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「応援」「期待」に疲れたら

とても正直で清々しいエッセイを書くマリナさんが、これまた超好きなエッセイを書いていて、そしてその内容にあまりに感化されて抑えきれなくなってしまったので、思い切って書くことにした。

マリナさんの記事はこちら↓

今から書く記事を読んで、私のことを嫌いにならないで欲しい。(と、これまた都合の良い予防線を張ってみる)

数日前、1年ほど休職していた会社を辞めて大学院に行くことにしたという旨のnoteを書いた。

この記事をキャッチしてくださった本当にたくさんの方に読んでいただいて、そしてたっくさんの励ましの言葉をいただいたり、サポート(投げ銭)してくださった方もいて、もう嬉しさと感激で胸がいっぱいになった。

「素敵だ」とか「かっこいい」とか、そんなスンバラシイ言葉までかけていただいてしまって。いやいやそんなことないから、と思いながら(本気で)。

それはそれは本当に光栄なことなのだけど、ほんの少し、もやっとした自分がいた。そう、また、厄介なものがうずき出してしまったのである。


「あ、期待に応えなきゃ」っていうやつ。


励ましの言葉は心底嬉しい。おめでとうと言ってもらえることも、良かったねと言ってもらえることも、本当に嬉しいし、ありがたい。だって、おめでたいのも、良かったのも、本当のことなんだもの。それに、有名人でもない一人の人間の、超プライベートな一つの出来事についてこんなに言葉をいただけること自体、とっても嬉しいこと。

ただ、そこで少し、余計なものまで背負ってしまうのが、悪い癖なのである。

少しだけ、疲れてしまった。

大きな励ましの中にある、ほんのちょっとの「期待」「頑張れ」に気づいて、それを勝手に膨らましてしまう。


人からの「応援」を、純度100%でそのまま力にするには、どうすれば良いのだろう。それが上手くできずに、私はいつも、ちょっと苦労してしまう。そして、「こんなに嬉しいことなのに、どうしてもやっとしてしまうのだろう」と少しの自己嫌悪に陥るのである。あぁ面倒な私(笑)。

人からの「応援」にも、いい意味で少しの距離をとって、自分を保つ、自分のペースを大切にする、というのも、必要なのかもしれないなぁ。


〜〜〜〜トイレ休憩〜〜〜〜


うん。今、5分くらいぼんやり考えたら、少しすっきりしてきた。(早い)

たぶん、良い言葉も悪い言葉も、「人からもらう量」と「自分が受け取る量」は、必ずしも一緒じゃなくても良いのかもしれないな。

人を変えることって、無理じゃない?
だからきっと、良いことが起きた時の「おめでとう」や「応援の言葉」の量も、変えられない。悪いことが起きた時の「残念だったね」や「大変でしょう?」も同じ。

でも、自分のことを自分でコントロールすることはできるから(簡単ではないけれど)、「受け取る量」は、自分で調節してみる。

「あ、いや、今はもうその言葉、足りてます」って思ったら、「ありがとうございます」と心を込めてお返事してとりあえず持ち帰っておいて、あとは、置いておく。そのへんに。そんで、足りなくなった時に、受け取れば良い。そんなので、良いのかもしれないな。

うん。

また、この場に救われた。言語化は、最高のヒーリング。
書いているうちに、気づけることがある。

***

誤解されたくないので何度でも言うけれど、おめでとうの言葉も、励ましの言葉も、本当に嬉しい。ありがとうございます。「かっこいい」みたいなのも、ちょっと照れくさいし「いやいや・・・」と本当に思うけれど、それでもやっぱり励みになります。だから、こんなnoteを書いておいてなんだけれど、どんどん言ってくれて良いですからね?(うざ)(欲しがり)

「おめでとうって言わない方がいいかな」「応援したら重荷になるかな」とかも思わないでください。今かもしれないし、今じゃないかもしれないけれど、これから先、どこかで必ず、私のパワーになります。図々しくてすみません。

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今日、友人とランチをしていて、大学院合格おめでとう、とプレゼントまでくれた。すごく嬉しかった。そのあと食事代まで払ってくれようとしたから「いやいや、ここはさすがに、割り勘にしよう」と粘ったのだけれど、「お祝いだからさ」「たいした金額じゃないし」とか色々言われ、最終的には「私はほら、働いてるから!ね!!」という一撃を喰らい、払ってもらうことになった。

なんて優しい子なんだろう、と思った。私がぐぅの音も出ないように、罪悪感を感じないように、そんな風に言ってくれるなんて。優しすぎて、ご馳走してくれたこと以上に嬉しかったよ。ありがとう。らぶゆー!(私信)

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。