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【エッセイ】極貧試考#5【解説1】

【御注意】
 筆者は創作活動においてプロットを建てたり下書きをしたりという事をしない謂わば「即興的創作」を軸にしており、文体人称主義主張等、その時の気分や知見によってコロコロ変わります。
 と、このように書き出しだからと丁寧な書き方をしておりますがまた翌日に書き始めるともうまったく気分が変わってそれは、それは雑でテキトーな文体になったりもするし、そうでもない場合もあったりなかったりなので、基本的に最大の主題となる部分に関してはそれに沿った創作を心がけてはいますが、それでもおそらくは脱線に次ぐ脱線を繰り返し時には何を書いているのかわからなくなってしまってオチもないまま投稿することも有ると思われます。
 案外まともに書けるかもしないけれど、それは自分的に納得の行く形でこの創作物が完成した時までわかりませんしまた、記事内に登場する情報等についても自分が軽薄に見聞きしたことや行動したことを元に書き散らすだけであり、殆どの場合には情報源の裏を取るというような面倒臭く辛気臭く(筆者自身が)面白くない作業に関してはやりませんので、データに信憑性はありません。私は無責任です。
 ただし、記載するエクササイズ等に関してはとりあえず筆者自身が実践していることであるので少なくとも「俺的には」あり、とか、なしとかいう意味で真実です。
 私、万人に当てはまるようなメソッドなんてものを吹聴する手合は信用しないタイプの人間ですのであくまで個人主義、個人が良ければそれで良いという我儘感覚で長大なる連載エッセイを書いてみたいと思っております。まぁ気が向いた時にね。忘れちゃうかもしれないし飽きるかもしれないし。
 途中で投げ出すかもしれないし。

 ただひとつだけ断言しておきましょう。

”私は「極貧」を推奨しない”

前回

極貧試行#3の解説

 前々回のショート・ショート「二畳の草原」。
 これは極貧を肯定的に捉え、創造力、イメージの力によって金銭的な負担なく豊かな心を手に入れた例であり、いわば極貧を試考した結果、裕福に遥か彼方の草原へ旅してその真中で寝転ぶとしても、傾いたアパートの侘しい一室で風を受けながら寝転ぶとしても、目を瞑れば同じ。
 大の字にからだを伸ばしてもそれはせいぜい二畳程度の広さであり、大草原にいたところで自分が専有する土地の広さはボロアパートのそれとかわりはしないのである。
 という豊かなる極貧の世界であり、この女性は米を買わずに飢えながら使い込むところだった金銭を使わずに残すことができたという点で、それ以前よりも裕福に幸せになったという謂わばイメトレ、謂わば想像力讃歌、謂わば極貧讃歌とも言える作品になったなってしまった。成り行きで。

 ただ、これ実は実体験というか、私自身が自室で大の字になっている時に感じたことであって、その時にとても気持ちよかったので以来、ほぼ毎日実践している。

経緯

 体調を崩すと執筆もできないし、労働に出ても動きも悪くスーダラっぷりが炸裂して万事がいい加減になり、作業場の整理整頓も億劫、同僚とのコミュニケーションも億劫、上司からの指示に耳を傾けるのも億劫になりこれが高じてやがて出勤も億劫になってしまうと失業、正真正銘の極貧になってしまうので、わりと日常的に心身を整える習慣を心がけてはいる。

 そのひとつが毎朝のストレッチである。
 とはいっても別に人から指導されたわけでもなく、主にYou TubeやNetflixで配信されている動画を観てなんとなく自分的にやりやすくまた続けられそうなものを適宜自己流で組み合わせて実践しているに過ぎず、敢えて人様に公表するようなことでもないので内容は伏せる。

 がある朝。
 いつものストレッチを終えて横になって休息してる折「そういや最近、大の字になってねぇな」と気がついた。

 当家はたしかに狭い。全面積がそもそも小さく当然のように私の居室も狭い。
しかしとりあえず大人ひとりが大の字になるくらいのスペースは空いているので、とりあえず思いつきで大の字になってみた。

元来

 私は「日本の狭小住宅におけるベッド使用の非効率」を叫んでいる。誰も聴いていないどころか私が叫ぶ度に周囲の全員が顔を背けて家族までが他人のふりをするという体たらくではあるが、それでもこの20年くらいは定期的に叫んでいるし、叫ぶからには当然、自室にベッドを設えてはいない。
 フローリングの床に布団を敷きその上で毎朝ストレッチをして、終わると畳んでクローゼットに仕舞い、就寝時に取り出してまた敷くという日本の風土に合わせた就寝体制の構築をしている。

 なので、ストレッチ後に大の字になる場合、それは成り行き上布団の上ですることになるわけだが、一人用の布団なので大の字になると流石に手の肘から先、脚の膝から下くらいは布団からはみ出てしまう形になる。
 神となって自分自身を天界から眺めてみるとやや見苦しい。
 布団を仕舞ってから床で大の字になれば良いのではないだろうか?という案が神である俺から提案されるのだが、それだとストレッチからスムーズに流れてきた朝の流れが途絶えてしまって効率が悪い。
 「日本の狭小住宅におけるベッド使用の非効率」を叫び狂いながら、非効率な布団の使い方をするという矛盾はなんとしても避けたいのでここは、見苦しさに関して妥協することとする。見苦しくて何が悪い。自室だ。誰が見ているわけでもない。

ならばいっそと考える。

 大の字になる心地よさを増大させるため、全裸になってはどうか?
見苦しいことこの上ないのは承知だし万が一、妻が突然入室してきた場合に黙認してくれるかどうかが疑問である。
 最悪なのは娘が突然入室してきた場合であるが、これについては考えたくもないし、可能性が薄いので無視するとして妻の場合は十分に有り得るのでこの点についてはかなり熟考した結果、私は全裸を選んだ。

思わず利き手で性器を握ってしまう衝動

を抑えながら仰向け大の字になると、布団からはみ出した腕の肘から先と脚の膝から下が、剥き出しのフローリングに触れて涼やかである。
 事前にエアコンの温度をやや高めに設定、サーキュレーターで微風を送り込むようにしておいたので、不自然な冷気はなく、適温適風の快適さと大の字全裸の開放感。

すばらしい。

 そのまま目を瞑ってみたところ、なんとなく頭の中に以前の記憶。
 幼い娘を伴って富士の麓の大規模公園の草原に大の字仰向けで並んで横になって見上げた曇天の空。
 どんよりと曇ってたなぁ。

 そんな感じで心は草原に寝転んでいたのだけども、しばらくして我に返るとやはりそこは自室。全裸で大の字になり、腕の肘から先と足の膝から下は布団からはみ出している。

 そんな体験から、人間、快適に過ごすのに必ずしも大金が必要なわけじゃないし、だだっ広い土地も部屋も必要なく日本の狭小住宅だって十分なのだ、人がひとり全裸で大の字になるために必要なのはせいぜい。

二畳。

 そう悟ったそんなわけ。

(to be continued...)

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