見出し画像

溝底育苗の「溝」の深さは25cm以上にした方がよいかもしれない、原始仏典と福音書にみる「悪魔の誘惑」の比較など

「原典訳 原始仏典(中村元編)」にお釈迦様が悪魔の誘惑を受けるお話が出てきます。

「ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るためにつとめ励み専心し、努力して瞑想していたわたくしに、悪魔ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいてきて言った」

実は新約聖書の福音書にもイエス・キリストが悪魔の誘惑を受けるお話が出てきます。

「それから、霊はイエスを荒野に送り出した。イエスは40日間そこに留まり、悪魔の誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた(マルコ福音書第1章)」

新約聖書には4つの福音書が収録されています。そのうちの「最古」で歴史的に存在したイエス・キリストの実像に最も近いとされるマルコ福音書にはただこうあるだけです。

一方、おそらく「後世」の付加があると見られるマタイ福音書には、「40日間、夜も昼も断食した後、空腹を覚えられた。すると誘惑する者がきて、イエスに言った」

つまり、マタイ福音書を、イエス・キリストは断食をして空腹になった状態で悪魔の誘惑を受けたことになっています。

これを原始仏典と比較してみると、

悪魔は「あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命があってこそもろもろの善行をなすことができるのだ。」

と言ったことになっています。

原始仏典には断食をしたとは明記されていませんが、お釈迦様は、「私には信仰があり、努力があり、また知恵がある。このように専心している私に、汝はどうして生きることを尋ねるのか。

この風は、河水の流れをも涸らすであろう。ひたすら専心せる私の血がどうして枯渇しないであろうか。血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉がなくなると心はますます澄んでくる」

とお返事なされたので、「苦行」の中身は食事をしない状態を含んでいたのではないかと思われます。

このように原始仏典とマタイ福音書では、お釈迦様なりイエス・キリストが「苦行による空腹」状態で悪魔の誘惑を受けたと言う点が共通しています。

ただ、ちょっと違うのは、原始仏典では悪魔は「生きよ、生きていてこそ善行が積める」と苦行からの離脱を進めていますが、マタイ福音書では「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言っている点です。

つまり、原始仏典では悪魔は単に「断食を止めて生きることを選べ」と言っているのに対し、マタイ福音書では「神の子」の奇跡の力で石をパンに変える事を勧めているわけです。

これに対するお返事は、お釈迦様は先述のように苦行によって肉がなくなり、心が澄んでくることを選ぶと言うものです。

先の言葉に続けて、お釈迦様は「私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、我が心はもろもろの欲望をかえりみることがない。

見よ、心身の清らかな事を。汝の第一の軍隊は欲望であり」

と仰っしゃられています。

この後、お釈迦様は悪魔の8つの軍隊を「欲望」、「嫌悪」、「飢渇」、「愛執」、「ものうさ・睡眠」、「恐怖」、「疑惑」、「みせかけと強情」だと指摘し、

「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉に、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することは、ナムチよ。これらは汝の軍勢である」

と仰せになっています。

イエス・キリストの方は、有名な「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言うお返事をなさっています。

この後、悪魔はイエス・キリストに対して、「イエスを聖なる都に連れていき、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら飛び降りたらどうだ』」とか「もし、あなたがひれ伏して私を拝むなら、これら(すべての国々の繁栄ぶり)をみんなあなたに与えよう」とかと誘惑していることになっています。

実は悪魔の誘惑に屈すれば「すべての国々の繁栄」が与えられると言うのは、お釈迦様が言う「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉」が悪魔の軍勢だと言うのに共通する認識かもしれません。

ただ、原始仏典の場合、悪魔とお釈迦様の一問一答でがなされるのではなく、「生きよ」と言う悪魔に対して、お釈迦様の方から「誤って得られた名声、利得、尊敬、名誉」が悪魔の軍勢だと指摘しています。

一方、マタイ福音書の方では、3度の問答を経て、イエス・キリストが「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお返事して、「悪魔を拝む」事を拒否されています。

この3つの問答のうち、第一と第二では、悪魔は「神の子なら」と言っていますが、第三では悪魔を拝めと言っています。

第一、第二の誘惑と第三の誘惑の間には論理的「矛盾」があるのですが、たとえば「パン」のために奇跡の力を使うことは結局悪魔に屈することになる・・・

つまり、人が誤った行動をする時、いつしか「矛盾」にはまり込んでしまっている点を言外に述べています。

なお、原始仏典のように、悪魔の8つの軍勢が「欲望」、「嫌悪」、「飢渇」、「愛執」、「ものうさ・睡眠」、「恐怖」、「疑惑」、「みせかけと強情」であると言った指摘は、マタイ福音書には見られません。

このように見てくると、原始仏典とマタイ福音書では、断食修業中に悪魔の誘惑を受けると言う描写は共通していますが、「悪魔の誘惑」とは何かと言う分析においては、共通性は見られるものの、その分析内容の力点の置き方に違いがあるように思われます。

さて、この間、地面に掘った溝の底にセルトレイを置いて苗を育てる実験をしてきました。

どうも、溝の深さが20cmだと土が乾きやすく、連日か、少なくとも2-3日おきには水を与えないといけないようです。

深さが25cmあると、土が乾きにくく、頻繁に水を与える必要がないようです。

たった5cmの違いなのですが、地面に掘ってみると、意外と「深さ感」が違い、20cmの溝はやや浅く、25cmの溝は「深い」と言う感じがします。

20cmの溝底で育苗した小松菜やサニーレタス、コールラビなどは、土が乾いて、苗が干からびそうなのを地に植え替えて、やっと救済できた感じがしました。

一方、25cmの溝底で育てたビーツは元気な状態で定植出来ました。ナス・トマト・ピーマン・セロリの苗は土が乾くこともなく、育っています。

今後もこうした比較をしていきたいと思います。

昨日は最高気温23℃、明日は24℃との予報が出ています。4月中下旬頃には「平年並み」の気温に近づくと思われますが、日によって25℃近い時が出てくる可能性があります。

本日は小松菜、水菜、チンゲンサイの種まき、ネギ・リーキ・アスパラの育苗開始の予定です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?