#25『岩田さん:岩田聡はこんな事をはなしていた。』1000字レビュー①
任天堂の社長だった岩田聡さんをご存知ですか?
アルバイトから任天堂社長になったすご腕プログラマーです。
プログラマーとして数々のゲームを生み出し
任天堂の社長に就任してからはニンテンドーDS、Wiiといったゲーム機を世に送り出しました。
しかし、残念ながら2015年7月11日に亡くなってしまいました。
岩田さんのことばはゲームファンにとってとても面白いものでした。
ぼくは「社長が訊く」が大好きでした。
社長が訊くのせいで、数多くのゲームソフトを買わされました。
読むと欲しくなってしまうんですよね。。
本日は、岩田さんのことばをまとめた本を紹介します。
岩田聡はこんな事をはなしていた。
岩田さんのことばのかけら。その1
自分たちは、なにが得意なのか。
自分たちは、なにが苦手なのか。
それをちゃんとわかって、
自分たちの得意なことが活きるように、
苦手なことが表面化しないような方向へ
組織を導くのが経営だと思います。
岩田さんが社長になるまで
高校時代。プログラムが出来る電卓と出会い、授業中にゲームをつくって隣の席の友達と遊んでいた。それがゲームやプログラムとの出会いだそう。
大学時代。コンピューター売り場で出会った仲間
池袋の西部百貨店にあるパソコンの常設コーナー。
同じコンピュータを使い合う人達が集まり、
後に売り場の定員さんが会社を作ります。
その会社がHAL研究所
※星のカービィや大乱闘スマッシュブラザーズを産み出したすごい会社
岩田さんはHAL研究所に誘われてアルバイトを始めました。
ファミコンの発売し、HAL研究所黎明期
HAL研究所に出資していた会社の1つが任天堂と取引があり、ファミコンソフトのプログラミングを請け負います。
有名なゲームソフト「ピンボール」「ゴルフ」の開発に参加します。
33歳でHAL研究所社長就任、15億円の借金返済
ファミコンのリリース後、すぐに関わったことで会社は大きく成長しました。5人だった社員が10年で90人になりました。
しかし、32歳の時にHAL研究所は経営危機に陥ります。
好きか嫌いかではなく、「これは、自分でやるのがいちばん合理的だ」と思えばすぐに覚悟が出来るんです。
岩田さんが社長をすることを覚悟したことばが好きです。
「社長をする人が他に誰もいなかった。」
と言っていますが、岩田さんしか出来なかったですよね。
結果的に15億の借金を6年間で返済します。
極限状態の中で色々なことが見えてきたといいます。
「人は、どういう接し方をするのか?」
色々な事の中でも、人と接することで発見がいっぱいあったといいます。
1000文字来てしまいました。
続きはまた明日。
次に読むなら・・
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