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何者かになりたかった男が編集者になった話

noteの皆様、はじめまして。私は株式会社KADOKAWAのスニーカー文庫編集部でライトノベルの編集者をしている夏川と申します。

この記事ではタイトルの通り、編集者として生きた私の半生とこれから発表される作品への思いを綴っています。

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     第一話 花火
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地元・江ノ島の花火大会には特別な思い入れがある。

私が14歳の頃、中学の同級生に花火職人の息子であるM君(イケメン!)という人気者がいた。彼は中学生にして父親の手伝いで江ノ島花火大会に参加しており、花火大会当日の日には教室で誇らし気に自分の仕事や父親のことを語っていた。

そんなクラスの中心でキラキラと輝いてる彼を見て14歳の私は何か心に引っかかるものがあったのだ。その日の夜、家から遠くで打ち上がる花火の音を聞いた私は無性に胸がざわつき、一人自転車を爆走させ花火大会の会場である江ノ島へと向かった。

息を切らせてたどり着いた江ノ島駅。そこにはカップル、親子、学生、大人達、溢れるばかりの人がいて、そして活気があった。(すごい…!彼はこんなにも多くの人を笑顔にしてるのか。それに比べて俺は……)満面の笑みで楽しそうに過ごす人達の熱気に圧倒された。ただ、ひとりぼっちの私にはここが自分の居場所では無い気がしたのだ。クラスで人気者な彼に勝手に敗北感を感じた14歳の私は、活気溢れる花火大会の会場をトボトボと後にする。

……すると「わっ!」とこの日一番の歓声が湧き上がり、振り返ると夜空には大きな大きな花火が打ち上がっていた。

初めて間近で見た夜空に咲く大きな炎は、言葉にならないほど美しかった。しかし、同時に切なくもなった。

家で一人で見る花火より、近くで誰かと見た方が人生は楽しい。そして、その人の輪の中心で花火を打ち上げている人間はもっと輝く。

(人生はもしかすると、この花火のようなものなんじゃないだろうか。俺もいつか……どこかの舞台で何かを打ち上げる側に回りたい……)

私は空に消えゆく花火を見上げながらふと、そんなことを思った。

それからというもの、私は自分にとって祭りとなる場所を探し求めた。高校生になってバンド、ダンス、格闘技、といったことをはじめてみる。しかし、その全てがピンとこない。如何せん、どれも才能がないのだ。何かを打ち上げたいと思った切なる願いは圧倒的な現実を前にして毎日少しずつしぼんでいった。そうして、私はいつからか何者かになることを諦め、怠惰な日々を過ごしていくようになっていく。

大学在学中も自分の居場所や才能を見つけられ無かった私は、卒業後も就職せず家賃2万5千円の風呂なしアパートを拠点に毎日パチンコやスロットにあけくれていた。さながら賭博黙示録カイジのような人生一発逆転ゲームがはじまる訳もなく、勝ったり負けたりを繰り返しながらも少しずつ在学中に蓄えた貯金は減っていく。これはいよいよ就職せねば、と重い腰をあげ人生初めてリクナビなるものを覗いてみるとPHP研究所という出版社が営業職を募集しているではないか。それも営業未経験でも応募が可能らしい。

昔から本を読むことは好きだった、しかし採用枠は1名のみ。自己肯定感が皆無だった当時の私は「どうせ受からんだろ……」と半ばやけっぱちな気持ちでこの会社にエントリーする。しかし思いの外、論文、SPI、一次、二次面接を突破し最終面接まで辿り着くことが出来た。(やれやれようやく試験も終わったか……)と一息ついて最終面接の帰り際パチンコ屋に入ると携帯電話が鳴った。店内は爆音でうるさくてよく聞こえないが、どうやら入社試験に受かっていたらしい。応募者の中には東大卒や、某有名企業の営業経験者もいたらしいのだが、夜間大卒の職歴ナシな私を採用するというのだから有り難くも酔狂なことだなとどこか他人事のように思った。こうしてフリーターから一転、営業職として私の出版社生活は始まったのである。

長くなるので割愛するが、初めて体験する社会人生活は実にハードなものであった。当時、私が師事した上司のNさんは大変熱い魂を持たれた方で、松岡修造氏とアントニオ猪木氏と『NARUTO』のガイ先生を足して2で割ったような人物と言えば少しは伝わるだろうか。「本気になれば全てが変わる」「元気があれば何でも出来る」つまりはそういう事だ。そして、この教えと彼から受け取った炎が今でも私のど真ん中にある。そんなNさんに腐った性根と根性を徹底的に叩き直された甲斐あって、死んだ魚の目をした男も入社2年目の頃には週6~7日朝から晩まで働く目の据わった企業戦士へと生まれ変わっていった。

入社5年目、PHP研究所で『悪ノ娘』というニコニコ動画発のボカロソングを小説化するプロジェクトが立ち上がる。営業職としてその作品の販売担当になったのだが、これがアニメイトさんの凄腕書籍バイヤーであるTさんのおかげで大ヒットとなったことが私の運命を変えた。ボカロ楽曲→小説化=大ヒットという黄金の方程式を見つけ出した会社と編集部。そのラインの生産点数を増やすための人員という事で、私は編集部に招かれることになったのだ。こうして偶然に偶然が重なったことで、私は編集者としてのキャリアをスタートさせていくことになっていく。

絶頂期を迎えるニコニコ動画のブレイクも相まって、他社がまだその周辺領域で書籍を制作していない僅かなタイムラグをついた私の担当作は売れに売れた。当時私はニコ厨だったこともありボカロ楽曲、フリーゲーム、ゲーム実況、歌ってみた、など企画はいくらでも立てられる。編集者1年目としてデビューし担当した書籍の年間売上金額は5億円にも昇り、何者でもなかった私の人生は突如としてスポットライトが当てられこの世の春を迎えたのだ。

その奇跡的な活躍が業界で噂を巡ったのか、私は編集者として2年目のキャリアをスタートさせようかというタイミングで角川書店(現KADOKAWA)の本社に突如呼び出された。そして、そこに鎮座していたとある幹部社員にこう言われたのだ。

「君の活躍は耳にしている。是非、角川でその腕を振るって貰えないか」

胸が躍った。まさか、自分が誰かに見つけて貰えるなんて。こんな機会が訪れるなんて!いつからか「何の才能もない」と自分で自分を見限り、半ば諦めていた人生に光が刺した気がした。高校生の時に置き忘れてきた、ずっと見ないフリをしていた大切なものを取り戻せるかもしれないと思ったのだ。翌日には会社へ辞表を提出し、退社日を相談しはじめていた。引き留めや慰留交渉にも一切聞く耳を持たなかった私を見て、Nさんは少し哀しそうな目をしていたような気がする。しかし、ここで挑戦しない手はない。私は新天地で輝かしい活躍をしている未来を夢見て、新たな人生に思いを馳せた。

そんな訳で鼻息荒く出社初日を迎え、角川書店の本社に到着した当時の私は自分の活躍を信じて疑わなかった。しかし、残念ながらそれは完全な「勘違い」だったのである。自分で言うのもどうかと思うが当時鳴り物入りで角川書店へ入社したものの、実態としては偶然勝ちを拾った2年目編集者のペーペーに過ぎない。出してきた結果は、あくまで加熱しているマーケットの側にいた優位性によるもの。着任した部署は若干畑違いのライトノベル編集部、そして私はこの分野では右も左もわからない素人だ。徐々にメッキは剥がれていき再三、実力不足だと当時の上司や同僚からは指摘された。未熟な自分、何も言い返せない。10年越しに、ようやく手に入れたと思っていたなけなしの自信は瞬く間に踏み砕かれた。入社当時に感じた周囲の期待に満ちた目の色は、あっという間に失望へと変わっていく。

そんなトホホな状況でも、悲しいかな人生は続いていくのだ。信頼を勝ち取る為には、自分の居場所を作るには、とにかく働きまくるしかない。それこそが私がNさんから授けてもらった、この世を渡っていく上で唯一自分の出来る事であり処世術だった。

0ではなくマイナスからの再出発。8年前は今のように「残業削減」「働き方改革」が叫ばれる時代ではなかった。今でこそKADOKAWAはハラスメントや超過残業に対して厳しい姿勢で臨むようになったが、当時は激しい時代だったのである。ましてや、自分は周囲の期待を最初から裏切っている。その反動もあってか上司からは毎日のように叱責を受け、その醜態を同僚に晒し、次第に周囲からも冷笑されるようになっていった。

……このままでは終わってしまう。もし、ここで心が折れてしまったら私は業界内で「終わった人間」扱いされるだろう。そのことを恐れた臆病な私は、誰に命じられる訳でなくとも1日も休まず働き続けた。ただ、それだけが知識も実力も才能もない私の出来ることだった。嵐のような編集者としての日々は、激流のように猛スピードで過ぎていく。

いつからか、才能溢れる作家さん•イラストレーターさんとの出会いや運にも恵まれヒット作を担当することが出来るようになると周囲の評価も少しずつ変わっていった。人生というものは、直ぐには変わらない。日々グラデーションで変化するものだ。祝福の白から始まりそして真っ黒に染まった私の編集者人生は、毎日少しずつ、少しずつ塗り替えられ、それはやがて灰色となり、白へと近づいていく実感と充実感を得ていった。随分と遠回りしてしまったが、ようやくライトノベル業界のクリエイターさん、編集者達に仲間と認められたと実感出来た日のことは今でも覚えている。生きていて、これほど嬉しい事はない。未熟な自分を受け入れてくれた作家さん、仲間達に感謝し、私はようやく社会に自分の居場所が見つかったことを心の底から安堵した。

そうこうして今、私は編集者として8年目を迎えている。いつのまにやら角川書店に入社した時に出会った編集部員も、私以外全ての人員が入れ替わる程の年月が経っていた。あっという間の出来事、編集者というのは人生の体感速度が3倍速になるのである。

スニーカー文庫の新人賞、スニーカー大賞は過去「涼宮ハルヒ」という伝説的作品を排出したこともある34年の歴史ある賞レースである。しかし、その「涼宮ハルヒ」という偉大すぎる作品があるが故に新たな"大賞"を出しにくいというジレンマを抱えていたようにも思う。ところが2021年冬、永遠に出ないと思われたスニーカー大賞から12年ぶりに"大賞作"が排出されることとなったのだ。様々な偶然が重なった結果の奇跡的な受賞。おそらく、この瞬間に見た映像は生涯忘ることはないだろう。

ライトノベル史上、最も多くの人を魅了した伝説的名作

そして、"大賞"受賞決定から数日経ったあくる日。私は上司に呼び出され「大賞作は君に担当して貰いたい。何とかヒット作にしてくれ」そう言われた。編集者歴が現メンバーの中で一番長いということでの選定だろう。しかしそれを聞いた瞬間、激しい頭痛と胃痛が私を襲った。

出版業界に務めて十余年、一つ確信を持って言えることがあるとすれば作品がヒットするかどうかは究極「運」だ。天才的なクリエイターや編集者がいて、必然性を宿らせたヒット作もあることは事実だが、そういう人間はやはり業界広しといえど一部の特別な人間だけである。残念ながら、私はそういった天才と呼ばれる類いの人種ではない。(気合いと根性の民である)時代性との一致、ユーザーのニーズ、そういう答えがあるようで究極どこまで考え尽くしてもわからないものと、奇跡的にその分野の才能を持ったクリエイターとタイミング、そして編集者の熱量が噛み合って産まれるのがヒット作なのである。売れないことが普通。ヒット作とは異常なるものなのだ。

「何とかしてくれ」と上司に言われた言葉が頭の中で鳴り響き、これから背負うプレッシャーを思うと頭がズキりと痛んだ。会社では顔に出さないようにと冷静を装う私の前に、青い顔をした一人の若い編集者が声をかけてくる。「大賞作は夏川さんに担当を任せる言われました。頑張って下さい……」どうしたのかと事情を聞いてみると、どうやら彼は担当として立候補していたらしい。つまりは、今回それが叶わなかったということだ。

これは内輪の話ではあるが、スニーカー文庫編集部では新人賞発の担当者は希望者の中からコンペで決められる。私は現在抱えている仕事との両立が難しいと判断し、このコンペへの参加を見送っていた。
……いや、正直に言おう。「恥」を掻きたくなかったのだ。大賞作の担当は業界内の編集者達から良い意味でも悪い意味でも注目されてしまう。これに失敗すれば8年がかりで勝ち取った信頼を手放してしまうかもしれない。私はきっと、そのことを無意識に恐れていたのだ。

ただ、上司からは「参考までに君ならどうするかを聞きたいから、コンペ参加用の資料を作ってくれ」と言われていたので「そういうことなら」と期限ギリギリに提出していた。私からすると、(あれれ~?)という状況だが、そんな軟弱な姿勢の自分が彼から仕事を奪ってしまったことを心の底から恥じた。彼は、きっと祭りの中心で花火を打ち上げたかったのだ。それなのに、その仕事を奪われてしまったという形になってしまったのだろう。痛みを帯びた若い編集者の顔を見た私は一人、覚悟を決めた。

この8年、自分の目で見て本作に最も相応しいと確信を得たイラストレーターさん、映像クリエイターさん、デザイナーさん、声優さん、音響スタッフさん、社内スタッフをこのプロジェクトに招いた。その数、延べ20人近くにも及ぶ。ライトノベル新シリーズの打ち上げ規模としては、かけた工数も予算も人員も類を見ない程の規模ではないだろうか。本作はこの構想を実現させる為、会社へは何度も説明を重ね、自分がこの8年で築きあげた信頼チップを全て卓上に乗せての勝負となった。忙しい合間を縫って協力してくれた人達には感謝しかない。しかし、厚く張るということは失うものも大きい。ただ、そうして必死な姿勢を見せることが唯一、若き編集者に対して示せる私なりの誠意でもあった。

相も変わらず目まぐるしい日々を過ごす中で、ふと思う。いつか何かの形で花火を打ち上げたいと夢見た少年時代。一度はそれを諦めた筈が、偶然にも出版業界で働くことになり、運を掴み、そして勇み飛び込んだKADOKAWAで私は何者かになれたのだろうか。何かを成し遂げることは出来たのだろうか?

社会人生活では実に色々なことがあった。私の前には幾度となく自分の存在を否定するもの達が現れ、そしてさまざまな形で自分は終わりかけた。これまでやってきたことと言えば、そのピンチをどうにかこうにか凌いできたに過ぎない。先輩や後輩や同僚に助けられてきたに過ぎない。私にはまだ、人生で何かを成し遂げたという実感はないのだ。

そうした思いとは無関係に時は過ぎ去り、そして四季は巡る。毎年夏は来て、江ノ島の空には花火が打ち上がる。遠くから見る花火がどこか寂しいと感じるのは私だけの感覚であり、個人的な感傷なのだろうか。

私は花火を打ち上げる側になりたいと願ったが、いつからか自分が真ん中に入れる場所を探すことを諦めた。しかし、人生を彷徨った末に「12年ぶり大賞」という何とも大仰なステージが用意され、私は今正にその花火を打ち上げようとしている。

これが「祭り」でなくて何なのか。期せずして14歳の時から20年越しに花火を打ち上げられる側に回ったのだと今、ようやく私は気づいた。

若者は「自分は何の為に産まれたのか?」という問いかけをよく好んでするものだと思う。ご多分に漏れずこの私も、その量産型若者の内の一人だった。しかしこの問答について、年を重ねた自分の中で既に答えは出ている。

人生におそらく意味はない。全ての人は何の意味もなく生まれ、何の意味もなく死んでいく。ただ、それだけのことだ。

しかし、こうも思う。私は中学時代のクラスメイトの彼のように、多くの人を笑顔にする役割を果たしてみたかった。Nさんから受け取った心の火をどこかで爆発させたかった。そう思うと、自分の人生は今ここに立ち会う為に産まれてきたのかもしれない。

人生は花火のように一瞬だ。若かりし頃、まるで永遠かのように続くと思えたこの人生も、気づけば30年以上の月日が流れている。私は生きている間に何か自分にとっての花火を打ち上げたかった。

この世のエンターテインメント作品は人々の思いと熱で打ち上がる。空に打ち上がる炎は大きければ大きい程美しく、人々の心を感動させるものだ。願わくば多くの人がこの祭りに参加し、これから打ち上げられる焔炎を近くで見て欲しいと思う。

スニーカー大賞12年ぶり"大賞作"
『我が焔炎ホムラ にひれ伏せ世界』

https://www.amazon.co.jp/dp/4041128781/


本作があの日、江ノ島の夜空に打ち上がった花火のように大輪の花を咲かせることを願って。

2022年10月16日 編集者 夏川

追伸
ここまで長文を読んで下さった貴方、本当に有り難う!【10月17日(月)19時~】#ホムセカ  公式Twitterアカウントより1つ目の花火を打ち上げます。是非、こちらをフォローしていただきビール片手にご覧になっていただければ嬉しいです(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこ

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