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identity

二ヶ月ほど前の話になるが、旧Twitterのタイムライン上で或る映画の予告投稿が目に留まった。
予告は、こんな一文で始まっていた。
"自分が死ぬところばかりを空想している。"と。
この一文に誘われるままに読み進めていった先には、
"生きるのが下手で頭の中で日々そっと静かに"死んでいる"女性が、琥珀糖のように淡くてうすくて透明な、恋をする映画を上映します。"と記されていた。
そのあまりに趣のある文章は画面から私の瞳へ入り込み、脳を伝って指を操り投稿のハートマークをピンク色に染めさせた。ほんの一瞬で。これぞ「即いいね」である。
予告投稿に続いてホームページ上で予告映像を観た時には、何故か涙がポロポロとこぼれ落ちた。何故か。あれが何の涙だったのか今でも解らない。謎の涙が頬を伝った。まさか本編を観る前に予告映像に泣かされるなんて。生まれて初めて起こった現象に自分でもびっくり。
ただ心が疲れていただけなのかもしれないが、なんかもうとにかく猛烈に惹かれてしまっていた。
今思えば恐らく、少なからずその女性にシンパシーを感じるところがあったのだろう。

私自身、死ぬ空想をしたこともあるし、孤独を感じることもよくある。
直感的に、きっとこの映画は私を癒してくれるに違いないと思った。たぶんこれは映画館で独り閑かに観たい系のやつだと思った。そして約二ヶ月前から映画館に行くためにスケジュールを空けた。そしてそして先日、東京の公開初日に映画館で独り閑かに観てきた。計画通りである。映画館に通い慣れた人間ではない私にしては、結構玄人っぽい事をしたように思う。

『Sometimes I Think About Dying』

これを『時々、私は考える』と変換する日本人の心を誇らしく感じながら…観始めてみるとまずこの映画、やわらかな音楽が良い。そして、言葉で状況説明しすぎないところが良い。
総じて、押し付けがましくないところが良い。
作品全体の雰囲気もお洒落で、フランス映画のようにも感じられる。
穏やかで洗練された時空が、人間の歪さや不器用さを際立たせていたと思う。
とてもやさしい映画だった。

観終わると、昔読んだ『生きる稽古 死ぬ稽古』という本のことを思い出した。
私がその本を読んだのは随分昔(Amazonの履歴を確認したところ、2021年の7月に購入していたのでちょうど三年前のようだ。)のことだが内容はよく憶えていて…
中でも、禅僧である藤田一照さんの「生と死は紙の裏表みたいにひとつのもの。」という言葉がいつも頭のどこかに在った。
生と死は表裏一体。

まさに…!

映画の中の彼女は生きつつ死んでいたのである。
監督であるレイチェルの「人は死ぬことを考えるとき、本当は生きることを考えているのだと思います。」というコメントを見て更に、益々あの本と繋がるなぁと思った。

一本の映画と一冊の本が三年の月日を介してリンクするというなんとも不思議で運命的な体験。
禅僧の思考が海を介して脚本家の思考と繋がるとは。なんかロマンチックだ。なんか宇宙を感じる。結局全部繋がってるんだなぁなんて。

『生きる稽古 死ぬ稽古』に、"まず「私がどんなヒトなのか?を立ち上げてみよう。「偶然」の寄せ集めの「私」の輪郭を知ることが、「生きる稽古」そして、いずれくる「私」の喪失、「死ぬ稽古」になるのです。"と記されている。
『Sometimes I Think About Dying』の彼女フランは、きっとこれから生きる稽古と死ぬ稽古を重ねていくのだろう。フランに幸あれ。
持論だが、登場人物の行く末というかその後が気になる物語は上質な作品だ。
つまりそういうことである。

表裏一体である生と死。その繋ぎ目を感じる。
それによって見える景色は一段と深みを増す。

生きる稽古と死ぬ稽古を重ねることでアイデンティティが育ち、磨かれてゆくのだとそう信じて。

私も生きつつ死んでいたい。



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