから実力を認められなかった事が全てだった。それは分かっている。分かっているが、だ。

練習用の投手として投げている時間。
家から練習に向かうまでの時間。
自分の机で勉強をしている夜の時間。

この2ヶ月の間は常に悔しさで満ちていた。

それでも笑顔と元気を忘れる事なく、チームのために腕を振り続けた啓太。

自分の中で高校野球が終わってしまった事に区切りをつけられずにいた。

涙を拭いて鼻をかんだ母が口を開く。
「啓太!東大に入って野球をやるって言ったよね?今までの啓太なら泣いてる暇も惜しんで勉強をしたり、走りに行ったりしてたはずだよ!後ろばっかり見て泣いている啓太は啓太らしくない!」

荒ぶる呼吸を落ち着けようとする啓太。

「いつまでも泣いてるなら、ユニフォーム洗いに行きなさい。前進していない啓太の為に洗濯は出来ないわ。」

ようやく起き上がる啓太が口を開く。
「この悔しさを晴らす為に東大で野球を続ける。その為にはもっと勉強しないとならんから、母さん悪いけど、洗濯お願いします。」

「はいよ。」と笑う母。

幼い頃から野球も勉強も「1番」を求める中瀬啓太。中学こそそれを達成して来たが、進学校では難航が強いられてきた。それでもここでの悔しさをバネに日本で1番の大学でエースナンバーを背負う事を堅く誓い、しばらくはボールをペンに持ち替えて前進していくのであった。

そして強豪校は3日後の3回戦へと駒を進めた。

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