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靖国神社と遊就館から考える・・・その2

読まなくていいよ、という割には、横書き文章で読みやすくする工夫をあれこれしてみました。改行多め、段落多め、目次入れーの、見出し増し増し、かなり読みやすくしています、これでも(汗)。

また、以下は靖国神社と遊就館に実際行ってみての、私の主観に基づく考察です。誰をも攻撃、誹謗中傷する意図はありません。

要点

1,靖国神社参拝は私個人にとっては顕彰ではなく慰霊であった。
2,遊就館は戦前の体制追認をする歴史観によって存在している。見る自分が主体的に判断すべきものと考える。
3,主体的判断とは、見た物を自分が学んできた民主主義と平和教育に照査させることを指す。
4,それを私は物差しに例えた。戦争は加害被害の双方向性であり、自虐でも優越でもない、歴史の多面性を見抜く力こそ不動のセンターとして位置される。

1,靖国神社拝殿

さてその日、靖国神社は、確かに泣いていた。という出だしがかっこいいのかとも思ったが、前日から続いて単に一日中雨だっただけ。しかし、靖国神社を参拝するには、こんな訪れる人の少ない静かな日に行くのが正しい気もする。今回は地下鉄の九段下から大鳥居を通って行ってみることにした。
長い参道を進み、拝殿に近づくほどに空気が変わってきて、霊感が強いわけでもないのに、なぜか「誰かがいる」気がしてくるのだ。前回もそうだった。拝殿の前に進み帽子を取り、荷物を傍らに置き、そっと本殿の奥の方を見る。静かな、でも張りつめた空気のなかで、二礼二拍一礼と参拝させてもらった。
ただ、ここで大切なのは、私は祀られている父祖たちへ、「顕彰」ではなく「慰霊」の気持ちを込めて頭を下げたと言うことだ。私たちは、戦争を知らない。だから死を課して、または死ぬまで続ける戦闘によって祖国を守るのだと信じていた、当時の若者たちの気持ちや価値観は、到底わかるものではないし、共有も出来ない。同じ立ち位置にいない以上、我々は知る事は出来ても価値観を共有できない。だから、だからこそ功績を讃える(顕彰)のではなく、彼らの魂を慰霊するのである。
ただ正直言うとそれは、参拝を終えて神社を背に下界へと戻る道すがら、今の参拝はどんな意味があったのだろうと考え生まれた後付けの理屈であって、手を合わせ本殿の方を見たときの私はそんな理屈など考えてはいなかったと言うのが正直なところだ。慰霊でも顕彰でもどうでもいい。戦争で命を落とした父さんやじいさまたちに手を合わせるという、日本人としての素直な気持ちだけだったのだ。

2,遊就館見学

礼拝を終えて「遊就館」へ向かう。見学は一般1000円。おいおい、意外に高いじゃん。まあせっかく来たのだから、ま、いいか。
一階大ホールは無料だそうな。まずいきなりど肝を抜くゼロ戦の実機を見る。まずはここで俺みたいな田舎観光客をビビらせるつもりだな、こんなもんじゃあ驚かねえぞー。でもすごいなぁ。しばし感嘆。次に二階の有料展示室を回る。展示会場はいくつかの部屋に分かれていて、日本近代史の時系列を追って進むように工夫されている。満州事変から太平洋戦争、終戦にいたるまでが、建立時代の展示品に比して圧倒的にスペースを割いていた。一階展示場へ降りる前に、特攻として死にゆく若き兵士たちの書いた遺書を少し読んだ。小林よしりんも書いていたが、彼らの余りの達筆さに驚く。わずか七十数年前の若者が、こんなに美しい字を書いていたのかと思うと、正直ゼロ戦見たさきほどより感心した。今の若者たちに、優秀なるnote読者諸兄に見せてあげたい。勿論、書かれた内容も万感せまるものがある。
比して将軍たちの遺品などを見ても、特になんらの胸に響くものがないというのが正直なところだった。思いは若い兵士たちのみに行く。


一階へ降りて、大展示場へと入る。そこには「艦上爆撃機彗星」、「九七式中戦車チハ」「ロケット特攻機桜花」、「人間魚雷回天」など兵器が並べられこちらをみて雄叫びをあげている。「チハ戦車」はサイパンの土中から掘り出して持ち帰った方、下田さん本人の本を読んでいて予備知識があり、おうなるほど、であった。「彗星」は、八月一五日、終戦を知った宇垣長官を乗せて最後の特攻として死地へと向かったとことで知られる戦闘機だ。展示物からは敗戦間近の頃、それでも必死になっていた日本軍と日本人の姿が目に映るようだ。私はここでもまた、うーむと唸ってしまった。

3,緊張を解きほぐす

さて私はうーむと唸りながらも、写真を何枚か撮り遊就館を出た。未だ降り続く雨の参道を下って、九段下の地下鉄駅近く「中華食堂日高屋」へ入り、緊張の連続でふらふらの頭を休める為に、ビールを飲み始めた。
アルコールが血液と混合し緊張がほどけるにつれ、戦争博物館を見たあとにしては気持が丸で高揚していない、高ぶっていない、逆に、やるせない悲しい気持ちになって来た自分を感じ始めていた。不快とか不愉快と言う気持ちとはまるで意味の違う、すごいんだけどちょっと悲しい気持ち、になってきたのだ。
緊張がすっかり解けた私はこう結論づけた。遊就館は、少し悲しくて切ない施設である。ただあの頃、いいとか悪いとかではなく、私達日本人は必死だった、それが痛いほどわかる、と。

4,私達の持っている物差し

気持ちがそれほど高揚せず、寧ろ悲しい気持ちになってしまった自分を少し考えてみた。
それは私がまがいなりにも戦後の民主主義教育のなかで平和の尊さ、戦争の悲惨さという教育をうけた素地がある、つまり平和教育を受けたという「一つの物差し」を持っている、日本人の一人だからに違いない。
なべて日本の男子は(笑)、ゼロ戦や彗星や戦車を見れば、おーすげえなぁ、と感嘆してしまうだろう。私だって展示場で日本刀(軍刀)を見たときはちょっと欲しいな、と思ったくらいだ。つまり「かっこいいなあ」と一時(いっとき)感心するのは、それはそれでいいと思う。
でも、それでも、だ。でも感嘆したあとには「うーーん、ちょっと」と思ってしまっているのだ。戸惑ってしまう自分がいるのだ。その戸惑いとは何だろうか。
(大切なのはここから)私達は、これらの兵器に乗せ、死を前提にした任務を若者たちに与えた、強大な軍隊と政治家たちが確かにいて、戦前の日本を舵取りしていた事実を知っている。そしてその軍閥や政治家は、大東亜共栄圏という美語の陰で、実は中国東南アジアへ資源調達と植民地化を国策として、西欧列強に劣らない権益を求めていたのだと言う歴史も勉強し知っている。正にその知識こそが、遊就館のような単一な歴史観に彩られた施設を見たとき、首をかしげちょっと違うと思わせている理由なのだ。
私は、その知識の正体は、かっこよく言えば「自由と民主主義」だと思うし、戦後の東アジア諸国の中で唯一持つことのできた国がこの日本なのではなかろうかとも思う。
だから、その物差しを持っている私は、この遊就館を出た後、少し悲しくせつなく見えてしまったのだ。遊就館がいくら太平洋戦争を美化させても、でもそれはちょっと違う、と突っ込みを入れる素地が私には備わっていたと言うこと。
そこが大切だと思うし、それこそが「物差し」であり「私達の基準」であるし、それこそが現代の自由と民主主義による平和教育の成果だと思う。その物差しこそが私達日本人が持っている誇りなのだ。後述する。

5,戦争博物館として見れば

一方で、遊就館はわかり易いのだ。変な言い方だけれど戦争博物館としては完璧である。すばらしい。
それは至極当然、国のために戦い命を落とした兵士たちを祀っている靖国神社と同じ価値観にそって存在しているからだ。

以前ハワイ旅行へ行った時、真珠湾の戦争記念館施設を見学したことがある。多少自重的ではあったが、それでも日本軍の真珠湾攻撃がよほど悔しかったのか「美しい島が日本の奇襲Japanese attack によってめちゃめちゃにされた」とう主旨の映画を見せられたのを思い出す。またその施設の正面には、昭和19年夏に沖縄の学童疎開船「対馬丸」を撃沈し、775名の児童の命を奪った潜水艦「ボーフィン」が「堂々と」保存されていたのにはさすがの私も怒り心頭。しかも艦橋には撃沈した日本船の数を国旗数にして書きこんであって、そのうち一隻が対馬丸だと思うと怒りに悔しさも混じってブルブル腕が震えてきたくらい。
同じようにおそらくは色々な国にある(と思われる)博物館の展示物とその説明にも、同様に時々の国家政策を追認したものになっているのだろう。
敵は誰で、ひどい奴で、やられて、そして結束し起ち上がった、などのその国側からのナショナリズムに満ちた主観のみで説明されているというのが、戦争博物館の存在意義存在価値(レゾンデートル)なのである。
遊就館を見て眉をしかめるアメリカ人は、パールハーバーの潜水艦を見て眉をしかめる日本人の私と(眉のしかめ具合の差はあれ)同じなのである。

6,不動のセンターへ

以上私は、中華食堂日高屋九段下店でビールの酔いとともに、見てきた遊就館について、おや?自分の持っている感覚とはちょっと違うぞ、の意味を考え、また、なあんだ、怯え構える事はない、明治以後の国家政策を追認している施設だったのか、と発見できたとまとめることができた。また靖国神社の高貴で霊験あらたかな空気と、遊就館を出たあとに感じた印象とは、まるで別物であったとも書き加えておきたい。
大切なのはこれらを見た我々が、私達の持っている物差し、つまり「平和教育という基準と照査させる、」ことで主体的に判断できるのではないかということだ。現代に生きる日本人は全員持っている基準、そう言ってもいい。もっと突き詰めて言えば、その基準に照査させると、戦争は全て加害者であり被害者でもあるという二面性多面性を内包しているのだ、という事になっていく。こと太平洋戦争に至っては、多くの戦闘に於いて、加害者と被害者が重なり合っていた事もわかってくる。つまり歴史の端はしではこんなこともあってあんなこともあった、こういう考えもあったのだし、別の考えもあったと可視化されてくる。
すべては多面的で重層化しているのだし、それを見抜く力、想像できる力、それが大切なのだ。

ありていに言えば、単一で一方向からしか見ない歴史観といったものにとらわれない、自虐でも優越でもなく不動のセンターに位置する思考方法、それを持っている事が現代に生きる私達日本人の誇りなのだと思うし、日本の民度の高さを証明しているものだ。

上に書いた「不動のセンター」は実は小倉紀蔵の言葉である。氏は「謝罪と貢献が不動のセンターだ」と位置づけているが、そこに首をかしげた私が自分の考えを入れ替えてみたのだけれど、正直言うと自分の頭の中できれいに整理されているわけではない。上に書いた「自虐でも優越でもないセンター位置としての私達」という部分について、いざ文章化しようとすると、曖昧になって自分の主張にブレが出てしまう部分もあり、これからゆっくりと整理し凝縮していく課題だと認識している。もっと勉強してから改めて記事にしてみたい。

最後の写真は1952年靖国神社の門前で涙をこらえる遺族、とある。写真を見た私も思わず手を合わせ頭をさげる。

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