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「男の子なのに」と言ってしまった私は、ゆらゆら揺れるブランコに乗る


ひぐらしが鳴く公園に、
負けじと大きな子供たちの声が響く。

「おとうさん、背中押して〜」
「きゃー、怖いー!もう押さないでぇ〜!」

私はベンチに座って、
子供達と夫がブランコを楽しむ様子を眺めている。


✴︎
息子は怖がりだ。

犬が怖い。
小さくても怖い。
前から犬がやってきたら、道の反対側に渡る。
私は、急に道を渡るあなたの方が怖い。

雷が怖い。
鳴り始めると、Tシャツの裾を念入りにズボンのウエストにしまい込み、私の後ろをついて回る。
おやつとご飯は、私にひっついて食べる。

ブランコが怖い。
ゆらゆら揺れて、振り落とされるかもしれない。
お姉ちゃんが楽しそうに乗ってるから、興味はあるけれど。どうしても乗りたくなったら、私の膝の上。

鬼が怖い。
節分の日に、保育園の広場で豆まきをした。
鬼が出てきた広場には、その日以降近づけなくなった。毎週ある運動の時間、広場に行こうとすると、先生にしがみついて泣き、先生を辟易させた。




「こんな怖がりで大丈夫でしょうか。男の子なのに。」

保育園の先生に、言ってしまったことがある。
冷房の効いた教室に、自分の声は響いた。


性別なんてカテゴリーで苦しむ人がいるのなら、無くしてしまえないのかな、とさえ思っていたのに。
この一言で、息子を「男の子なのに」とカテゴライズをして、苦しみを産む側に回ってしまった。
自分から出た言葉に、ショックを受けた。


これまで自分の意見だと思っていた「無くしてしまえないのかな」は、最近のSNSの風潮に合わせただけのものだったのかもしれない。他人事だから思えただけで、自分の深いところの思いではなかったのかもしれない。もしくは、他人の意見を自分の意見だと思い込んでいたのかもしれない。

その事実に、打ちのめされた。





怖がりの息子を可愛いなと思いつつ、面倒くさいなと思うこともあった。
せっかちな私は、1秒でも早く物事を進めたかったから、怖がって私の手を引っぱる息子が煩わしい時があった。

その後ろめたい気持ちを、誰かに共感してもらいたかった。
一緒に育ててくれている保育園の先生が、一番共感してくれるんじゃないかと思った。保育園の先生に共感してもらえれば、面倒くさいと思う自分が少し許される気がした。プロが言うんだから、素人の私がそう思っても仕方ないって。

そして共感を得るために、「男の子なのに」という言葉を使った。ある年齢の人には効果的なんじゃないかと、心の深いところでズルく計算していた気がする。

なぜなら、私の母がよく言っているからだ。
「男の子なのに、怖がりね」
誰かが使っている言葉は、きっと他の誰かにも響きやすい。
だから使ってしまったけれど、決して私の言葉じゃないはずだ、と思いたかった。

ゆらゆら、ゆらゆら。




先生は、私の言葉には触れずに、園での息子の様子を話し始めた。

「息子くんは、とても優しいんです。
 泣いている子がいたら真っ先に駆け寄って『大丈夫?』と声をかけています。相手が泣き続けていても、ずっとそばにいたり、手を握ったりしてあげています。」

息子は、たしかに優しい。
生理痛で横になっている私に、ふわっと毛布をかけてくれる。
娘が、不貞腐れてその場を動こうとしない時、「お母さんもう先に行っちゃうよ」と私が行こうとすると、「ダメ、お姉ちゃん待つ!」と泣きながら私を引き止める。



先生は、続ける。

「息子くんは男女どちらとも仲良く遊んでいます。
 女の子3人と息子くん1人でも、毎回パパ役を引き受けて楽しんでいますし、男の子とレンジャーごっこで紙の剣を振り回している時もあります。」


息子は、怖い自分、痛い自分をちゃんと認めている。

そして、自分以外の他の人にも、怖いこと、痛いことがあるのを想像している。

その反対に、お友達と一緒にいると嬉しいこと、楽しいことがあるのも知っている。

お友達には、女の子とか、男の子とかそんな区分けはない。自分が一緒にいて楽しいかどうか、それだけ。

自分がどう思うか、それをちゃんと大事にしている。





「そうですね。息子のことをよく見てくださって、ありがとうございます」

私は、先生に感謝した。







きっと、「男の子なのに」と言った私のことを、
私自身が許せなくても、息子は持ち前の優しさで、許すだろう。

息子の優しさを搾取しないように、
私は自分の中にある、
都合のいいズルさと古い価値観と、
向き合わなければいけない。

私自身の怖い、痛い、嬉しい、楽しいは、
どこにあるんだろう。
溢れる情報と、他人から向けられた言葉の雨風の中で、ゆらゆらブランコみたいに揺れている。
他人からの共感で確かめないと、不安にもなる。

公園のブランコには乗れても、自分の中の価値観のブランコは乗りこなせないでいる。

けれど、まず出発点は、
「私から出た言葉は、私の一部だ。」ときちんと認めることから、だろうな。



✴︎

私の膝の上でブランコを楽しんでいた息子だが、
最近一人で乗れるにようになった。

しっかりと自分の手で、ブランコの鎖を握っている。

娘と並んで、
「おとうさん、押して〜」と
何度も何度も、笑いながら繰り返している。

大きく揺れると怖くて、
まだまだ振り幅は少ないけれど。

彼が公園のブランコを乗りこなす日は、近い。

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