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死をみつめる日々について。

白い水仙の花言葉は、自己愛、そして神秘。
narcistが由来といわれている。超越した自己への愛と陶酔は神秘でもあるというのか。ほう。

毎週会っていた人に、もう5年も会っていない。
名古屋の地を踏みしめながら、2月を噛みしめた。
だんだんと薄らいできてはいるが、どうしても思い出してしまう。
母の命日は3月12日。だが、意識を失ったのは2月の終わりだった。
昏睡という、死。
あのときの絶望感がまったく忘れられない。
お正月は元気こそ無かったが帰宅できていた。そうこうしているうちにまたもや入院、だんだんLINEの返事が来なくなり、毎週衰弱していく過程を見つめる。妹から、連絡が入る。わたしは確か、金山を歩いていた。その後に会った知人たちの前で笑えていたのかは判らない。
この耳で母の声を最後に聞いたのは、5年前の今頃だったと思う。
夢か現実かわからない、大きな恐怖を訴える、オピオイドでへろへろになった母の声。
なんて言っとったかな。思い出せない。それが最期だなんて思えなかったし、思いたくなかった。
呪文のように唱える「大丈夫やよ、ここにおるよ」は、自身に言っている言葉でもあった。
肉体を抜け出ようとしている魂を認めたくなかった。
母には「白髪のボブのお母さんがみえるからまだ生きるよ」と言っていたが、本当はこの頃にはもうみえていなかったのだ。
わたしは人間だ。自分の意思で見たい現実を見る。母が早々に死ぬ未来など見たくはなかった。
深い眠りについても、やがて起き上がり微笑む母を想像する。
魂のわたしはそれをそっと見つめることしか出来なかった。
わたしのほうこそ、夢か現実かわからなくなっていたともいえる。

毎週通うことはつらくなかったといえば嘘になるが、妙な達成感もあったりする。いや、もっと出来ていたのではないか、とも思うけど。わたしがフリーランスでの活動を明確に始めたのは、母が癌だと発覚する少し前だった。サラリー生活と並行し、開業はコロナ禍(完全に追い風となった)。もっと早く確立できていれば、場所に縛られることなく側に居られたのだろうか。その葛藤は今なお残っている。
温かい母の身体を触れられていたということが如何に貴重なことだったか解っている今からしたら、何もかもが足りないと思ってしまう。

1年くらい前までは、母を抱きしめる生々しい夢をよくみていた。
そうやって少しずつ、触れられない世界に慣れた。
五感で感じられなくなっていく過程をゆっくりと見つめていた、2月。
自分の意志が伝えられなくなったことは、ひとつめの死だと思う。
はがゆさと感謝がエネルギーとして伝わり、わたしはいつも泣くのを我慢していた。
苦しみを終わらせてあげたかった。
そんなことを思い出す。
こうやってときどき吐き出さないと、未だに崩れそうになるよ。

高速ぶっとばして来てくれたこともあったし、広すぎる道路も一緒に見たことがあったよね。
名駅で名古屋嬢みたいにごはん食べたこともあったし、ライブも一緒に行った。好きだった柔軟剤のにおいを嗅ぐといつだって思い出すよ。とても温かかった。丸い少しかさかさした指先、白いしっとりお肌。遺伝子。
あいたいなぁ。
これらをすべて経験したからこそ、母が出来なかったことを全うしようと思っている。父を守れるのは、たぶん、わたしだけだ。

Noteを放置していた間に、母が人間ではなくなってしまっていた。
マルチタスクが好きなうえにわりと何でもそつなくこなせてしまうわたし、そんな人間をもってしても、コントロールできないもの。
ゆとりがあると言い切ることが出来る日はくるのか。
本質的にそうだといえるのか。
めんどくさい人間はいつもそんなことばかり考えている。
誰かのために生きることは、自分のために生きられない奴には出来ないはずだ。
わたしはわたしを全うする。絶対に。

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