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心中宵庚申[現代語版]5・近松門左衛門原作

心中宵庚申[現代語版]5・近松門左衛門原作

5.

 季節はぐるりと巡り、陽気も汗ばみ、木々の葉も緑が煌めいていた。八百屋伊右衛門の店に並ぶ野菜の水も乾いていく。
 卯月。
「半兵衛は何をしてる。売り物が萎びるわ」
八百屋の女房、つまり半兵衛の養母は苛立つ気を隠す様子もなかった。
「松、さっさと水打ちをしろ」
店を見回して、さらには家の様子も確認し、
「さん、洗濯物が干上がる、早く取り込んで畳まんかい。畳んだら打盤で洗濯物を打って柔らかくす

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心中宵庚申[現代語版]4・近松門左衛門原作

心中宵庚申[現代語版]4・近松門左衛門原作

4.

半兵衛は頭の中で直接半鐘を鳴らされたかの如くの衝撃を受けた。寝耳に水とはこのことである。自身はただ浜松へ実父の弔いに向かっていただけであった。むろん、養母が千代を快く思っていないことは知っていた。だからといって息子が遠出をしているうちに息子の妻を追い出すとは。門火を焚く木片のように胸が燻って燃えてしまう。それは養母への怒りよりも、自身がそれを止めることのできなかった無力感と悔しさの炭火だっ

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心中宵庚申[現代語版]3・近松門左衛門原作

心中宵庚申[現代語版]3・近松門左衛門原作

3.

かるは嬉しげに「介抱をしててね」と千代に言うと、いそいそと障子を開けて台所に立った。
「ごめんください」
 表口から人のたずねる声がした。金蔵のように村の人間だろうか。幸い千代は奥の間にいる。かるは「どなた」と台所から離れた。玄関を開け、そこに立っていた顔を見たかるは胸の底から不快感を覚えた。
「あら、いらっしゃい、リコンさん」
皮肉たっぷりにその男を見た。千代の夫、半兵衛だった。わざわざ

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心中宵庚申[現代語版]2・近松門左衛門原作

心中宵庚申[現代語版]2・近松門左衛門原作

2.

「平右衛門さん、今日は体調どうや?」
 表口から覗き込んで尋ねてきたのは、同じ村に住む金蔵だった。千代は思わず姉の陰に身を隠した。村の中で三度目の離婚と噂されるのは目に見えている。
「千代か、隠れるな隠れるな。今ちょうど茶屋でお前の噂を聞いたところや。千代を乗せたという駕籠かきの男がいてな、なんやまた離婚か」
金蔵はずかずかと屋内に踏み込んでくると、全く気をつかうような様子もなく、面白げに

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心中宵庚申[現代語版]1・近松門左衛門原作

心中宵庚申[現代語版]1・近松門左衛門原作

1.

 田を干すために水を引く。落し水の時期である。山城の上田村に暮らす大百姓、島田平右衛門は去年の秋に妻を亡くし、今は病に伏せっていた。上の娘のかるは婿をとって家にいる。下の娘の千代は大坂へ嫁にいった。
「今朝から仕事がよく捗った。お竹、お鍋、ちょっと休もう」
 台所で働いていた下女たちはひと休みに思い思いに立っていった。
「台所に人がいないやないの」
 かるの夫平六は新田開きの訴訟のため京へ

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