見出し画像

その無意味さが好き

8月10日木曜日。晴れ。夏休み初日。

暑い日が続いていますが元気に過ごしていますか。

今日ふと日記というものをしばらく書いていないなと思い、久しぶりに書きたい衝動に駆られて今書いています。

今日のテーマは意味について。
皆さん一度は人生の意味などという難しいことについて深く考えた時期があったのではないでしょうか。

~中学から大学にかけて振り返っていく~

中学


私は、中学生のころはすべての物事に絶対に意味はあると思って生きていました。今思うとなかなか熱い人間でしたね。ある人が書いた名言だったり、先生が教えてくれたことだったりを信じて疑わず、努力は絶対に報われるんだと本当にそう思っていました。

高校

高校生になると、中学時代とは少し異なり自分で考える力が高まったと思います。
時々、高校生時代部活をしていてふと思ったことがありました。それは、部活をしていて意味はあるのかということです。中学の部活では考えたこともなかったことです(中学時代の私恐ろしい)。たまに、頭の中で自分を俯瞰して、宇宙から見た地球、その中に立つている私という構図で見たときに、なんて私はちっちゃい存在なのだろうと思って無気力になりそうな時期もありました。これは、もしかしたら人生に意味はないかもしれなということに気づき始めた初期だったのかもしれません。
今の大学生の私から見ると、かわいいとこあるじゃんあたし、と軽く笑いとばせる悩みです。ごめんな高校生の私。

大学

大学入学して1年ぐらいの私はとにかく卑屈でした。その理由は、高校生の時に目指していた第一志望の大学に落ちてしまい、仕方なく県内の大学に通うことにしたからです。この時の私は、本当に人生終わったと思っていました。良い大学に入って、良い会社に勤めるんだと長年思っていた目標がバタバタと崩れる音がしそうでした。

大学で変化

で、ここで自分が信じてみていたものを疑い始めるわけです。自分が今を生きやすく楽しく生活するために(今思うと生存本能だったのかもしれません)。
すべてに意味はあると信じて疑わなかった私は、1,2年後すべてに意味とかあるかどうかは知らないが、意味なんてなくても面白がれる人でいたいと思うひとになりました。
汗水たらした努力は報われるとほぼ信じていた私は、必死な努力もときには必要なこともあるだろうけど、自分の心が壊れてまでするようなことはないし、なにせお返しはそんなに期待できないので努力の過程を楽しめるぐらいのことがあたしにちょうどいいのではないかと思える人になりました。

今言語化していて、その意味とか努力にたいする変化が言葉として明確にされると、中学から大学生にかけて私ってこんなに変化したのかと思って少し驚きました。

私なりの変化の仕方

大学時代に考え方が変わったことをここまで書いてきましたが、急にすっと変わったわけではありません。大学生はバイトや勉強、1人暮らしなど多くを掛け持ちしているとはいえ、私の場合は長期休暇の間、暇な時間は抱えきれないほどありました。暇にうんざりするほどです。その暇な時間で私はひたすら小説を読み漁り、アニメを見まくりました。中学・高校時代では読書とアニメからは程遠い生活をおくってきたので彼女らは私の趣味の変わりように驚いたことでしょう。

おそらくこの趣味の時間がトリガーな気がしています。

小説から学んだことはたくさんあります。一番大きなことは細かいところまで観察する視点です。小説は言葉で情景を表現するため、こんなことにこの作者は気づいているのかと毎回驚かされます。そして、それを現実の世界でも見てみたいと思わされるのです。想像力の力の偉大さを私は前より強く信じています。
次にアニメです。アニメは夢中で何時間も見れました。コロナ禍真っただ中のころにはアニメオタクと化していたほど、ずっと見ていました。ときどきぐっと刺さる名言がでてくるのがたまらない瞬間です。

これらに意味はあるのかと問う人がいた場合、私は意味があるとかないとかそうゆう言葉で片付けたくないといいたい。(心の中だけでも言いたい。)

だって意味なんかなくてもいいじゃない。たいてい意味は後付けな気がしているし、もし仮にそうだとしたら、過去の私がどうしてもっていうなら、未来のあたしが意味を見つけてくれるし。
(しょうもない意味でもいいな。)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?