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短編小説『水辺の事語』

序章 流れ

拙宅の近くに川がある。時として勢い急であるが平静は比較的穏やかな方であろう。幼少期よりその川は遊戯に適した場所であるため親しんでいる。今でこそ泳いだり飛び込んだりはしはしない、がそれでもその流れを眺めに行く事はしばしば。殊更に美景と感じているのではないが、とはいえ、見慣れた水の流れは私に心の平安を与えてくれる。
そんな出自もあってか私は水辺をいつの間にか好む様になった。よしんば私がメトロポリタンの中心部を往時の遊び場としていたのなら、その場こそが私に心の平穏を与えていた事だろう。
折々の散歩中で発見した景色をいちいち記憶に留め続けるのは言うまでもなく不可能だ。しかし、立ち止まってかつてを回顧した際、湧き出る景色がある。それは勝景では必ずしもありはしないのだが、それにしても心に残った記憶であることには変わりはなさそうだ。私はまず真っ先に水辺を思い浮かべる。意識の表層には流れがある。

第一章 感傷の秋

武蔵野の面影を探し求めていた時期があった。古の名所図会や西行が歌を詠んだ様な光景を。そうして見つけたのが小手指であった。
晩秋、一面の田畑そして丘に立ち並ぶ雑木林。紅葉は既に見頃を過ぎ最後の葉が数枚、辛うじてくっついている。強風さへ吹けば今にも舞い散ってしまいそうである。
一面見渡せる武蔵野台地。一際こんもり茂った林の中に大きな神社がある。神社に至る通り道、その路傍には繰り返された土地改革で隠されてしまった水の流れが僅かに顔をのぞかせていた。その一条の流れを辿っていくとやがて民家の崖下に流れる水域を発見したのである。今は誰も見向きもしないであろう草臥れた流れ。私はそれに憐れみを覚えた。そして独りそれを眺めたのである。
水の流れる音は殆どない。ただ響くは秋風が梢を揺らす音ばかり。不図、一枚の葉が流れて来た。何処ぞから運ばれて来た真っ赤な紅葉。弱々しい流れはまた何処ぞへと辿り着くのだろうか。

人知れず葉を撫で行けり秋の水

第二章 桜と雨

春は殊更好きな季節ではありはしないのだが、それにしても世が挙ってこの季節を賞賛したくなる気持ちは理解できなくもない。新しい出会い、未来への期待。あとは何であろうか。
兎も角、物事の始まりとして花咲き誇る春の時節は全く適した一時である。
巡り合い。それは不思議な者だ。それを拒んでも来てしまうのである。私とて二度と浮かれた春は迎えない、と何度誓った事であろうか。されど春は来たりて又、無常にも去りゆく定め。結局、この世は別れしかありはしないのか。
井伏鱒二は古の漢文を訳して曰く
「花に嵐の例えもあるぞ サヨナラだけが人生だ」
そう言っていた。私は長くその様な事も思い意気消沈としていたのだがどうもそうとは限らないらしい。それに応える形として寺山修司は言った。
「さよならだけが人生ならばまた来る春は何だろう」
人はそれぞれの人生を点でバラバラに歩み色々な人に巡り合い続けるのだろう。今は、そう思いたい。
彼女はとても美しい人だった。長い黒髪に大きな目。そして優しいその性格は彼女の名前を表している様だった。
桜(それが彼女の名前である)は私の五つも下の女であった。当時私は十八であったから彼女は十四だ。そんな彼女に恋をするのは(それが恋だとわかるまで長い時を要した訳であるが)些かどうだろうとも思った。
彼女は私と同じく散歩が趣味であった。ただ私と違うところがあった。彼女は己が名が、それを決定づけたのか分からねども散歩をして花々を見る事、花々を愛でる事を趣味としていた。
春の一日。私は彼女と散歩に出かけた。吉祥寺の駅で降りて何処か良い公園に行こうか、という話になり歩みは善福寺公園に向かった。その日は平日でありながらも井の頭公園は雑踏が甚だしいと考えたからである。駅から公園までは些か距離がある。私は折々に彼女の身を気遣ったが彼女は楽しそうに喋りながらしっかりと歩んでいた。善福寺公園に近づきつつある住宅街にてて私は空を仰ぎ見つつ青空が分厚い雲に侵食され行く事を危ぶんだ。その憂慮は見事的中。雨滴は途端に落ち続けやがて夕立の様な形なった。私は彼女の手を取り走り出した。
適当な四阿を見つけそこに留まる事にした。雨音は激しくなる一方。彼女はハンカチで持って拭っている。私たち以外に人は居なかった。
「雨だ」
と私に隣に座っている彼女が言う。
「うん。雨」
そうつぶやく彼女の瞳はかつて私が愛した人と同じであった。何処までも遠くを見て何処までも遠くにいる人。思い出さずにはいられなかった。私はここで初めて桜に恋をしていることがわかった。そしてそれは何処までも叶えられない恋なのだと、そう悟った。
「じゃあね」
夕暮れの商店街で私はそうやって言って別れた。
季節は深まるにつれ彼女に対しての恋心も深まっていったのだが土台叶わぬ岡惚れ。流れに逆らわぬ様、ただ遣る瀬ない思いを孤悲と一緒にそのまま流しやった。
やがて桜は散った。

美しき命の果ての桜哉

第三章 冬の流れは瀟々と

最も詩趣ある季節は冬ではあるまいか。殊更、厳寒の闇夜を独り歩む時なんぞ。それは私の最も好む一時と言っても過言ではないのだ。
電車は恰も落ちゆく夕日の中に入り込む様に走っていた。私は電車に乗っている。揺られて時折その暖かさにまどろみつつ。何か、こう、かつてまだ充分に幼かった頃に得られた至極の安心を感ずる。未来もそして過去さへも無意味かつ無関心であったあの頃の様な。
暮れかかる東京の街の人々は闇夜を、それを長いことずっと待ち侘びていた様に賑わっていた。これから祭りが始まるのだ。銘々の顔色にはそんな相さへ浮かんでいた。私は彼らと共にはしない。勿論したくないと言うと大きな誤りになるが今はまだたった一人の孤独を味わいたく思ったのだ。
都会の闇の底を流れる隅田川は汚れさへしたものの流れを辞めたことはない。幾時代の数々の出来事をただ沈着に見つめていた。そして何ら意見することもなく来る者も去る者も平等に受け入れてきたのだ。
吾妻橋の欄干から身を乗り出して隅田川の冷たい流れを見つめる。
或はこうして独り冬空の下、川の流れをじっと見ていると自殺を企図せし者ではあるまいか、と道ゆく人に訝しむられるかもしれないが豈図らんや、車も人通りもまばらだった。何人も私を察知する者なのいない様だ。しかしそれで良い。居ながらにして居ない。時にはそんな状態も良いだろう。
遠くのスカイツリーは光る。そして建物も。遠い遠いあの日の様に。
あたりは静寂。月の音さへしそうな程。流れる川の音。流れる闇の水底に私の後悔が写っては消えていたのである。
明日は雪の予報だ。

墨水の流れに映る冬の街

第四章 夏の川の流れ

刺す様な日差し。されど朝夕は厳し。乾燥は甚だしく反射する光線は目に痛し。夏。しかし日本ではない。
フランスであった。パリであった。
ここに着いたのは四日前。初日こそ旅の疲れで眠れたのだがそれ以降は日本といる時と何ら変わらず不眠の連続。夜間は半睡半覚状態。それが幸いにも面白き夢を喚起しているのだが残念ながら決まってすぐ忘れる。かと言って記録しておく程でも無い。
カーテンの向こうが徐々に明るくなっていた。今は…時計を見ると五時前。正確には四時五十分。起きよう。慣れぬベッドから起き上がる。空調が壊れているのか分からぬがどうもこの部屋はカビ臭い。漂うと言うほどでも無いが夜の静寂は感覚を過敏にする。私はカーテンを掻き分け観音開きの扉を全開にした。
眼下に広がる石畳。袋小路のこの道は四十メートルほど続いて別の建物に突き当たる。コの字に石造のアパルトマンが取り巻いている。モーリス・ユトリロの世界がそのまま広がっているのだ。その光景は全く東京とは様相を異にして最初こそ未だ己は夢の中にいるのではあるまいかと訝しんだものだ。外へ出よう。
バスティーユ。私の旅荘はかの様な名前が付されている。フランス史に通暁していないのでこの地のことはフランス革命時のバスティーユ監獄の件より深くは知らぬ。
夏だのに朝夕は寒い。日本の晩秋の様な気候。半袖では到底、過ごし難い。朝日は東から注ぎ込みバスティーユの塔(七月革命記念柱)を金色に眩しく輝かせている。
早朝のパリは街の隅々に至るまで静まり返っている。私は運河と思しき窪地の側を歩く。人気がない。いつからか建っているのか定かではない古びたアパルトマンが立ち並んでいる。あの路地の死角から妖気がする。私は図らずもジョルジョ・キリコの絵画を思い出した。大凡形而上学的な何かがこの街には漂っているのだろう。
運河を抜け眼前に現れた大きな川。セーヌの流れである。朝日に照らされ揺らめく水面。見慣れぬ鳥が空を行く。私は流れに従って石畳を歩み出す。一際目立つコンクリの四角い建物は美術館。ポンピドゥセンターと名付いてる。進行方向左手に見えてる塔はかの有名なノートルダムの大聖堂。
しばし遠景を見つつ楽しんだ後、私は階段を下り川端を歩む事にした。静かな流れが近しくなった為より耳立つ。さらさら流れる異国の流れを繁々と見つつされどこの流れ、東京の流れとそう多くは違わない。対岸に釣りをする白髪の白人がいる。なぜだか寂しくなった私はその白人目掛けて静かに手を振った。すると彼も彼で手を静かに振り返した。ささやかなコミュニケーションも束の間。私も彼もすぐさま今し方の容態に戻った。
私は歩き続け川端に拵えられた小さな木製のベンチに腰掛けた。
「しかしよ、俺は一体どうなるってんだ」
街がそろそろ活動を始めた。車の音が激しくなり人々の喋り声も耳立っている。
私は寂しさに耐えかねて独言た。何、辺りはフランス語だ。どうで日本語なんぞわかりはしないのだ。徐にポケットから取り出したセブンスター。いつもは吸わぬがフランスは屋外であればどこでも吸えるので折角だからと旅荘近くのタバコやにて購った。
「ボンジュール」
店内は暗くどこに何が置かれているのか分からない雑多な空間。店番をしていた兄ちゃんは二十代ほど。金髪で目の下にやたら濃いクマがある白人である。
「Bonjour」
私を見て微笑んだ男の葉はすでに黒ずんでいた。
「ゴロワーズが欲しい」
私が拙いフランスを用いて言うと男は一寸頷いてどれも同じく黒い箱にが陳列される棚を探した。
「生憎、ゴロワーズは今ないね。マルボロならあるよ」
そう言ってタバコによるリスクを写真入りで説明したマルボロの箱を私の前においた。
「なら、それで構わない」
それをポケットに入れた。
「お兄さん中国人」
「いや、違う。日本人だ」
「そうか、じゃあArigato」
私はベンチでマルボロを一本吸おうと思った。しかし間抜けな事にライターを持っていなかった。ちょうど私の隣に髭が長い老人が座った。
「すみませんがライターを貸してください」
老人はポケットからジッポを取り出し私のタバコに点火してくれた。
「メルシーボーク」
事なきを得て私はタバコを吸った。
「君は中国人か?」
と老人が訪ねて来た。
「いや、日本人」
「そうか」
老人は自分が持って来たタバコを吸っている。私は流れる川の流れを見ていた。
夏の日の出来事。

夏の葉や涼しき影の水面哉

終に記す

小品『水辺の事語』はこれにて筆をおくべきだろう。揮毫当初より水辺を題材にせんとするより他何一つ決めざりし小品である。執筆を進める内、季節を描かんとする欲求愈々高まり、その様に出来た。果たして本小品が読者諸氏の御笑覧に供するや否や。
行く川の流れは何とやら。諸行無常の響きは水のせせらぎにあり。そう思ってみた。流れのままに人生のコマを進めて行くのも悪からざるべし。そして時として運命のままに反乱を企てることも、一つの自然な流れとも言えるだろう。
十一月。日に日に木枯らし巻き立つ中、行こう。今日も水は海に向かって流れている。そしてこの私も未だ昇らざる廬山をいつの日か昇るべくこの時を流れてゆこう。

令和四年壬寅十一月某友誕生日於昇流庵山水散人記




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