大切すぎること

子育てをしている時、私は3回手術を受けた。

病気ではないけど、手術が必要なほどの怪我で。


怪我をした時の自分は、結構追い詰められていたなと思う。

私は、完璧主義ということはないけど、
周りからしたらちょっとしたことでも、
不安が拡がりやすい。

自分の行動が未熟な初めてのことをしていると、
その行動自体や順序に間違いがないのか、
非効率的すぎるのではないかーと、考えすぎたり、

自分の判断に間違いがないのかと異常に不安が湧いてきたり、

そういう不安に襲われると、ちょっとしたことでも
パニックに陥る。


末っ子で生きてきたからなのか、人に頼って生きてきたし、

就職するまでの22年近くを、
そこまで自分の重要な部分に触れるような
選択や経験をしたこともなかった。

だから、就職した2年目には、
責任を負うことの小さなステップだったが、
そのプレッシャーでさえとてつもなく大きく
のしかかってきて、私は10円ハゲになった。

実際に仕事では、責任が強く感じられ始める
5年目に到達することは出来ず、結婚に逃げた。



そんな責任逃れが板についている自分では、
子どもという大切な存在の将来に関わるような
重大な決断や日々の関わりの一つ一つを
こなすというのは、無理がありすぎた。


なにか、自分がおかしいとか、
今まで感じたことのないような
漠然とした不安に襲われるとか、
感情がコントロールできないほどの
瞬間に出くわす。

そういうことは、子育ての中では大いにあった。


うまく越えられていないコトがありありと分かっていても、
逃げようもなくて、追い詰められていくような日々だった、
と今は思う。


そういう中で、私がその溢れ出す不安を
アピールするのが、怪我だった。

『もう出来ません』という降参の提示。


それが、虐待として現れる人もいるだろうし、

執着による教育ママのような表現になる人もいるだろうし、

病気として助けを求める人もいるだろう。


それは、どれもこれも
『 手に負えないほど、大切な存在 』を
手にしているからこそだと思う。



私は5年前に子育てから離れ、祖父母や元夫に
お願いしたけれど。

もっと早くに、SOSを出していたら良かったなと、
今は思う。


どんなサインにしろ、ネガティブな形で限界を
示すことはよくない。

もっと、手前で自分の状況や気持ちを
伝えられてさえいたら、

きっとそんなネガティブな表現は
回避できたはずだと思う。


抱えきれない重圧に押しつぶされていた、
あの頃の私に今伝えたいのは、

辛いこと、抱えきれないこと、
それが『薄情な親だから』起きている
現象ではないんだということ。

『愛情』があるからこそ
『今まで得てきた何より大切な存在』
だからこそ、

苦しかったし、限界に達したんだってこと。



あの頃は越えられなかったことも、
自分ひとりのペースに戻して、
少し客観的に観れさえすれば、
また判断できることもある。

誰かの協力の中で、改めて自分と子供の未来を
見つめられることもある。


離れていたとしても、子供の存在が大切であること
に変わりはない。


親になれたことの幸せに変わりはない。



大切なことは、どんな自分で在りたいのか。
子どもにとって、自分がどんな存在でいたいのか。


それだけだと思う。





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