新地球の産み出しと、エゴのキャンプファイヤー終了、地球に生きる目的
えっ、何このタイトル……と思った人、大丈夫だ。読み進めればわかる。
ちなみに産み出しもキャンプファイヤーも、物理的な行為ではなく意識変化の象徴として選んだ言葉だ。
私たちの「すべてある」意識の中で、今の人生に何かの体験を具現化しようと思ったら、自分の波長を、それそのものに合わせるしかない。
「創造」とか「産み出し」という表現を使っても、ゼロから自分が生産するのではなく、すでにあるものへ自分がフォーカスして「それになる」ことと解釈していい。
前回◆「たったひとつの答え、エゴベースの世界をリアルにしない」に書いた通り、私はこの9月中に、内的に完了させたいことがあった。
自分でそのように計画したわけではなく、内からの進行具合を感じて今だと理解したのだ。
そしてそのプロセスはゆるやかに自然に進んでいたが、ついに前記事内で「細い糸」と表現したエゴの残滓を燃やし尽くす体験をした。
(後述する「エゴのキャンプファイヤー」。)
それによってやっと、これまでぼんやりと存在を感じてきた「新しい地球」が、ぽこっと産まれたのだ。
といっても、たとえれば今それはまだ半透明の半物質のような感じだけれど、精神世界のみにそれが存在する状態ではなく、具現化の一歩手前に移行したことがわかった。
ほぼ生まれていて「孵るのを待っている状態」と言ってもいいか。
これは「みなさーん、今の地球はこんな感じですよー」という知らせや予報なのではなく、私自身の話だ。
あなたがどの地球を選び、どんな世界に移行するかは、あなた自身で決められる。
私たちはそれぞれの意識の中で、自分の世界を選んでいる。
たくさんの並行現実があって、どれを自分の現実とするかはあなたの波長、エネルギーによって決まる。
意識的であれ、無意識的であれ、選択は内的に為されるということだ。
あなたが真の自己に一致するあり方でいればいるほど、あなたはそれを反映した世界を経験する。
エゴの観念を信じるのなら、やはりそれを正確に反映した世界を経験する。
魂が見ている世界と、エゴが見ている世界がまったく違うことを自覚する
私の伝えるこうした情報は、今まで通りのエゴ(分離を前提とした価値観)の常識や世界観を維持したまま、その生活や人生に「スピリチュアルな知識を活用したい!」と考えている人には向いていない。
私が教えているのは基盤ごと取り換えることで、エゴベースの世界を「どう望ましく生きるか」という話ではないのだ。
今月はじめ、◆「真の動機はこの世にない【霊的存在としてのチームワーク】」の冒頭で、霊的存在としてのヴィジョンの話をした。
あなたが普段「これが自分だ」と受け入れているエゴのものの見方や知覚と、霊的存在としてのヴィジョンの違いは、思っている以上に大きい。
その違いを自覚したなら、スピリチュアルな知識を、エゴの人生観に沿って「利用しよう」という発想は的外れだと明らかに理解できる。
目的が違いすぎるのだ。
あなたの魂はエゴとはまったく違うものを見ているし、まったく違う価値観を持っている。
魂、霊性を知ることを指す「スピリチュアル」という表現で、エゴに仕えることを何であれしようとすること自体が「混乱の極み」なのだ。
たとえば、「現実的なスピリチュアル」との表現を聞くことがあるが、言いたいことはわかりつつも、目的にかなり誤解が生じていると私は感じる。
本当の意味での「現実」とは、エゴの知覚で成り立っているこの世界のことではなく、神(創造の源、ひとつの実在)のことなのだから。
そして、私たちの魂がしたいこととは、本当の現実の「反映」をこの世界に実現することだ。
エゴの残滓を燃やし尽くすキャンプファイヤー、心の痛みを伴う情緒の終焉
これまでも、私たちがなぜ、エゴから発生している観念を「自ら握りしめているか」について色々な切り口から説明してきた。
(関連記事は★霊的な目覚めと創造★マガジンに収録)
前回述べたように、自分に課す規律としてではなく、心からそうしたいからするという「動機の一致、統一」が実現していなければ、何度でもエゴ的な感性に逆戻りしてしまう。
実際には逆戻りを繰り返しつつ、その振れ幅が少なくなって、エゴを信じるエネルギーがもうわずかにしか残っていないことに気づいていく……という形になるだろう。
だからといって、「わずかなエゴ」の効力が小さいというわけではない。
わずかにであれ、たくさんであれ、エゴの価値観を信じているということに違いはないからだ。
オンとオフしかないスイッチのオンを選択したのなら、両者の結果は同じである。
エゴを手放すプロセスには個人個人のやり方があり、ひとつの万能な方法というのはない。あなたにとって自然な道を行けばいい。
また、この場合の「道」というのを言葉で説明することはとても難しい。
人生の色々な側面がひとつになって大きな絵であるように、パーツをばらして解説することができないからだ。
私の場合は、エゴ的観念を採用し続ける「細い糸」を最後に燃やし尽くすにあたり、エゴの世界観によって自己が味わった感情、情緒的なエネルギーの残滓を「見る」必要があった。
もはや「細い糸」状態になっていたために、さほど大変な作業ではなかったけれども、それがあることを認めなければズルズルと「わずかなエゴ的価値観」が私の中で確かに生き続けることになっただろう。
これはまさに「ひとりで眺めるエゴのお別れキャンプファイヤー」といった趣きだった。
といっても、ヘルパー存在(ガイドや守護天使と呼べる霊的存在)も一緒に見守っていたことは確かだが。
心から出し尽くし(明確化し)、それが燃えて消えていくのを感じる。
私はそれを邪魔しない。Let it Burn!
観察者としての自分にはそれは爽快で、内に灯る明るさを増す体験だった。
勢いよくあかあかと燃える炎を眺めながら心は静か――キャンプファイヤーと表現したのには、そんな感覚を味わっていた背景がある。
一方で、燃やし尽くした内容物(エゴの観念)と、エゴと同一化した自己の吐露する心情は悲愴といってもいいものだったのだが。
そこで出てきたのは私個人を対象にした思いというよりも、「この世界」に対する痛みを伴う愛だった(今の私は、これをそのまま愛とは呼ばない方がいいと思うが)。
これまで世界に見えた悲しみ、生きることに伴う苦しみ、不条理、不平等、人間や全生物とこの地球といった愛しいものたちへの(彼らの痛みや苦しさに対する)同情、どうしてそんな世界があるのか……など、生まれてこの方、あるときは気を取り直して「明るい方」を見ていても、二元性の世界の中では決して消えなかった心の痛み、解決不可能だった悲痛な叫びだった。
こういった(多くの人が共有してもいそうな)「愛着の糸」をエゴであると認め、完全に手放す必要がなぜあるのか。
もう、おわかりの人もいるだろう。
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