半端な創造は無い・内と外という幻想

かなり不思議だなと思うのは、原因と結果という「ひとつのもの」の側面のどちらか一方が「切り離されてしまうこと」が可能だと私たちが信じていることだ。
たとえば、原因がどこにあるかを忘れてしまうと、結果を変えることで原因を修正できると考える。
また、原因と結果が同じひとつのものだと思えないと、原因を認めても結果を伴わないことが「ありえる」と信じてしまう。
こうした信念のもとでは、この世界はまるで無秩序のようだったり、不条理のようだったり、自分にはどうにもできない「無力感」を覚えざるをえない手ごわい何かのように思えたりする。


内と外は同じもの・分かれていない

原因と結果のかわりに、これを「内と外」に言い換えても同様だ。
内と外は同じひとつのもの。

私たちはまだ、「自分の外側にあるように見える世界、そこで経験していると思っていること」と、「自分の内側」とを区別しながら生きている。
その違いが本当にあるわけではなく、意識フォーカスの使い方や、ヴァイブレーションの「スピード」の違いなのだと説明したら、あなたは納得するだろうか。

「内と外のバランスをとる」という表現があるけれど、そんな二元的な見方をまるごと修正する必要がある。私たちの体験している感覚に沿って「内」という言葉を用いれば、「内しか、無い」からだ。

すべてがあなたの内で起きている。
まるで外にあるように見えるものもそうだ。

不完全というコンセプト

私たちは「原因と結果の切り離し」が可能だと信じているから、「不完全」というコンセプトにも慣れることができる。
半端な創造、満たない創造、不十分な創造……などが「ありえる」と思っているのだ。

これは「創造のシステムに不具合がある」と信じていることに等しい。
あなた自身のこと、また、あなたの経験する世界・現実にそのような不完全さを「着せてみる」ことを当たり前に行っている。

私たちの意識の作用の面白いところは、

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