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心中宵庚申[現代語版]1・近松門左衛門原作

1.

 田を干すために水を引く。落し水の時期である。山城の上田村に暮らす大百姓、島田平右衛門は去年の秋に妻を亡くし、今は病に伏せっていた。上の娘のかるは婿をとって家にいる。下の娘の千代は大坂へ嫁にいった。
「今朝から仕事がよく捗った。お竹、お鍋、ちょっと休もう」
 台所で働いていた下女たちはひと休みに思い思いに立っていった。
「台所に人がいないやないの」
 かるの夫平六は新田開きの訴訟のため京へ上っており、ひとりで看病をしているかるは独りごちた。下女たちは隙を見れば休みはじめる。男たちは野へ出ていて、手をかしてくれる人はいない。「薬ひとつも温めないなんて」と顔をしかめ、誰か囲炉裏を暖めてくれないかと人を呼んだが反応はなかった。
「こんにちは、大坂からきました」
 表口から声がした。表には駕籠が着いていた。「新靱の八百屋伊右衛門様から」と駕籠かきは言うと、駕籠の戸を開けた。中から力無く降りたのは、泣き腫らしたのだろうか、目元を縮緬のようにくしゃくしゃにした女性だった。
「千代」
かるは妹の姿を見、駆け寄った。
「あら、駕籠の衆はもう行ってしまったの?お酒でも振るまえばよかったわ」
かるの言葉にも千代は顔をあげることなく、うなだれた。それもそうか、父の病気のことも知らなかったのだもの、心配に違いない。かるはそう考えて妹の肩を撫でた。
「早く知らせようとは思っていたの。けれど大丈夫よ、命に関わる病気ではないわ」
千代は少し戸惑ったようにかるを見た。
「千代は全く難しい姑を持ったわね。半兵衛さんも忙しいころだろうし、自由に出かけることもできないでしょう。高麗橋の伯母さまや、常盤町にも知らせていないのよ。だから気にしないで。今朝は粥を中蓋に三杯も食べたの。千代の顔を見れば、父様の病気はすぐに治るわよ」
千代は驚き、姉の顔を見返した。
「姉さま、父様は病気なの?」
かるも驚いて千代を覗き込んだ。病気のことは知らず、この子はどうして涙を流して帰ってきたの。
「わたし、家を追い出されたの」
千代は眼に涙を溜めて咽び、袖で顔を押し隠した。
 涙を流す妹の袖を引き、かるは彼女を家へあげた。父は回復の兆しはあるとはいえ、話が話なので、父が寝ている寝室には通さずにひとまず居間に落ち着いた。妹の千代の夫、半兵衛。夫婦自体は仲が良く相思相愛の様子だ。半兵衛の実の父は亡くなっていて、今の家に養子に入っている。問題はその養母、つまり姑だ。姑はひどく千代を毛嫌いしていた。千代自身はこの結婚が三度目である。とはいえ、千代に問題があったわけではない。初めの男はお金の問題で、二人目は死に別れて。けれども近所の噂というものは真相などどうでもよいもので、面白おかしく広まっていくものである。お千代が辛抱強くないためにすぐ離婚されるのだ、と広まっていた。茶飲み話には、平右衛門の娘の風下にはいくな、とまで言われている。
「よく戻ったわ。半兵衛さんに離婚を言い渡されたの?」
千代のお腹には四月になる子がいる。身重な妹を慰めるように、かるは背中をさすった。千代は姉の温もりに張り詰めていたものが解けたのか、涙と嗚咽が止まらない。
「半兵衛さんはお父さまの十七回忌で浜松へ里帰りしているの。離婚するから早く出て行け、とお母さまが私を無理に駕籠へ引き摺り乗せて」
かるは余りにも痛々しく、鼻の奥に針を刺したように感じた。
「お腹に子どもがいるものを夫が留守の時に姑が離婚させるなんて。そう酷いことをさせるのなら、いいわ、平六さんが京から戻ったら私と一緒に問い詰めに行こう。ただで離婚させないわよ」
姉の優しさに、千代はますます泣き声を高くした。
「千代、父様が起きてしまうわ、落ち着いて」
背中をさすることしかできない自分が憎く、哀れであった。

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