まどのうめ

35歳で初産。37歳で2人目、39歳で3人目を産みました。 高齢出産からの3人子育て。…

まどのうめ

35歳で初産。37歳で2人目、39歳で3人目を産みました。 高齢出産からの3人子育て。妊活、保活、下がり続ける体力とモチベーション、地獄のPTA、父の役割とは?受験とは?そして、最も大事なお金のはなし。

最近の記事

子育ては伏線回収である

第一子の成人式の朝早く。 近所の幼なじみが、急にピンポンならして「一緒に写真撮ろうぜ」とやってきたので、家の玄関の前で、スーツ姿の2人の写真を撮りました。 そういえば、小学校の入学式の朝も、その近所の幼なじみはランドセルしょってやってきて、家の玄関の前で2人一緒に写真を撮りました。 小学校の入学式の時は、まだ靴紐も自分で結べなかった2人が、今、ネクタイを自分で結んで「エッヘン」という顔をして玄関に立っている。 それを見て感じたのは、ついに伏線回収キター! という感慨です

    • シニタイヤツハシネ。が今に至ってまで響くのはなぜだろう

      ワタシが言いたいことは、この章タイトルで既に終わっているので、これ以上言う事は何にもないかな?とも思ったのですが、最近いろいろと思うことが多く。 この章は自分の考えを整理するために書きます。 子宮というただの臓器の中で、だいぶ長い間「自分とは違う生き物」を我が身の中に孕み、だいぶ長い間それを我が身の中で育み、死に瀕するほどの大きな痛みと大出血のあげく「自分とは違う生き物」を生み出し、幸運にも死なずに生まれてきた「自分とは違う生き物」を育てることになる。 と、いうのが、妊

      • PTAを、致します

        教師不足です。 少子化が進むニッポンで、児童生徒の総数は減り続けているのに、なぜか、教師が不足しています。 なんでだろう? 小学校教師を数十年経験し、そろそろ退職を迎える義姉曰く。 「若い人が教師になりたがらない。志を持って教師になっても辞めてしまう人も多い。辞めなくとも心を病んで休職状態の人も多数」と。 なんでだろう? その原因はひとつだけではないらしい。 長時間労働を強いられる。 残業代がもらえない。 モンペに追い詰められる。 職員室でのいじめ。 部活で休日が

        • PTAとは、再生産されるスクールカーストである

          今の「あるべきPTA」についての議論として、いろいろな立場でいろいろな考え方があります。 その中で、ワタシは終始一貫「PTAはあったほうがいい派」です。 なぜ「PTAはあったほうがいい」のか、ということを真面目に書こうかなと思っていたんですが、その前に。 どうにもこうにも、積年の恨みつらみを書き殴ってからじゃないと自分の気が済まず、PTAのクソが!を、思う存分に書いてスッキリしてから次に進みたいと思います。 自分にとってPTAとは「再生産されるスクールカースト」でありま

        子育ては伏線回収である

          とっくにくたばってるPTA

          コロナウイルスの影響により、3ヶ月に及ぶ「全国一斉休校」があった2020年。 本来なら3月に卒業式、4月には入学式があって、上の学年に進級する時期を控えた2月の終わりに、突然、テレビで安倍首相が「3月2日から全国の小中高校を休校します」と宣言しました。 確か2月28日だったかな。 なので、「え?明後日からいきなり休校?え?どうすんの?」と学校関係者も保護者も大パニックになったのを覚えています。 子ども達は大喜びでしたが。 2020年の3月から6月まで。小学1年生(6歳)から

          とっくにくたばってるPTA

          くたばれPTA Part2

          ワタシは自分の子どもが小学校に入学するまで、PTAが何なのかを全く知りませんでした。恥ずかしながら。 自分の中のPTAのイメージは「子どもに見せたくない番組No.1」を決めてる団体?ぐらいの認識でした。恥ずかしながら。 ちなみに、PTAが「子どもに見せたくない番組認定」したテレビ番組を挙げると、昭和時代は「ドリフ」「ひょうきん族」、平成時代は「ロンドンハーツ」など。いわゆる「低俗下品なお笑い番組」が、PTAから「子どもに見せたくない番組認定」されていました。 いまだとYo

          くたばれPTA Part2

          くたばれPTA

          この「くたばれPTA」という章タイトルは、筒井康隆氏の小説『くたばれPTA』から頂きました。 この『くたばれPTA』という小説を読んだことがある方はあまり多くないと思うので、まずは、筒井康隆著『くたばれPTA』という小説の解説から始めます。 『くたばれPTA』が新潮社から発売されたのは1986年です。 1986年に6歳だった1980年生まれのヒャダインさんが、筒井康隆『くたばれPTA』についての書評を、毎日新聞のコラムに書いています。 2023年10月に書かれたヒャダイ

          2011年からどうでもよくなったあれこれに関すること。及び今に至るあれこれ

          2011年という年は、自分にとって、それまでの価値観とか人生観とか子育てについての考え方とか日常的な習慣とか、そういった全部がひっくり返った「分岐点」でした。 2011年の前と後では、全く違う自分がいます。 それまでの「日常」が大きく変わったことで、自分も変わりました。 2011年に始めた「佐賀からの農産物の共同購入事業」は、2012年末に終了しました。 理由は、関東全域の農産物の放射線量の「全量検査」が始まったからです。関東各地の生協や小売店が運営するサイトで、扱って

          2011年からどうでもよくなったあれこれに関すること。及び今に至るあれこれ

          2011年からどうでもよくなったあれこれに関すること

          まとめサイト的に書くと私の2011年はこうです 1.東日本大震災で義父母が被災した 2.福島第一原発事故で親戚が被ばくした 3.関東の広い地域で放射線の影響があった 4.九州から農作物を輸入する事業を始めた 5.震災の半年後に実母が末期がんで死んだ 以上です 起こった出来事と自分の心の中で起こった嵐のような感情は決して正比例ではなくてうじゃうじゃしたものが渦巻いており あぁぁうぜぇ~~ 句読点のない文章なんて書けねぇわ ということでいったんリセットします 実母の葬儀の後

          2011年からどうでもよくなったあれこれに関すること

          2011年に失ったもの【4】

          「余命3ヶ月」と診断された母は、本当に3ヶ月後に亡くなりました。 亡くなる一週間ほど前。何も口に入れられなくなった母に「何か食べたいものはある?」と聞いた時、母は「福島の桃が食べたい」と言いました。 死ぬ間際に何が食べたいのか。 健康な私もたまに考えることがあります。自分が最期に食べたいものは何だろうか?と 「福島の桃」は、母の大好物でした。 10年前、私が福島をルーツに持つ夫と結婚して以来、毎年夏になると、福島の桃「あかつき」が佐賀の実家と東京の私達の家に、山ほど送られ

          2011年に失ったもの【4】

          2011年に失ったもの【3】

          母が入院する病院の個室に泊まり込み、母のオムツを替え、夜中に何度か起きて「痰を吸いとる機械」を使って、眠っている母の口を開けて痰を吸引する日々が続きました。 数時間おきに痰を吸引しないと呼吸困難になって死んでしまうので、痰を機械で吸い取るのですが、こればかりは昼間だろうが夜中だろうが24時間続くのです。 オムツを替えることも、夜中に何度か起きることも、私は3人の子育てでめちゃくちゃ経験していたので慣れたものでした。 自分に子育ての経験があって良かったな、とその時は思いました

          2011年に失ったもの【3】

          2011年に失ったもの【2】

          私の母について。 子どもの頃から母についてずっと思っていた事は 「いつも機嫌が悪かった」 「いつも怒っていた」 この二つです。 幼いころ「お母さ~ん、おててつないで~」と言ってお母さんの手を握った時、その手を強く振り払われたことを今でも覚えています。 お母さんは、私の事を嫌いなのだとずっと思っていました。 私は幼い頃、二度死にかけました。 一度目は、5歳の時。親戚の家の「掘りごたつ」に潜って練炭による一酸化炭素中毒で意識不明になりました。 その時、母はその場にいません

          2011年に失ったもの【2】

          2011年に失ったもの【1】

          2011年の4月に予定していたライヴをキャンセルした後、私は佐賀産の農産物を近所の子育て家庭と共同購入する事業を立ち上げました。 福島第一原発事故由来の放射性物質は、関東の農産物に大きな影響を与えていました。 当時、特に、関東で幼い子どもを育てている保護者たちにとって、毎日子どもに食べさせる農産物の放射線量がどれぐらいなのか?ということは一番知りたい事でした。 ところが、2011年の夏になっても農産物の放射線量の検査体制は一向に進みませんでいた。 そのため、関東の農産物は

          2011年に失ったもの【1】

          2011年4月~6月【3】

          2011年4月29日(金)。東北新幹線が復旧しました。 ようやく東京から仙台へ行くことが可能になりました。 夫は、GWを丸ごと+持っている有給の大半を使って仙台へ行き、自分ができる最大限の事をやってきました。 仙台から帰ってきた夫はとても疲れた様子で、ポツリと「見たくないものを見過ぎた」と言いました。 そこから少し遡ること。 3月15日から4月上旬にかけて少し時を戻します。 当時、関東地方では「輪番停電」というものが行われていました。 地震により、福島原発および多くの発

          2011年4月~6月【3】

          2011年4月~6月【2】

          2024年が始まってまだ1ヶ月足らずですが、このたった1ヶ月で、世間ではいろいろな事が次々に起こり、その起こっているすべての事において、今までの「やり方」や「考え方」や「価値観」が通じない、もうどうしようもなく見直さざるを得ない。と、いうような事態になっていると感じています。 ついさっきSNSで 「(自分の心の平穏を保つために)SNSを見るのをいったんやめましょう」 とか、 「ネットなどの情報から離れて、いったん心を落ち着けて」 とかいう投稿を見かけました。 2011年に

          2011年4月~6月【2】

          2011年4月~6月【1】

          東京の水道水の放射線量が「基準値」を超えたことがわかってからの数か月間、どんな事があったか、を思い出しながら書いています。 まず、保育園から子どもがいなくなりました。 西日本に親類縁者がいる人は、3月15日直後から子どもを連れて「西に疎開」をしていきました。 西日本に縁もゆかりもない人ですら、親子で「西に疎開」をしていく家庭もありました。 歌人の俵万智さんが2011年に子どもを連れて、沖縄県・石垣島に移住したのは有名な話ですが、そんな話は「特例」でもなんでもなく。

          2011年4月~6月【1】