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【コラム】テーマと私

 コラムなんつって表題つけてるけれども、こういう短文だったりこれよりは、ちょっと長めでやや深堀りしたエッセイの類、小説詩短歌俳句等の所謂文芸的なもの、人によっては評論だとか批評だとか愚痴、やや悪趣味なものとしては他人の記事に対しての誹謗中傷、暗い話で公開懺悔、お役立ち情報では自作料理のレシピ、宛のない報告、閉じた世界の日記等々等々、その気になれば脳内で完結して満足できるかもしれないものを敢えて「書く」という行為。私のように半分趣味でタイピングしてインターネット上で公開する者もあるし、タイピングしてそのままPCの中に保存し時々読み直してニヤニヤする人もいるだろう、更にそれを紙にプリンターで印刷し自室の床一面にばら撒いてその上で大の字になり絶叫する天才も存在するし、また筆記用具を使用して紙、布、家の壁、公共施設の外壁、他人の家の門扉や塀、自分や他人の表皮等に書き散らす者も少なからず存在する。その「書く」という行為。

 ある一時期、私はこの行為を完全に舐め切っていて、小説だろうが詩だろうがそんなもの、その気になりゃ無限に作れるだろう、なにを小難しい顔してうんうん唸る必要があるか、簡単じゃん書きゃいいんだよ書きゃと心の底から思っていたその時期、とにかくなんでもいいので目についた物人事象を書く(打つ)例として出すならば「ああ、黄色い、嫌な色の夕焼け」とか、そんな文字を実際に打って、その完全に無意味な一節から小説や詩を想像妄想創造し、書き殴っていた。

 思った通りの楽勝でした。

 そんなもの、その情景描写と、そこから発展する小説の内容が合致している必要なんか恥毛ほどもないわけで、先程の戯文の後に「国会議事堂の床にどこから入り込んだのか一匹のアリがちょこまかと、迷ってしまって困った困ったという風情で走り回っていたしかし、本日夕飯のメニューを思案しながら歩いてきた総理大臣の、安っぽい、流通センターのセールで購入した、ウレタンの、靴底に踏まれ死に、残骸はつま先で踏みにじられ跡形も無くなって一巻の終わり。」という文章を打ち、そんな代物を小説投稿サイトで大量に公開したりして喜んでいた。いや、これは例ですよあくまでも、前述の通り。この内容の小説を探しても(おそらく)ヒットしないと思うので念の為。
 いやしかし、蓼食う虫も好き好きとは良く言ったもので、こんな執筆時間2分のような作品でも読むやつはいるし、中には感想を書いてくれる親切な方々お方もおられる。特に制作意図も無く書いていたので、そのありがたい感想に対しても当たり障りのない無機質な返答をしていただけであって、今考えると何たる失礼千万な行為をしていたのかと恥じ入ることしきりです。

 有頂天の極み。

 そんな極まった日々の中、別のサイトで100文字小説とか1000文字小説とかいうザックリしたテーマというか制限の中で小説を書く、という企画があり、極まり過ぎて目の座った私はちょろいちょろいと実際に声に出して言いながらこの執筆に取り掛かったここで、自らの厄介な性格のために思わぬスランプに陥ってしまったのだ。

 100文字と言われたら100文字、1000文字と言われたら1000文字。
 とにかく文字数カウントアプリを使用して句読点込みで本文をこの文字数ぴったりで収めなければ気に入らない。
 私はそういう四角四面の性格でこれを曲げることができない。
 その四角四面が生活上の弊害を誘発すること多々で謂わば「四角四面で四面楚歌」という字面を見るだけでもカチカチ感が知れるまさにその通り、角張った問題が起きるのである。
 いや、文字数を揃えるなんてのはたいして難しくはない。
 まずは書きたい放題に書いてオーバーしたら削る、不足なら何でもいいので書き足す。そして言い回しやなんかを書き換えたりして、いちいち文字数カウントアプリで調べていけばいいだけである、しかし。
 このテーマってやつがもうちょっと内容に寄ってくるとダメだもうダメだ、あーもうダメだ。
 特にその作品の最初の書き始めなんてのはテーマが頭から離れなくて脳内でただひたすらぐるぐると回り続けるのだ気が狂う、なのでとりあえず狂う前に打ち込んでみる、まっさらのメモ帳のど真ん中あたりに。
 すると精神はやや落ち着きを取り戻すのだけど、テーマが頭から離れることはない。
 うまいことに私の従事する労働というのはある程度のルーティンを身体が覚えてしまえば脳は不要。なので肉体は労働、脳は想像みたいなことも可能ではあるのだが当然、脳の働きの殆どをテーマに取られているので目だとか鼻だとか耳だとかいう、センサーみたいな働きをする器官の感度は著しく落ちてしまっていて、異臭異音に気づかない、見ているようで見ていないので不良品を垂れ流しにする等の現実的な問題が随所に出現し始めるし、それを上司がやんわりと指摘することもたまにはあってしかし、聴覚は働いていても脳はテーマに支配されているので、まったく心の通わない空返事で応え当然、指摘された事自体も覚えていないという、労働者いや社会人として完全に不適合な人のようになってしまうことから信頼が失墜し、失業一家離散アルコール中毒薬物中毒の末糊口をしのげなくなってでもしのがなければならないから闇バイトに手を出し運悪く捕まって投獄される。
 というのは真っ赤な嘘というか、現実にはそこまで酷い状況には陥っていないにしても、そうなる可能性は否定できないのである。
 ではこのような悲惨な末路を辿らないようにするにはどうしたらよいか?ということになる。
 そんなことは言うまでもなく、テーマに沿った作品づくりをしない。というのが一番である。が、それだと人は進歩しない。
 悲惨な人生が見え隠れするからその道を通らないということを繰り返していると、結果的に目的地に到達できないまま人生を終えるということも考えられ、たとえば沖縄で南国気分を味わう目的で歩き始めた最初の曲がり角で、見るからに狂犬病を発症している野犬とかち合ってしまったのですぐさま踵を返し、猛烈な勢いで追いかけてくるヤツから逃げ惑うこと1年後、気がついたら酷寒の襟裳に立ち尽くしてむせび泣いていたなんてことにもなりかねない。

 なんの話をしているのかわからなくなってきたのだけど、テーマにこだわるというのは長引かせるとそういう恐ろしい結果を招く可能性を秘めているということで、こういう仕事はちゃっちゃと片付けてしまうに限る。片付けてしまおう。

 真っ白なメモ帳にテーマがぽつりと書いてある。これは前述の通り、自分で打ってそのまま現実逃避していた実際の行為であり、これを無いことにはできない。
 ひとまず改行して。
 脳に浮かんだことをダーッと次々に打ち込む。
 脈絡とかはどうでもいいの。
 短文上等長文上等誤字脱字上等人称不一致上等時代考証無視視点不在で細切れの断片を打っちゃうのである。

 で、そんな調子の文章を失神寸前まで打ち込んだら最後に空行を入れて改行、そしてテーマをもう一度書く。
 これで完成である。

 賢いみなさんはお気づきだと思うけれども、この書き方というのはこのコラムの最初に私が「楽勝」と宣言した有頂天文書作法とほぼ同一である。違うところというのは、最初に打つのが「なんでもいいので目についた物人事象」であるか「テーマ」であるかである。
 何かちんぷんかんぷんなことを言っているように思われるかもしないし、私自身もだんだんそんな気がしてきたのだけど、この違いってわりと大きな違いだと思うのよね。自分が自発的に決めた書き出しと他人が決めた書き出し。しかも後者はその作品そのもののテーマになっていなければならないわけだから。

 そして、この文書作法に若干のアレンジを加えながら執筆した作品を私はnoteに2作、掲載している。つまり、他人から与えられたテーマに沿って書き始めた作品である。

読書没落(お題:はじめての)

幸福の勇気(お題:降りつもる)

 これね、不思議なことに、テーマだけぽつんと置いて発狂寸前まで固執してからヤケクソで書き始めると最初は単なるキーワードとして登場するだけのテーマに少しずつ内容が寄っていくというか「ああ、言われてみればそんな気がする」というレベルで、作品に反映されていくということがわかる。
 私はプロットを建てたりはまったくしない人なので、作品を設計して書くわけではなく、本当に行き当たりばったりで書いているのだけど、それでもほんのりとすり寄っている気はする。

 そう、ジャズのように、テーマだけがぽつんとあって、それを頭の中で繰り返しながらアドリブでどんどん変形させていくような。

 ケルアックが似たようなことを言っていたように記憶しているけれども、なるほどねと最近になってすこしだけ思えるようになってきた。

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