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「白骨街道」から「敵前逃亡」したお陰で生還できた祖父の話

約10万人の日本兵が参加し、万単位の方々が命を落とした。第二次世界大戦の米国vs日本の戦局の中でも、極めて高い死亡率を記録した「インパール作戦」。南方の気候が横たわった躯をすぐに腐敗させ白骨化させて行く。日本兵の骨で埋め尽くされた道は、いつしか「白骨街道」と呼ばれるようになりました。

実はその最悪の戦乱の中から命からがら帰還した兵の一人が、95歳で亡くなった僕の祖父でした。足に残った銃痕を見せながら、静かに語ってくれはじめたのは、祖父が70歳になった頃からでした。

もともとは、今で言う田園都市線沿線近辺の農家の長男として生まれ育った祖父は。徴兵検査をパスした後、戦艦に乗せられて上海沖へ。イキナリ戦艦から冷たい海に叩き落とされて、生存の訓練・・・などなどを詰んだ後、南方へと向かったとのことです。

制空権は英国軍に握られていたため。移動は太陽が落ちて、暗闇になってから。歩む先に敵兵がいないか誰かが確認しなければならない状況で、しかし行けば必ず帰らぬ人になる。そんな中でも、上官が「前進!」を命じ続けていたわけなのです。当時の死因の一位は、敵兵からの爆撃や銃撃による名誉の戦死ではなく、味方からの「敵前逃亡」の重罪による射殺(処刑)だったとのことです。

処刑者の数、日本軍全体で約100万人。そんな環境下では、如何なる不利な状況下でも上官も「前進!」と命じ続けなければならなかったようです。過酷な環境下で、なぜ祖父が生還できたのか?それは、当時の祖父の上官が、「このままでは必ず全滅する。逃げよう!」なんと「敵前逃亡」で処刑されることを覚悟で、「退却」ではなく「逃亡」を命じたとのことです。

前進を続けた部隊は全滅した。逃亡した者たちだけが生き残った。これが戦地での真実の姿だったようです。つまり、当時としては最悪に不名誉な「逃亡兵」だったからこそ、戦後も生き続けることができて。結婚し、子を授かり、今こうして孫である僕も存在できているのです。


「シベリア抑留」から逃亡したおじさん

ちなみに、祖父の弟も全く別の国と地域からの惨劇から生還しました。第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降して捕虜となったおじさんは。旧ソ連軍によって、鉄道に乗せられました。しかし、祖父と同じく農家を営んでいた一家に生まれ育ったおじさんは。空の星の位置を見て、向かっている方向を知り、「これはおかしい・・・」と、数名の仲間たちとともに鉄道から飛び降りて逃亡したとのことです。

後から知ったことですが、歴史上で言うところの「シベリア抑留」です。自分が連れ去られるところだった先は、厳寒な環境下で、満足な食事も与えられず。苛烈な労働を強要されたことにより、約6万人が死亡した、生存者ほぼゼロの最悪の地。「シベリア抑留」では、約34万人の日本人が同様に死亡したとのことです。

もしもあの時、数名の仲間たちと共に、鉄道から飛び降り逃げ出さなければ。確実に死亡していた捕虜たちの一人になっていたことになります。「逃亡」によって生還できた祖父とその弟。どちらも当時のご時世的には、「非国民」に該当する行為でした。けれども、あのまま「逃亡」しなければ、ほぼほぼ確実にその短い生涯の幕を閉じていたことになります。

結婚をすることもなく、子孫を残すこともなく、数々の名もなき躯たちと一緒に白骨化していたことでしょう。祖父の話から僕は学んだのでした。「ヤバい!おかしい!と思った時には迷わず逃亡しよう!」と。その時は「非国民」と周りから思われたとしても、生き残り続けていれば「正義」となる日が訪れる。

22歳を迎えて東証一部上場のメーカーに就職、社会人になった僕は。はじめは会社のため、組織のため、自分のため、「目指せ部長!」で頑張ろう!会社に忠誠を誓って我武者羅に働き続けていました。ところが、入社して程なくして、社内でリストラが始まったのです。30代後半より上の年齢の社員たちを中心に次から次へと「肩叩き」が始まりました。

最初の年には、一度に主任、係長、課長がリストラされてしまいました。年を追う事にひどくなって来て。3年目に至っては、全社員の3分の1がリストラされてしまったのです。

「危険」を察して直ちに「副業」に取り組んだ僕

この時僕は、「このままではヤバい、 僕も30代後半になった時には 必ずリストラされてしまう!」眼の前の惨劇を目の当たりにした瞬間に、肌で危険をビンビン感じました。入社2年目には、いつリストラされても良いように、「起業・独立」の準備を水面下で始めるに至ったのです。

勤務している会社の同僚たちには内緒で、コッソリと副業としてビジネスを起ち上げました。祖父の「白骨街道」のお話から学んだことがもう一つあります。

それは・・・「好き嫌いするな!」ということです。実は「白骨街道」で、死んだ同志たちの大多数は、敵兵に討たれて死んだのではなく、アレが食えない、コレが食えないと、食べるものに好き嫌いをしていた方々から順番に栄養失調が原因で死んだとのことです。当時の戦局では、兵站が絶たれてしまい、まともに配給ももらえない状態で。はじめに足りなくなったのが、「食べ物」だったとのことでした。

祖父はそんな中、ヘビだろうが昆虫だろうが、食えるモノは何でも食べたとのことで、生き残り続けることができたと言うのです。そのお話は僕に、「稼げる方法がアレば、好き嫌い無しに何でもやろう!」という考え方をもたらしました。

その結果、2003年の末に、「インターネットビジネス」の存在を気づかせ。当時の僕にとっては、右も左も分からない状態からのスタートではありましたが、真剣に「インターネットビジネス」にも取り組み。翌年、2004年には、起業したばかりの「インターネットビジネス」を軌道に乗せることができたのです。

仮にあの時、「パソコンが苦手だから・・・」「インターネットビジネスは未経験だから・・・」と、嫌いで苦手なことを避けてしまっていたとしたら。その後「億」を稼ぐことはできなかっただろうし。今こうして、お金と時間と場所の自由を謳歌している状態を手に入れることができなかったことになります。

・危険を察した時には、「逃亡」を優先すること
・生き延びるためなら好き嫌いをしないで取り組むこと
祖父が生き延びたお話から学び、僕の人生に活かせたことです。

「株高」ではなく「お金の暴落」では?

今、僕は再びビンビン感じることがあります。それは・・・大いなる「危険」が迫ってきているということ。どんな「危険」なのか?それは、今こうしている間にも、「お金の価値」が暴落しているのではないか?ということです。

確かに僕は、「無敗の株式投資法」のお陰で、毎年のように金融資産が増大している状態ではあります。しかし一方で、

小麦粉
2020年12月:252円
2021年12月:254円(昨対0.7%UP)
2022年12月:316円(昨対24.4%UP)
2023年12月:329円(昨対4.1%UP)

iPhone
2020年11月:12proMax・11万7,800円
2021年9月:13proMax・13万4,800円(昨対14.4%UP)
2022年9月:14proMax・16万4,800円(昨対22.2%UP)
2023年9月:15proMax・18万9,800円(昨対15.1%UP)

生活必需品の物価が、毎年複利成長的に上昇し続けています。さらには、メルセデス・ベンツ、ROLEX、HERMES・・・などの高級志向品に至っては、生活必需品を更に凌駕する勢いで、価格が複利上昇しています。この様子をExcelに叩きながら眺め見ている時に、「これはひょっとして、株価が上昇しているのではなく、お金の価値が大幅に下落しているのではないか?」と思ったわけなのです。

僕の今の毎年の目標増加は、「年間あたり複利で約50%」。明らかに物価上昇を凌駕する金融資産の増大が続いているので、「物価高」をそれほど感じることはありませんが。ただ単に、日本で日本円のお給料をもらい、日本円のまま預貯金している方々、「本当に大丈夫か?」と思います。

ひょっとして、自分たちが「物価高」の大波に飲み込まれていることに、気づけていないのではないか?と。今のヤバい状況から、「逃亡」できない人、「嫌い・不得意」だからと、すべきことをやれない人。このままでは、確実に「詰んでしまう!」と思います。

・危険を察した時には、「逃亡」を優先すること
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 危険「物価高&お金の暴落」

・生き延びるためなら好き嫌いをしないで取り組むこと
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 物販、会社法人、銀行融資、株式投資

「生存」するために、目を見開いて気づき、真剣に行動に移してもらいたいと思うわけなのです。

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