妄言生成に飽きたから他人の記事の感想を書く1 「推し」って気持ち悪いよね しかしたがう思想

わかる。「推し」はキモい。
僕の方が先に言っていたのに!(そうだったか?)

しかし何故気持ち悪いかとか、その辺からしてまるっきり「違い」があったので、それを書いてみよう。

今回の記事は句読点こそ使用するが段落は使用しない。
また「わかり辛さ」を重視し簡潔の反対を目指した。
何が言いたいかはっきりしない結論から書かない冗長な文字列であれば幸いだ。
読み物とはこうあるべきという執着のある人間が両手を上げて逃げ出す、唾棄する、言葉に対する冒涜であるとスマホに火をつける、目をくり抜く、海馬を潰す。
それくらいのものであったら絶頂ものである。が、調理人は料理の味を客としての舌では味わえないように、わたしには私以外の読み手の感触は同期できないので、如何なものか。(誤解しないでいただきたい、あなたを客だとは思っていない。)
つまりいつも通りである。
手癖は癒えぬ。
主義なのでね。


推しという言葉が出てきたのはいつだったか。
2010年代後半には私の観測範囲に現れ出した記憶がある。
記憶というものは概していい加減なものであることは「メーデー」(※邦題)という飛行機事故とその事故調査などをまとめたドキュメンタリー番組に詳しい読者諸氏ならばご存じだろうが、ここではひとまず私の記憶を信頼してみようではないか。
なんせここはわたしの記事なので。
で。
それは「尊い」とかいうキモワードが流行ったよりも1,2年後くらいに見られるようになったと感覚的に覚えている。
この「尊い」は「推し」という言葉によってその生息域を塗り替えられてしまったのか、ここ数年はとんとお目にかかる機会がない言葉へと変じている。
「推し」という言葉自体も、それは過去「〜のファンなの」で済んでいたところを態々謎の造語めいたキーワードを使って「差別化」しているものと認識しており、それが「ファン」という言葉と直接はイコールではなくとも、それを絶滅危惧種にしてしまっている特定外来生物(言葉は生物なので)であり侵略者であるから、それが「尊い」の縄張りを席巻せしめる好戦的な言葉であることは、明らかだ。
うん、読みづらいだろうな。満足。
繋がりもよくわからんしな。ツッコミ待ち。
ここで読者が0になる。そして捻くれ者はいいねする。されないだろうな。誰も読まないだろうもの。フフ。フフ。

さて。で。
当該記事ではそんな「推し」についての書き出しの話題として採用しているのは、私もかつて採用しようかと悩みそれを見送った「推し、燃ゆ」なる小説である。

うむ、もう既になんか、気持ち悪いな。

美術部とか漫画研究会にいたタイプの腐女子を代表とするオタク女子の湿気ってすえたオタク臭がリアルワールドに侵攻を始めた気持ち悪さがある。
断っておくが私は偏見でものを語るし、多様性を自身の特殊性を他者に容認させる為の道具だと思ってる輩を内心軽蔑している。私自身そういう隠れ蓑の裏そして自由の途上にいるからこそ、私自身のその一面も含めて軽蔑しているのだよ、ワトソンくん。(因みに私はホームズを読んだことはない。生まれてこの方小説というものを読んだこともない。これは嘘である)

話を戻そう。

多分、わたしが「推し」に感じる気持ち悪さは、「宇崎ちゃん」なる作品が献血ポスターに使われたときの反発と近いものだ。
単に生理的無理なのである。
これは以前にも書いた触れ込みであるから、とりたてて今再び拡張することはしないけれども、私の中では確かに、それらは同一なのだ。

わたしは「宇崎ちゃん」の「性的な」絵が献血という「公的な」場に乗り込んでくることには忌避感がある。言葉を選ばなければキモいし恥ずかしいからやめろと思う。

このサイテイナボクは、所謂オタクのレッテルを貼られている。
ボーカロイドを必要以上に聴き漁り いまだ機械音楽から出て来れねえトコもある…。
語録だけで成立するんで 奇を衒ってやった記事はもう2度といいね来ねえ。
アニメは見ずもマンガばかり読んでるホリデーには 外には出ねーなんてしょっちゅうよ。
だがこんなボクにもはき気のする「悪」はわかる。
「悪」とはてめー自身のためだけに 一般人を巻き込み一線を越える奴のことだ。
ましてやエロを。
きさまらがやったのはそれだ。

ね、意味不明でしょ?
オタクの悪い癖の展覧である。
内面世界と向き合いすぎて外側の世界に適するフォーマットの出力を疎かにしすぎた結果、その筋力は養われず、結果自分という閉じた輪を循環する言葉達は他者に理解されることを放棄するのであった。
これは口から出まかせである。
いや指だった。
なんせこれは声に出して書いているわけではありゃあせん。
ただ指先三寸(誤用)の夢幻の彼方へレッツラゴ。
まともなのはボクだけか。

はい。
つまり、宇崎ちゃんに対するそういう「場違い」感と同じようなものを、「推し」という言葉の一般への進出には感じるのです。
オタクの中だけで使ってればいいものを、などと生やさしいレヴェルではなく、オタク女の悪いところを持って女がまるでゾンビウィルスに感染していくかのように増殖しているのです。なんてこったぁ。
男オタク文化進出することにはあれだけ警戒心を顕にした社会が、いざ女オタク文化が侵攻に乗り出すと迎合するんですから、日本のカルチャアというものは若い女を中心に回っているのかもしれますぇん。
まあ若い女に流行る→おっさんも坊やも追従せざるを得ない、という下半身的芋蔓算ですな。おっと失敬。

軌道修正。

思えば「推し」は「萌え」という言葉が流行ったときと同じなのかもしれない。
私自身「萌え」という言葉を感嘆的に使ったことはただの一度もないし、今では殆ど聞かなくなった言葉ではあるが、あの言葉が出てきた頃に恐らく一般人がオタクに対して感じていたであろう「キモさ」と、わたしが「推し」という言葉やそれを使う人たちに対して感じる「キモさ」はそう違うものではないと思う。

今でこそ緩和されているが、90年代や0年代などはオタクに対するバッシングは強く、オタク=キモい、という思考傾向というか、自動反応というか、そういう即応がたしかに存在したように思う。
そしてそこに特に理由はなく、後付けで理由を並べ立てることはいくらでも可能だが、恐らくはそれらは本質ではなく、「生理的に無理」という神聖六文字が真理であったのではないかと感じている。
そんなもんだから、わたしが「推し」について感じる「キモさ」について、言葉を並べ立てて理由を考察していくことは非常に容易であり次から次へと出せる自信があっても、やはりその本質は、単に「生理的に無理」と表現するのが最も妥当であろう。
まあ他に、単に他人が使ってる流行りのワードに乗っかるみたいなスタンスは昔から好かなかったみたいなところがあるけれど。
他人の言葉に寄生するものたちにはその報いを与えねばならない。
これ、ツッコミ待ちなんですよね。
義務教育のつらいとこね、これ。

で。
やっと本題に切り行っていくわけなんだけれども、わたしが当該記事に感じた違和感はそう言った背景が関係しているのもあるが、それ以上に当該記事における「嫌う理由」がわたしには当てはまらない部分が散見されたので、そう言った点こそが違和感の正体なのではないかと。
けれどもやはり背景の部分は知っておいていただいた上で踏まえてから踏んでいただきたかったので、ここまで長々と書き連ねた次第である。いろいろ書いているが適当である。所詮は脊椎反射。うそうそ、熟考に熟考を重ねて取捨選択し黄金比の引き算を経てなおまた厳選吟味したさらにほんの上澄のひとすくいがこの記事なんですってば。信じてくださいよ本当です。嘘です。


本題。


わたしは芸能人やアイドルが嫌いではない。かと言って好きでもない。そんな二元論的な尺度ではなく、敢えてわかりやすく表明するならば第三のどうでもいい、つまり無関心と表現するのが適当なのだ、ろうか。
関連して、それらが好きな人を嫌悪しているかというと、肯首に値せず、「勝手にやって」というところである。
ガチ恋ドルオタとかはぶっちゃけキモいと思うし(男女その他性別問わず)、地下ドルとかメン地下とかに入れ込んで大金つぎ込むみたいなフィクションをみかけるに、そういうのが本当に起きている現場もあるだろうから、そういうのは「バカだな」と思う。
バカだな、と思いつつ「明日は我が身」とも思っており、そちら側には割と多くの人間が渡りうるものなのだと思っている。
言ってみればタバコのようなものだ。
最初の一本、興味本位。
それだけで翌日には強い中毒作用が生まれ、強烈にまた吸いたくなる。
そこで踏みとどまればそれまでで、また元通りの生活を送れるが、欲求に負けて「二回目」をやってしまったら、もう、抜け出せない。
禁煙するにも多大な労力が必要になってくる。
少なくともしばらくは、その中毒の餌食である。
他のギャンブルも、ホストも、キャバクラも、恋愛も、そんなものであると思っている。
一回めの興味本位は仕方がなくともそれでもやはり断固拒絶することもできる。
これがなければそもそも沼に浸ることはあり得ない。
次に肝心なのは二回めで、これを避けられれば戦いには勝ったもの同然である。
しかし負ければずるずると、中毒ワールドを転がり落ちていく他なすすべがない。
アイドルとか芸能人も、そういうものだと思っている。
とここで、一つ気になったのだけれど、アイドルや芸能人という括りより広く、例えば作曲家などではどうだろう。
わたしには好き好んで聴くタイプのアーティストが確かにある。
確かにあるが、いずれも「遠隔理解者古参ヅラ」を決め込む程度で、ライブに行ったり、多くの文字列=愛などというオタク根性を発揮して「語る」言葉しない。
歌詞についてこういうことかなというのを書いて投稿はしているものの、別にそれらだからその文字数が出せるのではなく、わたしの多数の生成文字列の中のほんの一欠片でしかない。
わたしは大量の文字を連ねていくのが子供の頃からの恐らく趣味、いや生態であるから、隙あれば文字列を生成している。
スマホ以前はPCへ、PC以前は紙に、鉛筆やボールペンがなくなって手が真っ黒になるまで、文字列か、そうでなければ絵をかいていた。
だからあれらの記事は、彼らへの愛とかそんな気持ち悪いものではないし、まして憎の発露とも言えない。
単なるわたしの生態である文字列生成の一環として彼らの歌詞がその時題材であったというまでのことだ。
閑話休題。
わたしはアイドルも芸能人も別に嫌いではないし、それを好く人達のことも積極的に露骨に嫌いというわけではない。
1が嫌い側、10が好き側としての10段階評価で、前者は5、後者は4ぐらいなものである、強いて言えば。

また、社会を堕落させる共犯関係という断言にも個人的な違和感が拭えない。
言わんとすることは理解の範疇にあり、確かにアイドルや芸能人がなければ社会の様相は一変するだろう。
ただそれが望ましいものかどうかはわからないし、望ましいとしてそれは[誰にとって?]とWikipediaみたいになってしまう。
そも、堕落とは何か。
いやいい、検索した辞書の引用なんてありきたりなことはするな、ここは人気商売の場じゃないのだから、テンプレートをなぞる必要はないのだ。
自分の頭で考えよ。
検索してもいいけどね。
で。
「是正されるべき」とは、断じて思わない。
断じてだ。
当該記事の筆者やその共感者がそう思うことは認めるがわたしは採用しない。
何事にも「べき」はない「べき」だ、という矛盾した言い回しを、恐らくわたしは人生で何度となくアイロニーめいて使ってきている。
それをいうと、「何事も」「何事も」という風には括れないし、「全て」は「全て」という風に一緒くたにできないことも理解している、いや、そういう思考体系を採用し、信仰している。その上で敢えて使用している。それも軽薄に、だ。それが心地よいからだ。使用時によってそれ以外の理由も個別にあるかもしれないが。
短い記事ではあるが、開始早々に違和感にぶち当たり、困惑した。
どの程度。
どの程度「断言するか」。
「どの程度断言するタイプか」、というのは、文を読んでみるまで、話を聞いてみるまでわからない。
わたしも断言を多々使用するが、いざ思っても見ない断言に出会うとこうして面食らってしまうのだから、いやはや狭い世界をかけずり回っているものである。知ってはいたが、だからといって面食らわない緩衝材にはならなかったのだ。それだけのことだ。お分かりだろうか。
次。


美貌というギフトを天から与えられたのに、経済的なギフトも得ようとすることは道義に反するそうだ。
誤解を恐れて再三断っておくがわたしはわたしの信仰する思考体系から、そのように筆者が思うことを否定しないし、認知し、受容するが、わたしは賛同しない、というそれだけのことだ。
ここまで書いてお門違いな「くれえむ」が来ようものなら、人類間の思考体系の溝に再び思いを馳せることになるか、人の感情の捻くれ具合に苦笑をして蕎麦でも啜ることだろう。泣くわけじゃあない。怖いからじゃあない。なにをするだー!ゆるさん!

お断りがながいねん。
まず、まずからして横道で悪い気がするのだが[誰に対して?]「天から」「ギフト」というのが賛成できない。
わたしの採用している(とこの場では設定している)思考体系では、我々は物理現象の結果であって天はなく、神もなく、従って美醜や能力は偶然と結果であってギフトなどはない。
横道になるがギフテッドという言い方も信仰ありきで気持ち悪い。そんなこといったら天才という言葉自体が、天から授かった才、という風に解凍してしまうと怪しいのだが、そこは憑依文字の便利なところだろうか、別のコーデックで異なる解凍を試みよう。
「天と地の差」的な意味合いで、つまり少なくとも日本語の「上」ほど良く、秀でていて、「下」ほど悪く、劣っているという言語的前提イメェジを用いて、天程の才としてはどうか。才というのは辞書的な意味は意図的に検索せずにわたしの印象及び妄想を書けば備わっている能力といった程度の語義に留まるので、これならば、天才という言葉には神秘性が入り込む余地が少ないというか、意図的に減量して受け取ることができる。ここまでしなければいけないのだから、拘りというやつは難儀なものだ。面倒くさい。

で。
道義についてはやはり[誰によって?]定義された[誰のための?]道義であるのかという疑問がある。
少なくとも筆者にとっての道義ではあるのだろう。

次、美貌を持つものはそれによって金銭を得ることが許されざる悪であるか?
かしらね。
うーん、ここまで恰も批判的であるかのように振る舞ってきたが、共感し得る部分もある。
これはその一つである。
わかる。
わかるナァ。(文体パクリ)
まあ、ずるいずるいずるいずるいうわあああああくんかくんかすーはーすーはーこのルサンチマン届けずるいたんにとどけずるい!
みたいな。
感情的発散は生じうるよね。
わたしはとても正直者なので、こういった一般の人々が円滑な社会生活のために欺瞞で隠す後ろ暗い汚いとされる心について生出力したいと思っている(とここでは設定している)し、それは尊重される「べき」だとも思っているよ。(とここでは設定している)
だからね。
わかる。
わかるナァ。(天丼)
わたしは予々生まれによる不平等についての不平不満を説いてきたので、当然わかる。
美醜というのはわたしが最も重視する要素ではないけれど、ルッキズムというものは確かに存在し、美形は歓迎され甘やかされ醜形は邪険にされ厳しく当たられるものだ。
その世の中の二枚舌というか、ちょっと違うな、何ていうんだろう、ふつうに、二面性?も正直やっぱりうすぎたなく気色悪いものに感じて怖気を禁じ得ないしそれによって腕を切る人がいてもまあそうだよねって感じなンですワな。ナ。
「おまえはもういっぱいもってるじゃないか!」
「おまえはもういっぱいもらってるじゃないか!」
そらシュプレヒコールの時だご一緒に!
そんな感じで。
ずるいわな。
「仕方ない」なんて、二の句を継ぐのはごめんだ。
それがあるのは嫌でもそういうもんだから仕方ないってわかってみたってやっぱりずるいって感情も確かにわきいでてくるんだから仕方ない。これに解決方法はない。あるいは単にわたしが知らない。わたしが知らないこととないことは同義で早い。わたしが知らないこととないことは同義ではないがわたしにとってはその主観上はそれが改善されない限り似たようなものである。
まあこれについてつらつらと書いていると延々とずるいずるいずるいうわああああくんかくんかすーはーしてしまうので?ここらへんにして。
ただ。
生まれ持った力を使って稼ぐことを否定するという文脈で見てしまうと、例えば作曲家、絵師、漫画家、映画監督、そういうアーティストはわかりやすいところから、世の中の殆どの稼働者達が、何らかの適性を利用して生かして働いているものに関しては、それら全て否定せねばならなくなってしまうのではないか、という懸念があるね。
生まれ持った美貌でアイドルや芸能人として金を稼ぐとか、女という性別に生まれたからパパ活で稼ぐとか、可愛い声(自称含む)でインターネットキャバクラのクソヴァーチャル売女(おっと、失礼)になってもそれは、生まれ持った音楽センスで音楽やってるとか、生まれ持った作画センスで画家とか絵師やってるとか、そういうのと根っこは一緒なんじゃないかな?
そこに「努力」や「頑張り」の差は実際あるのかもしれない。
アーティストがクソほど苦労してやっと完成した作品を世の中は大量消費し場合によって見向きもされず打ち捨てられるわけだけれど、適当に配信して大金が稼げるのであればそこには努力や頑張りにやっぱり差はあるんだろう。
もちろん美貌の意地や拡張にも努力や頑張りは存在するわけだけれど、インターネットクソキャバクラのヴァーチャルクソ売女などはそれさえも放棄しているしな…おっと、失礼。
知り合いのインターネットクソ女が嫌いすぎて私怨が漏れ出てますね。   ばいいのに。
それらの努力や頑張りもまた満場一致で比較する関数が普及しておらず、個々人が勝手に実装できる自由さの中でわたしもまた勝手に比較させてもらうと、どうしてもわたしはアーティストの肩を持ってしまうというか、そっちの方がずっと大変だと思うよ、作業量、拘束時間、疾病リスクとか全部込みで。
でもさ、頑張りや努力が比例した方が偉いわけじゃないし、みたいな視点もあるわけですわな。
頑張ったのに報われない、努力したけどダメ、よくある話。
頑張った方が偉いとか、努力が報われる「べき」だとかいうのは、「幼稚」「潔癖」そう捉えることもできるだろうさ。
結果に繋がらない頑張り努力が無駄であるかの論はあまりに長くなるのでここでは省くが、頑張りや努力の量が美貌両サイドの方が少ないからと言ってそれが悪になるのかというと、それは単なる僻みの類と言えばそれは説得力がありそうな気がしますわね。
その論調でおしすすめていくと、なるほどそれらは生まれ持った力発揮しているだけなんだとやはり正当化できそうな気配はあるよね。
まあ、感情的解決はみないけどね、僕もぶっちゃけやっぱりそいつらばっかりスポットライトが当たってクリエイターが冷遇されるのはクソだと思うよ。
外れるが、ヴァーチャルクソはもっともっもキャラデザイナーとか絵師とかが評価されるべきでは?
技術屋冷遇営業厚遇の話にも通じそうだな。やめとこ。
そんなとこで。

なるほど、やりたければやればいいけど、平均的な労働より多額の儲けは規制されるべきか。
やはり同じ話に通じていく、つまり漫画家や作曲家に平均的な労働より多額の儲けが出ないように規制を求める、という話だ。
美貌をもったものだけ殊更に槍玉にあげる理由が述べられていないので、そこだけ規制するべきとする根拠が薄弱に思えてしまう。
ヒアリングする機会があれば聞いてみたいものだ。ネットで他人となんて話したくないけれど。

プログラマー女よりアイドル女の方が稼げることが、アイドル女をしろと社会が求めているのと同じではないかという指摘は説得力的魔力がある。しかしやはり、「プログラマー男より漫画家や作曲家の方が稼げることが、漫画家や作曲家をしろと社会が求めるようなものだ」という文脈で私は全面同意しかねる。そればっかじゃねえかよおまえんちぃ!
そも、アイドルも芸能人も、漫画家や作曲家同様、全員が全員プログラマー(男女問わず)より稼げるわけではない、という視点の欠落があるように感じられる。
恰も全てのアイドルがプログラマーよりかせげると考えるのはどうなのか。
実際そうなのかもしれないけれど、それって地下アイドルとかも枕とかしてドロドロになってやっとの金で多分プログラマーよりちょい多いくらいの話でしょうあるとしても。
それ自体が妄想であるしその妄想が許容されるならばなんとなーくわたしの感覚ではアイドルも全然稼げてないやつは多そうで、そういうやつはやっぱりきったねー仕事してそれこそ体とか売ってそう。(体売ったり枕が汚いというのはこの記事上における設定であり万事常に変わらずそのように捉えるわけではないことを断っておく)

不当な、とは。[誰によって?]決められた[誰のための?]不当なのか。
枕や売女行為は不当かもしれないが、そういうのではないふつうに売れてるアイドルや芸能人(そんなもんがいるのかどうかの議論はさておき)がエロな格好をしただけで「不当」となるというのであれば、エロ=不当ということになる。
わたしはエロも性欲も性別もセックスもこの世から消えてほしいと思っている(と設定されている)が、エロ=不当とは結びつかない。
枕は権力者に取り入って裏口入学的な意味で不当なルートかもしれないが、エロな格好が不当かは際どいところだ。
エロによる唆らせる心によって売上を立てることが不当と思うかどうかは、枕営業を不当と思うかどうかよりもシビアな賛否両論というか、簡単に二者択一されない問題であるように思える。
ただし、エロが不当という結びつけはキレのいい醤油差しみたいな小気味良さがあって大変結構。わたしも使おうかな、エロは不当である。いいね。人類繁殖は不当な行為。本能に踊らされる猿どもが!なんちて。

次。
演劇、歌、ダンス、スポーツ(!?)が槍玉に挙げられている。ここに来て急に裾野が広がるというか、スポーツが追加されたのは流石に出し抜け感が否めないというか、俄に来ましたなぁというところ。出し抜けの使い方に不安を覚える。しかし今伝家の宝刀たる「検索」を縛っているので辞書的意味の誤用指摘コメント乞食行為と思われてもいいから放置しよう。
普通の労働、とはなんなのか。
これもまた難しい。
筆者の想定する普通の労働を併記して欲しい。
筆者の従事する労働が最有力なのではないか。
例えば事務職か、先ほど挙げたプログラマーか。
しかし職業によって給金が異なることそのものへの批判につながっていくのではないかな?
いささか共産主義的というか、なんというか。
共産主義の語をここで適応するのが適当かについて不安がある。しかし以下略。
と思ったらちゃんと続き言ってた。
それは職業に貴賎なしが真であるならば凡ゆる職業は時間当たりに同一の対価を貰うべきだという思想だった。
面白いかもね。辞める人が続出するね。
娯楽産業なんてやめていい、なくていいそういう考え方なのかしら。これは相容れないわね。別に筆者や筆者賛同者がそう思うことを撤回させたりしようとする意志はないけれど、わたしは従いかねるわん。
うーんここらへんはもう、推しという言葉についてなぜ気持ち悪いと思うかでもなければ、それらを取り巻くアイドルや芸能人への話を逸脱して、恰もここら辺の主張をするためだけに他人の記事などでみた推しという言葉が嫌いというセンテンスを興味誘導剤として導入に借用しただけなのではと勘繰ってしまうほどであるなぁ。
と思ったところで無理やりめいて回帰させられた、でもそれってアイドルや芸能人に限らないのでしょう?
それにわたしが気持ち悪いと思う「推し」使用者は二次元相手のやつらもごまんといるからはなからそこをターゲッティングしてない時点でやっぱり借用しただけなのでわ?・ワ・妖精さんです・ワ・

案の定というかなんというか、大量消費社会への批判に転じましたな。共産主義的なほり。
やっぱりその思想の為に借用しただけなのでしょう?その誘導的やり口は消費社会的なやり方なのではないかなぁ。
消費社会に進んでいるのは日本だけに限らず今に始まったことでもないとわたしは思う。
大量消費社会が嫌ならば日本だけでなく世界を変えるか、慎ましい生活をする国にいくか、とかかしら。noteというこのプラットフォームもまた思想の大量消費市場の一つであるし、それを編集しているであろうコンピュータもまた大量消費社会の恩恵の一つではないだろうか。大量消費社会を批判しながら大量消費社会が作り出したデバイスを使用するのは論が仮に立派であっても実行困難であることを自らが体現してしまっていると思える。もちろん、まず知ってもらわないいことにはプロパガンダにならないので、知ってもらうために現行の社会が使う方法に習うのは当然の帰結なのだけれど、それは発信者側の都合であって受け手側の都合ではなく、受けて側に残る印象はやはり先ほど書いたようなことなんじゃないかなぁ。

生産より消費がアイデンティティとなったという考え方は説得力的魔力があり、その魔力を使っていうならば消費者より生産者は裕福であるべきだ、となるが、ここでいう生産者が一次生産者、二次生産者に限っている点で私とは決して相容れない思考であるなという結論を見たのであった。

しかしまとめがうまいな、めちゃくちゃ魔力がある、推し活とは消費社会の象徴的現象と思えてくるもんな、説得を主たる業務とする職業に適性があるのではござらんかオヌシィ。
それでいうとわたしは何かを嫌うことでしかアイデンティティを示せないわな笑笑笑笑
なんてね。
んなわけあるかーい。
ここが全てな訳がない。
いってみればこれはphase5である。

しかし一口に消費と言っても金を使う消費と使わない消費があるわけで。
noteの無料記事を読むことは使わない消費、ライブに行くとかグッズを買うとかは使う消費、リテラシー死人が漫画村系サイトで漫画を読むのは使わない消費、ヴァクソ売に投げ銭するのは使う消費…。
サブスクで映画や音楽を見るのはあんま使わない消費とだよね。
まあそれは「推し活」じゃないのか。
特定のアーティストが好きで動画サイトでそれを聴いてるのは「推し活」じゃないのか?
消費者が金を使ってなくても広告収入は相手に入るんだよね…。
好きでアルバムを一枚ずつ買いました、これは「推し活」とは言えない気がするなぁ。
「推し活」ってもっときしょくて狂人の沙汰なやつでしょ。人生破綻するぐらいの。知らんけど。
逆に「うんうんそれも推し活だね!」とアイカツめいて全部推し活と言えそうでもある。
とすると三次産業消費と推し活を繋げていくことにはここら辺の切り口で剥離面が生ずるというか、不完全さが浮き彫りになっていく気がしますわね。
まあそこは個人のバランス感覚によってそうであるかどうかが左右される部分であるかなと思う。
わたしの言ってることわかーる?
わたしはわかんない。
でもそれってマジでクールなことでさ。
オレはわたしの言ってることをわかる必要がねえんだ。
一日8時間推し活しろ。
24時間推し活れます。
なんか癖になってきた。

しかして他人の記事に感想を書くというのは、原著の筆者より「くれえむ」をいただく可能性があり、つきまとわれてもだるいので今まで避けてきたことであったが…。
新しい試みなのもあり、面白かったな。

最後に。
わたしは世界中が大●●なので、全ての思想の存在を認知し受容したいと思ってるが、それを採用するかは賛同するかは別である。
また他人の言葉に指摘や批判、感想を投げかけることは比較的容易く、発信者と発信にはその比ではない困難が伴う可能性があり、わたしは発信者と発信というものに敬意を表す。
あなたの思想にありがとう。
あなたが敵でも大●●だ。

わたしは少なくともこの記事において嘘つきであり、わたしがこの記事に書いた全てのことは嘘である。
かつ、わたしは少なくともこの記事において正直者であり、わたしがこの記事に書いた全てのことは真である。

さて、あなたは誰だ?






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