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けれど恋は、ゆっくりと、そして自分でも気づかないうちにぼくの心を侵略していった。

念願だった。いまこうして、きみの隣にいることが。はじめてきみを見たとき、きみみたいな人と恋に落ちれたらいいなと思った。同時に、ほんとうにきみと恋に落ちるなんてありもしないことだとも思った。けれど恋は、ゆっくりと、そして自分でも気づかないうちにぼくの心を侵略していった。


何でもない大衆居酒屋の二人がけテーブル席に座る。一週間前から約束をしていたはずなのに、いま目の前にきみがいることが信じられない。好きな人を前にすると、つい言葉を選んでしまうのは、ぼくの悪い癖だった。

「ご注文がございましたら、そちらのボタンでお呼びください」
「あ、じゃあ注文いいですか?」
「はい、どうぞ〜」
「とりあえず生で」

そんなぼくを尻目に、きみはメニューも見ずに生ビールを頼んだ。つられてぼくも、あ じゃあ同じものを、と呑めもしないものを注文してしまう。なぜか店員に投げかける言葉にさえ気を遣ってしまう自分が、情けなくもおもしろくも思えた。

「お酒、強い?」
「あんまり強くない」
「無理しなくていいよ」
「じゃあ一杯だけ」

ほんとうは一杯でさえ、ろくに呑み干せないぼくの精一杯の背伸びだった。せめてお酒が強ければ、お酒の力を借りて緊張を紛らわすこともできたのに。このときほど、自分の体質を恨んだことはない。それでもきみは、そんなぼくの心境なんて気にも留めず、目の前の霜で白く染まった中ジョッキに目を光らせた。

「じゃあ、おつかれさま」
「おつかれさま」

小さくキンという音が鳴る。ぼくは一口、きみはジョッキの半分を呑んだ。口を付けたところだけ、霜が取れて透明になった。ピアニッシモ・ヴィヴ・メンソールに火を点けて一吸いしたあと、きみはニヤリと笑いながら言った。

「呑めなかったら、わたしが呑んであげる」

大きくドキッという音が鳴る。ただでさえ愛想のない返事しかできていないのに、ぼくはとうとう言葉を発することさえできなかった。口を開けば、この心臓の音が聴こえるんじゃないか。いや口から飛び出た心臓が目の前のビールにダイブして、シュワシュワと音を立てながら消滅したりして。そこでハッと目が覚めて、夢だったことに気づくんだ。そう、いっそ夢ならいい。けれどこれは夢じゃない。夢のような時間であり夢じゃない。

一向にしゃべらないぼくをじっと見つめる視線に気が付いて、気を落ち着かせるための瞬間トリップから目が覚める。そのまま、キラキラと反射するきみの目を見つめてしまって、またドキドキと血が全身を巡る。きみもまた、そんなぼくから目を離そうとしない。きみ顔赤いよ、なんて言われたらアルコールのせいにしよう、なんて言い訳できるほどの量をまだ呑んでいない。

「ねぇ、緊張してる?」
「わからないけど、してるかもしれない」
「だってさっきから全然しゃべらないもんね(笑)」
「じゃあ、かもしれないじゃないかもしれない」

きみは笑って、中ジョッキを手に取った。首都高を走る車のように、次々と喉が波打って流し込まれていく。ビールがきみの細い首を駆け抜けるのを目で追って、目のやり場に困ったぼくも負けじ喉を鳴らした。

「おかわりする?」

ぼくがそう聞くと君は、すいませーん、と店員を呼んですぐ言った。

「ねぇ、きみのやつちょうだい。好きなやつ飲んだらいいよ」

おかわりのためではなく、ぼくのためのすいませんだった。ぼくがジンジャーエールを頼むと、奪い取るようにして呑みかけのビールをグビグビと流し込んだ。ほんとうにグビグビという表現がしっくりくるほど、きみは美味しそうに呑む人だった。もう一度ピアニッシモ・ヴィヴ・メンソールに火を点けるのを見守って、ぼくらはマイペースに他愛もない話をした。灰皿に転がった吸い殻の吸口には、きみと同じリップの色が移っていた。

好きな人とのはじめての食事は、いろんな意味で楽しい時間とは言えなかった。けれど、不思議とあっという間に時間が過ぎた。終電には、まだ余裕がある。きみが乗るはずの電車の改札前まで、ゆっくりと歩いた。何か話した気がするけれど、何一つ内容を覚えていない。挽回したい気持ちをグッとこらえて、少しずつさよならの足音が近づいてくる。改札前の広場で、きみがふと歩く足を止めて、小さな声で言った。

「ねぇ、帰るの?」
「帰らないの?」
「まだ終電まで時間あるよ」

あるけど、と言いかけるのをやめて代わりの言葉を言う。

「もう少し、一緒にいる?」
「わたしもそう思ってた」

きみが期待していた言葉の正解を言い当てて、ぼくらははじめて同じ思いを共有した。迫り来る時間をのらりくらりと躱しながら、ぼくらはとうとう終電を超えた。

「終電なくなっちゃったね」
「わかってたけどね」
「うん、わたしもわかってた」
「帰れないね」
「うん、帰れないね」

0時を過ぎても改札前には、たくさんの人が行き交っている。ぼくらみたいに終電を逃してしまった人、夜はこれからだと言わんばかりの人。みんな足早にどこかへと向かっていく。そんな人たちのことなんてどうでもいいと思うほど、ぼくはきみと二人きりになりたかった。きみもそれを望んだ。

いつの間にか手を繋いでいて、この夜が永遠に続いてほしいと思った。夜の街を歩いて、ふと人通りが途絶える。いまこの瞬間、世界にきみとぼくしかいないように思えた。足を止めて、握ったままのきみの手を引き寄せる。この街の真ん中でぼくはきみにキスをした。その一瞬は、まるで永遠に思えるほど長く、そして甘かった。

ゆっくりときみの唇が離れる。いつの間にか周囲を人が行き交っていて、ぼくらは恥ずかしさをごまかすように笑い合った。少しの罪悪感と羞恥心をその場に残し、ぼくらはネオンの明かりの中へ再び歩き始めた。


部屋の写真が並ぶパネルを眺める。401号室だけが光っていた。鍵を受け取り、エレベーターで4階に向かう。バーガンディの絨毯が敷かれた通路を歩いて、「401」のドアを静かに閉めた。

「このまま朝が来なければいいのに」
「こんなことなら週末に約束すればよかったね」
「昨日と同じ服で出勤してんの、気づかれるかな」
「服装なんて誰も見てないよ」
「明日、8時起きだからね」
「モーニング食べてから出よう」

アラームをセットして、明日の電車の時間を調べて、ぼくらは同じベッドで朝を迎えた。8時15分。二度目のアラームでようやく起きて、モーニングを頼む。きみは洋食でぼくは和食を頼んだ。

きみがメイクをしている間に、ぼくは準備を終える。まだメイク途中の丸まった背中を後ろから抱きしめる。襟足から自分と同じ匂いがして愛しく思う。昨日に戻れたらいいのにな、とつぶやく。きみがひらめいたように言う。

「ねぇ、今日サボっちゃう?」
「マジで?」
「どっちが上手に仮病できるか勝負しよっか」
「いいよ」

しんどそうな声のトーンで仮病を使うきみを見て、笑いそうになるのを必死にこらえる。ぼくの番になると平気でちょっかいをかけてくるから、笑いそうになるのを咳払いでごまかす。電話を切って、お互いに吹き出す。

「そもそも勝ち負けのルール決めてないよね」
「今回は引き分けってことで」

そしてぼくらは、すべてがどうでもよくなったかのようにベッドに横になった。そのままきみのほうを向く。それに気づいてきみもこちらを向く。見つめ合った瞬間、はじめてきみを見たときのことを思い出した。

念願だった。いまこうして、きみの隣にいることが。はじめてきみを見たとき、きみみたいな人と恋に落ちれたらいいなと思った。同時に、ほんとうにきみと恋に落ちるなんてありもしないことだとも思った。けれど恋は、ゆっくりと、そして自分でも気づかないうちにぼくの心を侵略していった。

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