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60.ざくろのような幸福

(少し前に下書きで温めていた内容を供養します)

幸せとは何だろうか。

そんなことを考える機会が、2度あった。

一度は、Twitterの方とお話させていただいた時。
彼に、「さむさんにとって『幸せ』って何ですか?」と尋ねられた。

もう一つは『スーツケースの半分は』(近藤史恵 作)を読み終えたとき。
この話は「幸運のスーツケース」がいろいろな人の手を渡り、旅の中で旅した人が各々の幸運を手に入れていく話。


一度目は、「私」個人の幸せについて考えた。

急にされた質問だったので戸惑ったが、
「私の身近な人が笑っていて、私自身が愛されていると感じるとき」
と答えた。

Twitterや自己啓発本を読んでいると、「他人のため」を強要される気がして、疲れる。

少し前、藤本さんの応援noteを書くためのインタビューをしているときに、そんな自分に気が付いた。

「たくさんの人の笑顔」と言いつつ、嫌いな人を好きになれない自分。
「Giveしたい」と言いつつ、自分の学びや都合を優先させてしまう自分。

自分と理想のギャップが激しいことに疲れて「こんな自分じゃだめだ」と追い込んでしまっていた。

でも、ありがたいことに、私が「大阪に帰る」と言えば、「おかえり、ご飯行こうか」と言ってくれる人がいるし、「東京に来るときは連絡してね」と言ってもらえるつながりもある。

私が必要なのは、それを大事にする余裕なんじゃないか。

自分を、愛してあげることなんじゃないか。

自分を愛するためには、自分の幸福のレベルを、もっと下げてあげればいいんじゃないか。

そんな気持ちから、出た言葉だった気がする。


二度目は、「幸福」の言葉が持つ意味を考えた。

人によって幸福を感じる瞬間は違う。
でも、言葉の定義は?

『スーツケースの半分は』では、旅先で恋人と別れたことも含めて「幸運」と呼んでいる。

「別れた」の文字だけ見れば、不幸にも見えるが、主人公はその恋人と価値観があっていなかった。それが、旅の中ではっきりと分かったのだ。

読み切った後感じたのは、作者は「自分の中のもやもやが分かったときや晴れたとき」を「幸福」と呼んでいるのではないか、ということだった。

たしかに、人は満たされてもずっと満足はしない。

私はまだ、「ずっと満足している人」を見たことがない。

だから、「もやもやが晴れた瞬間」という定義は、ある意味正しいのかもしれない。

私だって今は「愛されたい」と感じているが、誰かからの強烈な愛を感じてしまえば別のものを望むだろう。

本書の中で、「ザクロは人生みたいだ」という表現がある。

ざくろは、その大きな実の中に小さな粒が入っている。
一口かじったときは、その粒から甘酸っぱい果汁があふれ出して「おいしい」と感じるが、すぐに粒一つ一つに含まれるかたい種が口の中で主張を始めるそうだ。

「最初のひとくちはおいしくて、なんて素晴らしい体験なのだと思う。それが大好きになる。だが、その次からは感動が薄れ、反対に種のやっかいさだけが主張し始める。
 もうそうなると、最初の幸福感は戻ってこない。」



改めて、幸福とはなんだろうか。

人々にとって、そして個人にとって幸せとはなんだろうか。

ずっと付きまとう問いで、逃げることはできないように感じる。

気付いたときに、自分に問うていければ、とも思う。


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