地方映画史研究のための方法論(8)装置理論と映画館① ——ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト
「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。
調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。
第8回から10回にかけては、ルイ・アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」論と精神分析の理論を土台とするジャン=ルイ・ボードリーの「装置」理論を取り上げ、「映画館」で映画を見る経験が主流の映画研究においてどのように論じられてきたのかを見ていく。
さしあたり今回は、ボードリーが依拠したルイ・アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」論を概説し、映画研究における「装置」理論の前提や背景を確認しておきたい。
ルイ・アルチュセール
ルイ・アルチュセール(Louis Pierre Althusser、1918- 1990)はフランスの哲学者。パリの高等師範学校を卒業後,哲学教授の資格を取得して、母校の哲学科教員に就任。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、ミシェル・セールなど数多くの哲学者を育てた。マルクス主義哲学に関する研究で知られ、「重層的決定」「認識論的切断」「国家の抑圧装置/国家のイデオロギー装置」など重要な概念を数多く提示した。主著に『マルクスのために』 (1965年) 、『資本論を読む』 (1965年) などがある。
「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(1970)
今回取り上げる「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」は1969年1〜4月に執筆され、1970年6月に『パンセ』151号に掲載された。
警察や軍隊などの暴力と抑圧によって支配する公的な権力(国家の抑圧装置)に加えて、家族や学校、メディアなど、私的な領域や日常生活の中に浸透して作動する権力(国家のイデオロギー装置)の存在を明るみに出したアルチュセールの論稿は、狭義の国家論や権力論として受け取られるのみならず、教育や芸術など様々な分野の研究者に影響を与え、活動家や芸術家の具体的行動を支える理論としても繰り返し参照されてきた。
映画の世界でも、次回取り上げる予定のジガ・ヴェルトフ集団(ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン)が1969年12月に制作した『イタリアにおける闘争』には——発表時期は前後しているが——同論からの直接的な引用や影響が見られるし、また次々回に取り上げる予定のジャン=ルイ・ボードリーによる「装置」理論では、アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」論と精神分析の理論を土台として、映画館で映画を見る経験の理論化が図られている。
「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」の邦訳は、1972年の『思想』8・9号に西川長夫の訳が掲載され、その後『国家とイデオロギー』(福村出版、1975年)に収録された。その後も『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』(柳内隆 訳、ルイ・アルチュセール、山本哲士、柳内隆 著、三交社、1993年)、『再生産について——イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』(西川長夫、伊吹浩一、大中一彌 訳、平凡社、2005年)などの書籍で邦訳を読むことができる。今回は『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』所収の柳内隆による訳を参照した。
生産諸条件の再生産
(A)生産諸条件の再生産
マルクスが述べるように、いかなる社会構成体も、自らを存続させるためには、生産を行うと同時に、(A)生産諸条件(その生産を可能にするための様々な条件)の再生産を行わなければならない。
その社会構成体が支配的な生産様式に依存しているとするならば、生産は規定の(B)生産諸関係(その生産の過程に関わる人々の社会的関係の総体)の中で、(C)生産諸力——(c1)生産諸手段 と(c2)労働力を指す——を作動させることによって行われる。従って(A)生産諸条件を再生産するためには、この二つ——(B)生産諸関係と(C)生産諸力——が再生産されねばならないことになる。
(C)生産諸力の再生産
(c1)生産諸手段の再生産
(C)生産諸力の再生産を考えようとするとき、(c1)生産諸手段の再生産については、すでにマルクスが『資本論』第2巻において証明を果たしている。
生産諸手段の再生産をひとまず一企業の立場から描き出してみると、何かしらの商品を生産するためには、原材料や固定設備(建物)、生産器具(機械)など、使用する必要があり、消耗するものを毎年どれくらい補填するべきかを検討しなければならない。
だがマルクスは、生産諸手段の再生産の問題は一企業だけで完結するものではないことを示した。例えば、紡績工場で毛織物を製造する資本家X氏は、その原材料や機械などを再生産しなければならないが、その原材料や機械を生産するのはX氏本人ではなく、国外の牧畜業者Y氏や、金属加工業者Z氏など別の資本家である。そしてY氏やZ氏も、X氏が求める生産物を製造するために、自分自身の生産諸条件を再生産しなければならない。こうした過程が無限に続いていき、やがては世界市場もしくは国内市場において、再生産のための生産諸手段の需要が供給によって満たされる規模にまで至る。
(c2)労働力の再生産
だが(c1)生産諸手段の再生産について論じるだけでは、(C)生産諸力の再生産を論じたことにはならない。それを検討するためには、(c2)労働力の再生産についても考える必要がある。
労働力の再生産は、労働力に自らを再生産するための物質的手段を与えること——要するに、労働者に賃金を与えること——によって保証される。
労働者に与えるべき最低限の賃金は、まずはその労働者がふだんの衣食住に困ることなく、毎日職場に出向ために必要不可欠なだけの金額である。またそこに、子どもの養育と教育に必要な金額も加算される。
だが労働力の再生産のために必要なのは、以上のように生物学的な意味で生きていける最低賃金だけではない。マルクスは、イギリスの労働者にはビールが必要で、フランスの労働者にはワインが必要だと指摘した。労働力の再生産に必要な条件は——その時代や地域に生きる労働者が何を求めるのかに左右されるという意味で——歴史的に変化する。
またここで言う「最低限」は、労働者階級が必要としているものを資本家階級が認知することで決定されるのではなく、プロレタリアの階級闘争——労働時間や賃金削減に対する闘争——によって決定される。マルクスは階級闘争を歴史的に必然の過程であると捉えているので、その意味で、労働力の再生産のために最低限必要なもの(賃金)は、二重に「歴史」的に決まるものだと言える。
ある労働を行うためには、専門的な知識や技術を持った労働者が必要なこともある。そうした多様に「資格付け」された労働力の再生産は、現場での見習い期間だけで保証されるものではなく、生産の外側——資本主義の学校システムやその他の制度——によって保証されることになる。
学校において、人は様々な知識や技術を学ぶのに加えて、階級支配によって確立された良い慣習や遵守すべき礼儀といった秩序・規則を同時に学ぶ。言い換えれば、それは支配的イデオロギーに隷属させるための教育である。
国家のイデオロギー装置
(B)生産諸関係の再生産
続いてアルチュセールは、(B)生産諸関係の再生産を論じる。生産の過程に関わる人々の社会的関係の総体は、いかにして再生産されるのか。この問題に取り組むために、アルチュセールはマルクス主義における国家理論を取り上げる。なぜなら、国家とは(B)生産諸関係の再生産の政治的諸条件を保証する役割を果たす装置であるからだ。
マルクス主義の国家理論
マルクス主義の国家理論において、国家は抑圧装置であると考えられてきた。国家(の抑圧)装置は、支配者階級が労働者階級を支配し、彼らを資本主義的な搾取に従属させようとすることを暴力や抑圧によって保証する役割を担う。こうした国家(の抑圧)装置には、警察、裁判所、監獄、政府、行政機関、軍隊などが含まれる。
ここで重要なのは、国家権力と国家装置を区別しなければならないということである。フランスのブルジョワ革命やクーデター、帝政の没落など、過去には様々な国家権力が誕生したり崩壊したりしてきたが、国家装置は変化することなく、同一のままで存続してきた。
労働者階級(プロレタリアート)による階級闘争の最終目標は、現存するブルジョワの国家装置の破壊である。そのための第一段階として、まずは国家権力を奪取して、プロレタリアの国家装置に置き換える必要がある。そして次の段階として、国家権力とすべての国家装置を破壊するという、よりラディカルな過程へとつき進まねばならないのである。
国家のイデオロギー諸装置(AIE)
アルチュセールは、以上のようなマルクス主義の国家理論をさらに発達させるために、国家権力と国家装置を区別するだけでなく、国家装置をさらに二つに分けて考えるべきだと主張する。具体的には、マルクスが示した①国家の抑圧装置(Appareil d'État)に加えて、新たに②国家のイデオロギー装置(Appareil idéologique d'État)という概念を提唱する。
①国家の抑圧装置(AE)は、先にも確認したように、警察、裁判所、監獄、政府、行政機関、軍隊などが該当する。それらは主に——少なくとも、その限界においては——暴力によって機能することを特徴とする。国家の抑圧装置は、権力を持った階級の政治的代表者の指導によって組織された全体を構成しており、「公的」な領域に属している。
②国家のイデオロギー装置(AIE)は、イデオロギーによって機能している。宗教(教会制度)、家族、法、政治、組合、情報(新聞、ラジオ、テレビなど)、文化(文学、美術、スポーツなど)、その他、多様なAIEが存在する。
一つの国家装置が存在するなら、それに対して複数の国家のイデオロギー装置が存在する。だがそれらを全体として構成する統一性が直接確認できるわけではない。国家のイデオロギー装置はそれぞれが相対的に自律しており、分散して存在する。
また国家のイデオロギー装置は、大部分は「私的」な領域に属している(そもそも公私を区別すること自体が、ブルジョワの支配階級にとって都合の良い捉え方である。国家の領域は公私の区別を免れているどころか、むしろすべての公私の区別の条件さえある)。
国家のイデオロギー諸装置もまた、支配階級のイデオロギーによって保証されている。だがそこには様々な矛盾も含まれており、権力階級は——国家の抑圧装置ほどには——国家のイデオロギー装置を完全な支配下に置くことはできない。過去の支配階級が長期にわたって維持してきたイデオロギー装置が残存していたり、被搾取階級が国家のイデオロギー装置に潜む矛盾を利用して抵抗を行い、自らの主張を表明する手段や機会を見出すこともある。すなわち、国家のイデオロギー諸装置は、階級闘争における獲得目標であるだけでなく、それ自体が階級闘争の場となっているのだ。
一種の「分業」による「生産諸関係の再生産」の保証
アルチュセールは国家の抑圧装置(AE)と国家のイデオロギー装置(AIE)を区別した上で、あらためて、(B)生産諸関係の再生産がいかにして保証されるのかという問題に立ち戻る。
国家の抑圧装置の役割は、(B)生産諸関係の再生産の政治的諸条件を本質的に保証することである。だが実際のところ、(B)生産諸関係の再生産の大部分を直接的に保証する役割を果たしているのは、国家のイデオロギー諸装置のほうである。そこで国家の抑圧装置は、自らの再生産を行おうとするだけでなく、国家のイデオロギー諸装置が作動するための政治的諸条件を抑圧によって保証し、その再生産を行うことにも尽力する。こうした一種の「分業」によって、二種類の装置は(B)生産諸関係の再生産を保証し、継続させようとする。
国家のイデオロギー諸装置には様々な種類があり、互いに矛盾や混乱を含んでもいるが、いずれも現在の支配階級のイデオロギーによって統制され、究極的には(B)生産諸関係の再生産という同じ結果を生み出す働きをする。言い換えれば、それらはいずれも資本主義的な搾取諸関係の再生産に貢献する。
アルチュセールによれば、かつては「教会」と「家族」の組み合わせが支配的なイデオロギー装置としての役割を果たした。それが今では、「学校」と「家族」の組み合わせが支配的な役割を果たしているという。学校は、幼稚園以後のもっとも多感な時期の子どもたちが週に5〜6日、1日8時間もの間、義務的な聴講を課せられる場である。そして語学・科学・文学などの様々な知識を与えられると共に、道徳・公民教育・哲学など、より純粋状態にある支配的イデオロギーを直接教え込まれるのだ。
イデオロギーの理論
イデオロギー一般に関する理論の素描
続いてアルチュセールは、そもそも「イデオロギー」とは何かを問う。
イデオロギーはもともと、フランスの医師・哲学者ピエール・ジャン・ジョルジュ・カバニスや同じくフランスの哲学者デステュット・ド・トラシーらによって「観念の科学」を意味する語として考案された。だがそれから約50年後、マルクスがそこに別の意味を与え、「人や社会集団の精神を支配している諸々の観念や様々な表象の体系」(p.58)としてイデオロギーを定義した。
だがアルチュセールは、マルクスが示したイデオロギーの理論には不十分なところがあり、いまだ「マルクス主義的」な理論にまで練り上げられてはいないと指摘する。そしてアルチュセールは、いくつかの命題を挙げて、自らイデオロギーに関するマルクス主義的な理論の素描を試みる。
イデオロギーは歴史をもたない
第一に、アルチュセールは「イデオロギーは歴史を持たない」という命題を挙げている。
『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスはイデオロギーを「純粋な幻想、純粋な夢、すなわち無」(p.61)と捉えていた。マルクスにとってイデオロギーとは、フロイト以前の研究者にとっての「夢」にも似た想像上の構築物であり、無意味で空虚なでっちあげである。物理的な肉体を持って生きる諸個人の具体的な歴史に対して、そうした現実の名残でしかない空想であるイデオロギーは、そもそも実在しないし、歴史も持ちえないというわけだ。
だがアルチュセールは、こうしたマルクスのイデオロギー論に修正を加え、「イデオロギーは歴史をもたない」という命題を別の意味に捉え返そうとする。
フロイト派の精神分析では、「無意識は永遠である、つまり無意識は歴史をもたない」(p.64)と考える。ここでいう「永遠」とは、無意識が、歴史の広がりの中でその形態を変えることなく遍在してきたことを意味している。同様にイデオロギーも、その特質として常に共通する構造と機能を備えているならば、「イデオロギーは永遠である、つまりイデオロギーは歴史をもたない」と言うことができるだろう。
想像上の「関係」の表象
では、イデオロギーが普遍的・非歴史的に備えている構造と機能とは具体的にどのようなものなのか。アルチュセールはこの問いに対して、二つの命題を挙げる。
一つ目は「イデオロギーは諸個人が彼らの現実的諸条件に対してもつ想像上の関係の表象である」というものである。
イデオロギーはあくまで幻想であり、現実と完全に一致したものではない。このことは誰もが認めているが、他方で私たちは、そうした世界の想像的な表象に基づき、それを解釈することで、この世界の現実そのものや、人間の存在の諸条件を見出そうとしている。
だが、なぜ現実を直接的に見るのではなく、そのような迂回をしなければならないのか。アルチュセールは、実はそこで人々が想い描いているものは、現実の世界や人間の存在諸条件そのものではなく、そうした存在諸条件に対する人間の「関係」なのだという。そして、こうした想像上の関係を表象したものがイデオロギーと呼ばれるのだ。
実際行為(プラチック)——イデオロギーは物質的な存在を持つ
続けてアルチュセールは、イデオロギーは常に装置あるいはその実際的作動(プラチック)の中に存在していると述べ、「イデオロギーは物質的な存在を持つ」という二つ目の命題を提示する。
ここで言われる物質的存在とは、路上の敷石や小銃のような意味での存在ではない。例えば「神」や「正義」を信じている人は、そうした信仰もしくはイデオロギーを備えた「主体」として振る舞い、実際(プラチック)の行動を選択し、一定の規則化された慣習行為(プラチック)を行う。ミサに出席するために教会に赴き、跪いて祈り、告白し、贖罪する。また彼は己の信じる「正義」に則って法の規範に従い、もしもその法規範が破られたら、抗議したり、デモに参加したりするだろう。このように、個人が自由な主体として選んだはずの一連の実際行為(プラチック)こそが、その人が依存しているイデオロギー装置によって行為させられている行為なのだ。仮に、その人が自分の信じる行動を行わなければ、それはその人にとって「良くないこと」であるか、もしくは別のイデオロギーに基づいて行動しているのである。
実際行為(プラチック)は儀式によって規則化されており、儀式を通してイデオロギー装置の物質的存在に刻み込まれる。哲学者のパスカルが「ひざまずき、祈りの言葉を口ずさみなさい。さすれば神を信じよう」(p.77)という言葉で事物の秩序をスキャンダラスに転倒させてみせたように、アルチュセールはイデオロギーを観念として語るのはなく、実際行為(プラチック)の具体的な活動(アクト)に刻み込まれたものとして捉えようとするのである。
イデオロギー的再認と「呼びかけ」
そしてここで決定的に重要なのが「主体」という用語である。アルチュセールは、イデオロギーは具体的な「主体」を対象としてしか存在しないと指摘する。すなわちイデオロギーとは、具体的な諸個人を「主体」として構成する機能の呼び名なのである。
続けてアルチュセールは、イデオロギー的再認の機能に言及する。例えば友人Aが我が家を訪ねてきた時、こちらがドア越しに「どなたですか」と問いを発すると、相手は「私です!」とだけ答える。この応答が成立するのは、私にとってそれが他の誰でもない友人Aであることが明白であるからだ。このようにして、私は友人Aと主体としてイデオロギー的再認の儀式を絶えず実行している。この儀式によって、互いがそれぞれ他に替えのきかない具体的で個別な主体であることを保証しているのだ。
そしてあらゆるイデオロギーは、「主体」としての諸個人に向けて呼びかける。例えば誰かが警官に「おい、お前!」と呼びかけられたとき——警察は国家の抑圧装置なので、厳密にはあまり良い例ではないのだが——その個人は振り向くだろう。こうして、その人は「主体」となる。なぜなら、呼びかけられたのは他の誰でもない自分自身であると本人が認めたからだ。
このように、イデオロギーが個人に対して働きかけることを、アルチュセールは「呼びかけ」という概念で示した。諸個人は様々なイデオロギー装置からの呼びかけによって、「主体」へと変えられていく。別の言い方をすれば、「主体」へと服従させられる。
キリスト教的な宗教イデオロギー装置において、「主体」としての諸個人に呼びかけるのは「神」——人間とは「別種の唯一かつ完全な主体」(p.95)——であり、これをアルチュセールは「大文字の主体」と呼ぶ。「大文字の主体」は絶対的な中心性を持ち、あらゆる「主体」の鏡のようなものとして存在する。諸個人を「主体」へと服従させると共に、自らも「主体」を必要としているという、反射的な二重性を備えている。
「大文字の主体」は「かくあれかし(アーメン)」と呼びかけて、あるべき理想の「主体」の姿を差し示し、それに従いさえすればすべては上手くいくのだという絶対的保証を与える。宗教イデオロギー装置に限らず、すべての国家のイデオロギー装置の「呼びかけ」は——たとえ「神」という語が用いられていなくても——こうした「大文字の主体」からの呼びかけなのである。
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