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正論って、正義じゃない。

 深夜です。深夜2時20分。ふいに感傷的になる時間帯でもあります。2時22分。とつぜん猫目の頭によみがえった言葉がこちら。

「正論は正義じゃない」

正確には、彼女はこう言っていた。

「でも、正論って正義じゃないから」

 《でも》の接続詞の前のお話がどうしても思い出せない。いつもこの会話は、台詞の前後が空白。おそらくこの一言に衝撃を受けて、こちらの時間は止まってしまっているのだと思う。この一言と、その時の感覚だけは今でもよく覚えているというのに、肝心な会話が思い出せない。

 いったいそこに何が含まれていたのか。
 思い出すことができない。

 ただ、震えた。震撼したと言ったほうが合っているかもしれない。意味合いはどちらも同じだけれど、あの時たしかに心が震え動いた。

 思えばあの夜から三年が経つ。あっという間だった。本当に、あっという間に彼女は仕事を変えて、それ以来彼女とは一度も会っていない。猫目も転職したから職種もバラバラ。そうかと言って、話すことが無いわけじゃない。話したいことなら山ほどある。富士山くらいは、ゆうにある。

 会いたくないわけでもない。むしろ会いたい。ただ結果を出してから会いたい。言葉の仕事で何か結果の爪痕を残してから、彼女ともう一度話がしたい。意地っ張りだと思う。

 彼女と話している時、脳がブドウ糖を欲しているのがよくわかった。彼女の吐き出す言葉はあっさりしていて、柔らかくて、その反面で、深い意味を含んでいた。流すことも、手に掬うことも出来る言葉たち。

 とにかく言葉の連なりが美しかった。まるで小説の一説をさらりと引用してくるような物言い。それなのに嫌味はまるでない。不自然でもない。聞けば、学生時代は辞書を読んでいたという。

「辞書って面白くない?」

 そう口にした彼女に、猫目はなんと答えただろう? どんな顔をしていただろう? 無理やり口角をあげていたような気もする。なんといっても当時は、辞書の引き方すら危うかった。家にあるのは『小学国語辞典』と記された可愛らしいヒヨコのイラストが描かれた大文字の綴られた辞書のみ。しかも、未使用同然のように状態が良いとくる。

あれから

 『国語辞典』『類語辞典』をめくる習慣がついた。否否。習慣をつけた。あまりに言葉を知らなかったから。それから自分は誕生日に、友人から電子書籍を贈ってもらえるほどに、言葉に執着するようになった。言葉は息を呑むほど美しい。どんな色にも染めることができる。なんの色もつけないことも可能だ。言葉というのはもっとも自由な表現技法といったところだ。

 心のこもった言葉はそれだけで、安らぐ。それが自身の語彙というやつだろうか。無理に引いてきたわけでもない。抜き取ったわけでもない。言葉の方から、ふいに寄り添って味方をしてくれるような、温和で不動な存在。語彙。年上の彼女の言葉はどれも、原稿用紙に書き留めておきたいくらい、美しかった。

「Sさんの言葉って綺麗ですよね」
 と、言った猫目に、
「そんなの言われたことないよ」
 と、笑った助手席の彼女の横顔を、前の車のテールランプが赤く染めあげる。奇妙な美しさを孕んでいた。また彼女は言葉が達者なぶん、ときどき棘が鋭かった。痛いな。そう思ったことも何度かあった。だけどそれらは全部ホンモノだった。世の中には話すのが上手い人はたくさん居る。だけど、そこにホンモノの言葉はあまりに少ない。

 彼女の言葉は映画のワンシーンでもなければ、小説の一説を読みあげたわけでもない。それでも普段一般にはあまり使われないような言葉たちだった。違和感のないだけにそれに気がつくのは大変だったかもしれない。

 どうして彼女の放った言葉たちは、あれほどにも魅力的だったのだろう?

 答えは少しだけ、見えてきた。

 それは、寄り添ってくれる言葉だったからに尽きる。自分と息の合う言葉というのが世の中には存在しているように、猫目は思う。

 恰好のつく言い回しをするのでもなく、
 秀才を飾り立てるのでもなく、
 無理に難しい言葉を擦りつけるのでもなく、
 誰かの敷いたレールをなぞっていくのでもなく、

 自分の呼吸に合った言葉だったから、美しかったのだと思う。

 きっと文章も同じだ。自分の文体という呼吸と、息の統合する言葉がある。表現がある。それが語彙なんだろう。

 言葉を一方的に引っ張ってきてはいけない。それでは誘拐といっても過言じゃない。辞書に載っているすべての言葉を欲したってそう簡単にはいかない。言葉のチカラは無限大で、なおかつ偉大だ。

それこそ言葉にならないくらい。


 人間が食物連鎖ピラミッドの頂点に立っているのだって、言葉があるからだと思っている。言葉を失った人間の思考はやがて枯渇を免れないだろう。

 さて、正論は正義でないという言葉。

 その通りだろう。正論は決して正義にはなれない。そんな重大なことを何気ない会話の中に組み込んでくる。何度も言うが、彼女の言葉はいたって彼女の味方をしている。彼女のことを信用している。

 正論を諭すことが誰かを救うとは限らない。その通りだろう。きっと知らないうちに誰かの癇癪をかっているだろうし、誰かの心を抉り取っている可能性もあるだろう。

 だからこそ、気をつけたい。正論は時として最大の凶器に変わる。誰かを傷つけるために文章を綴っているわけでもないのだから、慎重になろう。たとえば、小説を書くときに「テーマ」というものが存在する。

 テーマに沿って物語を進めていくことで、作中の物語はブレない。またはブレを修正することができる。しかしテーマを押しつけるのは、やっぱり、よくない。

 伝えたいことは、しっかり伝えよう。

 たしかにその通りかもしれない。これは正論に部類される言葉だろう。しかし、伝え方はいろいろある。「何が何でも伝えたい!」という書き方だったり、「一応伝わったらいいなあ」くらいの気持ちで描いたり、いろいろ。

 問題はつまるところ、読者を想う気持ちだと思う。それさえ忘れなければきっと言葉はこちらの味方についてくれる。あまりに押しつけがましい表現というのは、あまり美しくない。

と、思うわけだけれど、

 正直これだって文体ひいては、その物語の色によりけりだ。言葉も文章もなかなか難しい。壊れやすいし、突っ走りやすい性質をもっている。

 かの芥川龍之介は、文章についてこう残した。

『 文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。 』彼は本当に美しい文章を描く。まるで絵画だ。優しくて、明晰で、そして正しい。正しくあろうとしている。まっすぐな文章だと思う。

 さらに、小説について芥川氏はこう記している。

『 本当らしい小説とは単に事件の発端に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生におけるよりも偶然性の少ない小説である。 』
 ここには哲学が宿っている。あらゆる哲学は人の心だけじゃなく、言葉にも深みを与えてくれる。哲学は答えのない学問だと言われている。答えのない学問なんて、なんて素敵な表現だろう。哲学を介した言葉もまた力強い。

そんなこんなで

 今日はある女性のことを思い出して、文字を綴らせてもらった。ここでもいくつも言葉が自分にチカラを貸してくれた。いつか、彼女に再会して物語について語りたい。

「正論なんて、ここには一つもありませんでした」と。

 あるのは事実を繋いだ夢のような言葉たち。その夢は、今も自分の手にはおさまっていません。きっといつまでも経っても手にはいりません。そうじゃなくては、夢とは呼べないですよね。自分には夢をつかまえておくことが出来ません。だからいつまで経っても夢のままです。夢は自由に飛んでいるべきです。鳥は、羽を伸ばして空を飛んでいる時が何よりも美しい。

 作品を仕上げることが夢なんじゃない。
 小説を書きあげることが夢なんじゃない。
 物語を紡いでいくこと、これもまた、夢じゃない。

 これらはすべて人生そのものであって、夢とは常にそこらへんを漂っているもの。手を伸ばせ触れることが出来て、そしていつでも手放せる。そんな夢がひときわ輝けるのが自由に羽ばたいている時だろう。だから、夢をつかまえたいとは思わない。ただ、見えるようにはなっていたい。


 なんだか話が逸れに逸れて、まとまりのない文章になってしまいました。今回は思いついたままに文字を綴っています。決して悪いことではないと思いますが、読者の皆さんのことを考えて文字を綴っていくのもまた、親切であって思いやりです。皆さん!今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます!嬉しいです。読者がいてくれるという、感謝の気持ちを忘れないよう、これからもいろんな言葉と楽しみながら苦しみたいと思います。

 それでは、また!




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