24/08/2020:『Take It To The Limit』

今 冬 1

白い息が僕の視界を一瞬だけ遮ると、またすぐに消えていった。ぐるぐると巻いたマフラーに鼻まで顔を埋めて、ブラックスキニーのポッケに手を入れる。コンクリートを叩くチェルシーブーツの音が人通りのほとんどない通りに響く。

「今日のお客さんも少なかったなぁ。」

と、1人でブツブツと呟いた。イヤフォンから古いロックバンドの曲が流れて、モノラルサウンドが左右の耳を震わす。

商店街と交差するように流れる川があって、電源の落とされた電光掲示板やレストランの客寄せ人形が佇んでいる。軽く盛り上がったようにかけられた橋を越えて左へ出ると大通りがあって、北へ進路をとる。青い電飾が銀杏並木を氷の柱みたいにして、朝方の沈んだ気分を少し柔げてくれた。

「お、もう上がり?座っていけよ。」

交差点の角にある半屋台の店舗から豚骨スープの香りと共に声が聞こえてくる。透明なビニールの仕切りを潜る。

「なんだ、こっちも静かじゃんか。」

と、カウンターに座った。

「今、引いたところだよ。」

と、湯気の向こうで短髪が笑った。最近、無精髭が学生の頃よりも似合ってきた。専攻していたロシア文学の作家たちみたいに伸ばす気はないのかといつか聞いたことがあったけど、「あるわけない」と言っていた。

「あったかいのあるけど、どうする。」

「いや、ビールがいいかな。」

と、僕は言った。寒いけど、そっちの方が「1日の終わり」という感じがするから。

コップと瓶ビールが奥から出てきて、お酌をしてくれた。

「ありがとう。飲むだろ?」

と、言って瓶を受け取ると、

「うん、スパシーバ。」

と、彼はふざけて言った。

                 ・・・

昔 冬 1

「どこの世界にこんなクソ寒いところがあるんだと昔はTVを観て思っていましたが、実際自分がそのクソ寒いところにいる訳で、それがとても滑稽です。」

凍りついた街が晴天の下で輝いている。絵葉書の真ん中にある銅像はどこかを指差しているのだが、その腕から氷柱がいくつも伸びていて、それが昭和歌謡のスターが着る衣装みたいに見えた。キリル文字で書かれた街の名前は僕には読めない。

「留学生活は最近、孤独と温かみがバランスよくなってきました。講義に行けば友達がいるし、そのまま一緒にランチへ行ったりもします。でも、帰り道の黒インキみたいな空の下を歩くときは、足の指と同じくらいに心がかじかんだりして、家に帰ってスチームにあたっても中々温まりません。」

6畳半のアパートには西日が差していて、同時に冬の風が入り込んできていた。久しぶりに干していた布団を取り込んで、ベッドへと投げる。

「君も年が明けたらすぐ出発ですね。反対に、そっちは暑そうだけど。」

僕は机に散らばった入学受入書や寮の申請書類を見つめた。ノートパソコンには履修登録ページが映っている。

「それでは、また。お互い元気で帰国まで。」

と、手紙は締められていた。

コーヒーを一口飲んでそのまま絵葉書をファイルにしまうと、僕はベッドに横になって、これから経験することになるだろう孤独や温かみのことを考えた。

                 ・・・

今 冬 2

ゆっくり瓶ビールを飲んだ後、彼はカウンターを出て、椅子をテーブルの上に乗せ始めた。もう少しで始発が出る時間だ。僕も一緒になって片付けを始める。

「最後に食べる?」

と、彼が訊いてきた。

「お前は?洗い物増えるし俺はどちらでも。」

「いいよ、1杯くらい増えたって同じだ。」

と、言って彼は再びカウンターに戻るとささっと調理をし始めた。

北国へ旅立った彼はその後帰国し、卒論を修めると企業には就職せず、なぜか深夜の屋台で働き始めた。「汗をかいてお金を貯めたいんだ。」というのが理由らしい。僕は南国での留学を終えると、同じくそのまま大学を卒業して近所のバーで1日の半分を過ごしていた。ただ、誰かに寄り添うような仕事をしてみたいと思って毎日毎日、訪れる人の話を聞きながらお酒を作っていた。自分のコミットメントがが直接的に、それに瞬時に相手に伝わるこの職業は僕に何となく合う気もしている。

カウンターに2つの丼が並ぶと、僕らは同じように肩を並べて麺を啜り始めた。

「寒けりゃ寒いほどうまいな。」

と、僕は言った。

「作る方も助かる。」

と、彼は言った。

朝が来てもまだ空は夜と同じくらいに暗くて、だけど徹夜した体の高揚感が朝であることを主張している。

「いつ、向こうに戻るんだ?」

と、僕は訊いた。半分くらい食べた頃。

「んー、春が過ぎたあたりかな。まだ向こうは寒いだろうけど、今よりはずっとマシさ。夏までに生活環境を整えて、新学期からはガンガン行く。」

彼はあのクソ寒い街で7年間の博士課程に進む。そこを拠点に、湖の周りに点在する先住民コミュニティが何千年と紡いで来た口承文学の変遷とその文学的普遍性を研究するらしい。

「お前は?向こうから話来てるんだろ?」

と、彼は聞き返して来た。

「うん、けどまだ迷ってるんだ。」

言語センターの講師の口が空いたと以前の留学でお世話になった教授からメールを貰った。真面目に勉強しておいてよかったと思った。でも、向こうに行けばある程度の安定したそして悪くない生活環境で生きて行くことができるが、正直今の生活にもどこかで居心地の良さを感じていた。

「いや、お前は行くさ。俺らはそういう人間だと思う。」

彼は丼を持ち上げてスープまで飲み干すと、ぷはぁと息を吐き出した。

「うん、そうかもね。グラシアス。」

と、僕も食べ終わると答えた。

洗い物を済ませてからガスの元栓を確認して、戸締りをする。少しずつ明るくなってくる空にまた白く息が揺れる。

「コーヒーでも飲んでいく?まぁ、これから寝るんだけどさ。」

と、彼が言った。僕は少し悩んでから、

「悪くないね。」

と、言った。

駅に向かって商店街を歩く。新しい1日に少しずつ順応していくように、街には人通りや車の走る姿が現れ始めた。

寒い寒いと言いながら、白息を追い越すようにして歩く。

きっと、こうして歩くことはこの先どんどん少なくなるんだろうなぁと考えると、急に郷愁に似た気持ちで胸がいっぱいになる。

でもビルの合間から朝日が少し顔を覗かせた時、それも悪くないかなと思った。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

The Eaglesで『Take It To The Limit』。


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