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R.I.P. デニーズのラザニア

神宮前のデニーズに到着したのは16時半をまわったところだった。佐竹と北村と私は涼しいクーラーの風に導かれるように、窓際の角の席に着いた。デニーズに来るのはずいぶん久しぶりだ。ウエイトレスから水と一緒に渡された分厚いメニュー表にはサラダ、ハンバーグ、スパゲッティ、和定食、最後にはパフェなどのデザート系に至るまで所狭しと描かれていた。どれもおいしそうには見えるが、ページをめくる度私の不信感は募っていった。

おかしいぞ。どこにもラザニアがないではないか。私の中でデニーズといえば昔からラザニアと決まっていた。カットされたトマトとたっぷりのチーズ、ミートソースがかかったシンプルな奴である。急いで食べようとし、その度口の中に軽いやけどを作っていたのを今でもよく覚えている。

「クァエフjhtfぎこgれる?」そう言われ、メニュー表から顔をあげると佐竹がヤギになっていた。しまった、もうそんなに悩んでいたのか。佐竹はつい先週西アジアから戻ってきた、所謂洋行帰りだ。今日は帰国した彼を祝う為に集まったのだ。



佐竹の初めての変身は17歳の秋の時である。彼と鰻さんとの恋が終わった次の週、佐竹は私と北村をスケートボードに誘ってきた。私も北村もボードをしたことはなかったが、友人が慰めを求めているのだろうと快く了解したのだ。集合場所の銅の時計台前に10分遅れでやってきた佐竹はヤギの姿だった。かろうじてヤギが佐竹だと分かったのは佐竹の部屋に飾られていた紫のイナズマのスケートボードをヤギが背負っていたからだった。

水を持ってきてくれたウェイトレスが注文を聞きに来た。ラザニアがないのであれば何を頼んでも同じだ。私はアメリカンクラブハウスサンドを頼んだ。
「pぇぢfはウェdfvぼn」
「チキン南蛮定食とハンバーグセットで」佐竹が北村の注文を代弁した。
ウェイトレスは周囲にも自分の違和感を伝えようとしているのか、わざとらしく何回もこちらを振り返りながら厨房に向かっていった。


高速下にある若宮公園のスケートパークに入ったはいいが、素人二人とヤギ一匹ではすることもなく、私たちはベンチで缶コーラを開け、知らない人のスケートボードのプレイをジッと眺めていた。何が凄かったかは分からないが、なんとなく凄そうな技(後から佐竹に聞いたが、あれはバックサイド180ヒールフリップと言うそうだ)を褒め合う同世代の人間達が楽しそうにしていた。
「どっか店行かないか」北村と私が同時に口を開いた。

テーブルにクラブハウスサンドが置かれた。私は皿の端にケチャップとマスタードを出した。これはケチャップとマスタードをたっぷりとつけて食うのが最も正式な食べ方なのである。
「まだ変身しちゃうのかい」北村が尋ねた。
(以下私と北村には理解できるが読者の皆様の為に翻訳していくことにしよう)
「そろそろ変身できそうだなって頃合いが予想できるんだ」佐竹が答えた。
どうやら北村は今日あたりヤギに変身できると踏んで、会わないか誘って来たらしい。「懐かしいだろ?」とヤギが言う。彼はあいわらずユーモアのある人間なのだ。
クラブハウスサンドの香ばしいトーストとベーコン、トマトのハーモニーがひと口食べるごとに私のラザニアへの気持ちを忘れさせてくれた。



スケートパークから出て、一番最寄りのデニーズに行き、私たちは4時間くらい話していた。将来の進路、好きな先生苦手な先生、修学旅行の班決めで3組の女子グループで喧嘩があったことなど、当時ゴシップはいくら話しても尽きることがなかった。2時間経った頃には私と北村は佐竹のヤギ語を完全に理解できるようになり、3時間後には佐竹はヤギから人間に戻ったが我々はスケートパークに戻らず、ずっと中身のない話をしていた。中身がなかったから話の内容は覚えてはいない。

小学生の時ピアノの発表会終わりに両親と兄、祖母に連れて行ってもらったのもデニーズだった。外食をほとんどしない我が家だったが、ピアノの発表会後の、あのデニーズだけは違った。ラザニアを冷まして食べなさいと母が言う。祖母は自分の頼んだものを私に分けてくれた。
そんな優しい祖母が先週亡くなった。
6号線沿いのあのデニーズはまだ地元にあるだろうか。


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