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人の特性

私はアスペルガーという発達障害の症状がとても多く当てはまる。『ああ、私も発達障害なんだな』そう認めると、今までの辛かったことに、納得と安心がやってくる。
『私という人間が間違っていたんじゃなかったんだな』って。

この2年ほど、保育園でのお仕事をさせていただいてきた。
複数の園に在籍して、いろんな園を見られるので、保育園の実態というか現状がよく分かる。


今は発達障害ということを早々に診断として、療育を与える場も増えているし、親も多少は受け入れやすくなっているという部分もあるのだろう。



発達障害というものを通じて、多様性について感じさせられる。
それは、とても有益なことでもある。

例えば、左利きの子どもたちのことだって、その子の身になって考えるきっかけになるんじゃないだろうか。
左利きって、障害ではなく『少数だから合わせてね』ってことで、一般的に広く認識されてしまっているから、誰もなんとも思わず、昔は当たり前に矯正されてきた『人の特性』だと思う。
本人にとっては、物凄く日々の動作に障害を感じるものだから、捉え方によっては障害者と同じなのだ。

・どうしても上手くお箸が持てない
・頑張っても、どうも字が書きづらい
・上手くハサミが使えなくて時間がかかる
・運動は好きなのに、なぜか踏切りや道具の使い方がしっくりこない
・言葉が上手く出てこない
・人といるのは好きなのに、何かと遅くなって迷惑をかけてしまう

そんな風に、右利きのシステムに乗ることができないのは、自分自身の特性に社会の仕組みが合っていないだけのこと。なのだけれど、本人にとっては、自分の不足や欠陥のせいだと感じてしまうことだって大いにあるのだ。
そして、親だって同じようにその子のせいかもしれないとさえ感じて『この子はちょっと遅れがちでね』と、まるで欠陥のように受け取り育てることだってあるのだ。

脳の使いやすい部分が違うというだけの特性だけど、多数派の人が動きやすいように決めたシステムや形態の中では、順応するのに困難が生じてしまう。
人間様の作った約束事の中では、どうしても悩みや壁をつくられがちになってしまうのだ。


そういうことが、発達障害というか、発達特性をもつ子どもたちの中にも起きてしまわないように、個別の対応や専門性のある人が子供の教育の中に入っていくことは良いことだなと感じる。

その必要性を、発達障害という分かりやすい形で示してくれている子どもたちはとても強くて、たくましくて、人間の枠を超えた人としてとの愛の部分に響かせるなにかをもっているなと思う。



今は、共働きが本当に多くなり、0歳児でも保育園にきて、社会を生かされる。
決して共働きを選択することを問題視しているわけではなく。

色んな人との接点ができることでそれぞれの意見を聞くことができて、色んな角度でその子を見られて、受け止めやすくなるし、母親が孤立しないことは、もちろん重要なことだ。
けれど、子供がせっかく発してくれてる愛のサインには気付ける余裕を、お母さんに与えてあげたいし、不当に無駄に求めたり与えたりではなく、母親自身が正当に要求出来るような『人としてのまともさ』を受け入れていいんだと感じることのできる余裕を持てるようになればと思うのです。


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