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青空から解放された話

「なんで黒井って名前なんですか?」

SNSで知り合った人から時々そう質問される。
ハンドルネームを考える事は自分で自分の名前を決められる数少ない機会なので、わたしもその由来やそこに込められた想いを知りたいからいろんな人に気軽に質問をしてきた。
だからその気軽さでもって、問われる度にこう答えてきた。

「黒いカラスです」



20歳の夏だった。
当時はまだ実家に住んでいて、休日に本屋さんに行って面白そうな本を物色する事が一番の楽しみだった。
郊外の幹線道路沿いにあるその本屋さんは、近くにTSUTAYAが出来るまでは、市内で一番大きな規模を誇る店舗だった。

訪れたら先ず入り口で漫画雑誌を物色して、CDコーナーを覗いて、文庫本コーナーの棚と漫画コーナーの棚を端から端までチェックして、最後に料理本か音楽雑誌かゲーム攻略本のいずれかの棚を確認する、というのが定番コースだった。
だいたい文庫本か少女漫画を購入して、すぐ近くにあるミスドに向かいコーヒーとドーナツをお供に読みふける、という事を休日の度に飽きもせず続けていた。

どういう気まぐれで、あの日の自分がそのルーティーンを破ったのかは全く思い出せない。
だから、文庫本コーナーをひととおり眺め終わった後、ふといつもは行かないエリアへと足を運んでみた、という事実だけが今言えることだ。


文庫本以外の本の存在は一応知っていた。
中学生の頃に母の本棚で見つけて読み耽ったさくらももこのエッセイはすべて文庫サイズではなかったし、高校生の頃に図書室で見つけて大喜びした乙一の『ZOO』もハードカバーの単行本だった。
ただ自分から本屋さんへ足を運んで、読む本を能動的に選び始めてからは、興味の対象は文庫本にばかり向かっていった。
文庫本と単行本で価格に差がある事すら知らなかった事を思えば不思議な話だけれど。


小説の単行本コーナー。
いつも行く本屋さんなのに、一度も足を運んだ事が無かったエリア。
棚の高さが私の目線より少し高い程度だったその他のコーナーと違い、店内の一番端にある単行本コーナーは、本棚の高さが天井近くまであった。
パッと見では壁一面と呼んでも相違ないその棚に、文庫本よりも厚みのある本がぎっしり詰まっている。
その光景に単純に圧倒されたのと、あと最上段に置かれている本は私の視力では背表紙の字が見えなかった。
だからいつも文庫本コーナーでやるように棚の端から端まで眺める事は早々に諦めて、その真下の平台に積んである本を眺める事にした。

見覚えのある作家名を目にしては、文庫本とは全く違う書物の存在感に感心したりしていたその時。
不思議な見た目の本が視界に入った。



フラッタ・リンツ・ライフ』森博嗣
(タイトルをクリックすると読書メーターのページに飛んで書影が確認出来ます)


装丁という言葉すら、当時はまだ知らなかった。
曇り空のようにも、爆撃直後にもうもうと巻き上がる煙のようにも見える暗い写真は圧倒的に異彩を放っていて、気になって思わず手に取った。
正面だけでなく裏側も、そして単行本ならではの固い表紙を捲った内側も、すべてがひとつながりの写真になっている。
今まで見てきたどの本にも似ていない新しさが手の内にあった。
その出会いと驚きのおかげで、数々の文庫本の姿で理解していた書物というものの認識が一気に塗り替えられたものだった。

今でこそ森博嗣は大好きな作家だけれど、当時はまだ短編集『まどろみ消去』しか読んだ事が無かった。
一年ぐらい前に同じ本屋さんの文庫本コーナーを眺めていた際に、不思議な響きの書名が目にとまった事がきっかけで手に取っていたのだ。

『まどろみ消去』の人かぁ、という感嘆を胸に、手に取っていた『フラッタ・リンツ・ライフ』の単行本を平台に戻して、ふと真正面を向いた時。
目の前の光景に一瞬で目を奪われた。
本棚に青空が差し込まれている。



『スカイ・クロラ』森博嗣

書名と作者名を目にした瞬間、忘れていた記憶が一気によみがえった。




当時の私には憧れの人がいた。
以前noteにも書いた、凄まじい個性を放つ小説を書かれる人だった。


ネット上で知り合っただけの、顔も本名も知らない人だ。
でも小説や日記を拝読するうち、作品だけでなく日記から伺えるお人柄や知性にも惹かれていった。
そのうち小説か日記かなど関係なく、新しく更新される文章を拝読する事が楽しみになった。

夜空の星や月を仰ぎ見ては美しいと感じるのと同じように。
あまりにも遠すぎる才能ゆえ「どうすればこの人のように書けるのか」などと目指す事すら烏滸がましく、ただただあの人の言葉に触れられる幸せを実感する毎日だった。


だけど憧れの人のネット上での居場所は、ある冬の日にあまりにも理不尽に奪われてしまった。
ショックだった。悔しかった。
家族にも「何かあったのか」などと聞かれるぐらい本気で落ち込んだ。

突然のお別れから半年が経ってようやく少し立ち直ったものの、ふとした瞬間に「ちょうど一年前にあの人のサイトを知ったんだったな」などど思い出したりしては、その度に胸が痛んだ。

ネット上で知り合っただけの、顔も本名も知らない人だ。
それでもあの才能を諦めきれず、抱いた憧れも奪われた悔しさも忘れる事が出来ないまま、悶々とした日々を過ごしていた。



思い出した後はもう、どうして今まで忘れていられたんだろうという気持ちでいっぱいだった。
ちょうど一年前に憧れの人のサイトを知って、数日かけて小説をすべて拝読し終わった数日後。あの人の言葉恋しさに日記ページも確認する事が日課になった頃の事だ。

当時のウェブ上にはバトンという文化があった。
(コロナ禍の影響で今春、SNS上で再燃していましたね)
受け取ったら日記上で指定の質問に答えて、仲良しの管理人さんを指名する。指名された人は同じように日記上で指定の質問に答えて、また別の管理人さんを指名する。そういう形式でどんどん回していくというもの。

「本に関する事なので」と前置きをして、憧れの人がバトンを受け取っていた。
質問の内容は今読んでいる本やこれから読もうと思っている本などを問うもので、プライベートな事を日記に滅多に書かない人だったから新鮮な気持ちで読み進めたものだった。

最後の質問が、文言は正確には覚えていないけれど「思い入れのある本を5冊選ぶ」という内容だった。
憧れの人が挙げていた5冊のうち、当時から存在を知っていた夢野久作の『ドグラ・マグラ』と、憶えやすい名前だった町田康の『告白』は記憶に残っていたけれど、残りの3冊は確かめる術もなく思い出せないままだった。

だけど。
本屋さんでふと気まぐれを起こしたあの夏の日。
書名と作者名を目にした瞬間、忘れていた記憶が一気によみがえった。


『スカイ・クロラ』森博嗣
ただ人生を変えた。


本棚に青空が差し込まれている。
思い出した。
いま目の前にあるのは、あの人が5冊選ぶ中で一番に挙げていた本だ。



平台にあった『フラッタ・リンツ・ライフ』も、隣にあった同シリーズと思われる本も全部無視して、その青空の本をすぐに買った。
あの人が「人生を変えた」と呼んでいた一冊だと思うと居ても立ってもいられず、この本を読まなければという強い衝動のまま手に取った。



『スカイ・クロラ』、正直に言えば、初めて読んだ時には全く意味が分からなかった。
当時はまだ読書経験も浅く、わからないものをわからないまま読むという事が出来なかった。だから登場人物達が戦闘機に乗っている理由や、物語の背景に関する事なども含めて、幾つもの疑問符が飛び交うまま没頭出来ずに読み終えてしまい「何故ああいう結末なんだろう?」という不可解さばかりが胸に残った。

続刊が『ナ・バ・テア』という夕焼け空の本だと知って試しに読んでみると、抽象的な地の文と掴みどころのない展開だった『スカイ・クロラ』よりもわかりやすい文章と内容だったおかげで、最後まで面白く読み終える事が出来た。
刊行順だと『スカイ・クロラ』が最初だけれど、時系列順だと『ナ・バ・テア』が最初になると知ったのはその直後だ。

そうして立て続けに続刊『ダウン・ツ・ヘヴン』と、当時の新刊だった『フラッタ・リンツ・ライフ』も読んで、だんだん物語の全容が掴めるようになってきた。
各巻の奥付を確認して、このシリーズは一年に一度のペースで新刊が発売されている事も知った。ここからどんなふうに『スカイ・クロラ』の世界に繋がっていくんだろうと考えると素直にわくわくした。



だけど今振り返れば、当時はやはりまだ内容の面白さどうこうよりも、憧れの人を失った欠落を埋めたいという思いが先行していたのだと思う。
翌年発売された、刊行順で最終巻となる『クレイドゥ・ザ・スカイ』も、さらにその翌年発売された番外編『スカイ・イクリプス』も、発売直後に読んだ記憶が無いのだ。

『スカイ・クロラ』に出会ってから半年の間に起きた、奇跡としか言いようのない幾つかの出来事を経て、憧れの人の小説を再び読めるようになった。文通のように直接メールを交わしあえる幸せにも恵まれた。

一年間続いたメールでのやり取りの中で、いろんな話をしたしいろんな話を聞けた。
その頃には作家・森博嗣にも興味が湧いて『スカイ・クロラ』シリーズ以外の著作も何作か読んでいたので、頂いたメールの中で好きな作家を聞かれた際に「森博嗣が好きです」と返信をした事もあった。
その後頂いた返信メールでとても喜んでもらえた事を、今でも覚えている。

だけど『スカイ・クロラ』を読んだという事は最後まで言えなかった。
人生を変えたとまで言い切るぐらいだから、とても大切にしている一冊なんだろうと容易に想像がついた。
だからこそ私の中途半端な理解度では迂闊に触れるわけにはいかない、という、敬意と臆病の両方を抱いての判断だった。



憧れの人が去った後。
かつての悔しさも痛みも浄化されて、楽しかった思い出とお別れの寂しさだけが胸に残った。

その後さらに数年を経て、ようやく『スカイ・クロラ』シリーズの番外編を除く全5巻を通して読んだ。
理解を深めたいなら時系列順で読むのが筋だろうけれど、あくまでも刊行順に読むことにこだわって『スカイ・クロラ』から手に取った。

時を経たとはいえ他の巻の内容もある程度覚えていたおかげで、世界観やキャラクターの関係性などの予備知識があった。
そこに加えて、初めて読んだ時と比べると読書量そのものも増えていたから「わからなさを抱えたまま読む」という事も出来るようになっていた。

そんなふうに読む『スカイ・クロラ』は、初読時とは全く違う世界を見せてくれた。
確かに続刊以降は文章も展開もわかりやすいし読み物として面白いけれど、改めて読むと最初に発売されたこの一冊だけは、著者が読者に理解してもらう事を完全に放棄して書いた作品だと感じられた。

美しいものを、いかに美しさを損なわずに書くか。
そこに主眼を置いている。
わかりやすさや読み物としての面白さといった要素が、迎合という不純物と化してしまう境地。
磨き上げられた刃物が、いや、極限状態で舞うように飛ぶ戦闘機とそれを操縦するキャラクター達が魅せる、鋭さにも似た純然たる美がそこにあった。


通して読んだ後、しばらく時間をおいて、今度は時系列順に読んだ。
その後さらに時間をおいて、今度は刊行順に読んだ後、最終巻読了後にもう一度『スカイ・クロラ』を読んで時系列順とする、という読み方もした。


そんな事を繰り返すうち、初めて読んだ時には全く理解出来なかった『スカイ・クロラ』の結末に対して「もしかしてこれはこういう事なのか?」という仮定も得られた。
語られない以上は想像するしかない結末に対するその仮定は、とてもゾクゾクした興奮を伴うものだった。
「想像の余地が残された文章から自分なりの解釈を拡げる」という、これまで知らなかった読書の面白さを得られた経験にもなった。


エピグラフに使用されているサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』も、きっちり野崎孝の訳で読んだ。
こちらも初読時は全然わからない話もあったものの、繰り返し読むうちに面白くなってきて、理解が深まる程に展開の妙味に唸らされた。
研ぎ澄まされた訳文の美しさも含めて、今では海外文学で一番好きな作品になっている。


そういう事もあって『スカイ・クロラ』は、憧れの人の大切な本という事実とともに、私にとっても掛け替えのない一冊になった。
シリーズ通して好きだけれど、その中でも理解される事を求めていないように読める『スカイ・クロラ』だけは、物語の枠組みを超えた特別な作品として心の真ん中を占めるようになった。



その後『スカイ・クロラ』シリーズにとどまらず、森博嗣の他の著作、小説以外のエッセイや新書にも手を出した。
そんな時、集英社新書から出ている『臨機応答・変問自在2』という一冊を読む機会があった。

前作『臨機応答・変問自在』は、国立大学の助教授でもある著者が授業の一環で生徒からの質問に答えたものを新書として発売したものだった。
2と付く本作は一般読者から募った質問に著者が回答するという形式で、その中に「スカイ・クロラと言えば何を連想しますか」という質問があった。
それに対する著者の回答の抜粋が以下の文章だ。

アナグラムだと「黒いカラス」ですが。

初めて読んだ時、まず驚いた。
そして、それがとても美しいものを視た時の驚きだと、あとで理解した。


『スカイ・クロラ』の英題は『The Sky Crawlers』。
カタカナの不思議な響きの書名は、元々は英題を発音通りに読んだ上でカタカナ表記にしたところから名付けられている。
続刊『ナ・バ・テア』の英題は『None But Air』というように、シリーズ全作がその形式だ。
(2015年に開催された講演会では、森さん自身はナバティアと呼んでいたけれど)

空を這うものを意味するそのカタカナの書名の中に、空を飛ぶ鳥が隠れている。
その事実にも、そして、それを鮮やかに導き出す森博嗣氏にも驚いた。

「黒いカラス」というフレーズはそのまま、青空を飛ぶ姿と、広げられた翼の優美で最適な曲線の印象を纏って、美しい響きとして印象に残った。



さらに暫くの後。
Twitterを始めようと決めた時に、せっかく新しい場所なのだからハンドルネームをこれまで使っていたものとは違う新しいものにしようと思い立ち、何かないかと考えた時に真っ先に思い浮かんだのが「黒いカラス」のフレーズだった。

名前入力欄に半角カタカナで「クロイカラス」と入力して始めたTwitter。
最初はひとりごとばかりを呟いていたけれど、大好きなバンドであるポルノグラフィティ繋がりでだんだんフォロワーが増えるとともに、様々な人とコメントを交わしあう機会も増えてきた。
そんな中でこちらがクロイカラスだと、向こうはわたしの名前を呼びにくいのではないだろうか。
そう考え「黒井」という呼びやすいものへと改める事にした。

それが2010年の話。
それ以降始めた新しいSNSでは、ほぼすべての場所で黒井と名乗っている。



憧れの人がいた。
ネット上で知り合っただけの、顔も本名も知らない人だ。でもあの人が書く文章に夢中だった。それこそ恋のように。

メールという手段で言葉を交わしあえる一年を過ごせた。
本当に幸せだった。
お別れした後も寂しさとともに、幸せだったいくつもの思い出が胸に残ってくれた。
この思い出があれば残りの生涯を生きていけると本気で思った。
本屋さんが好きで、本を読む事も好きで、森博嗣も好きで。そのすべての「好き」を、初めて言葉にして語り合えた人だった。


現実では、本が好きという人に出会う機会は全く無かった。
文字で綴る以外の方法で、本について誰かと語りあう事など想像もつかなかった。
ましてや書かれた言葉から伺える人間性に強烈に惹かれる程の熱量で、現実に知り合う人に対して恋心を抱ける日など来るはずもないと思っていた。


Twitterを始めた事で、読書が趣味で本屋さんも好きという人と交流できる機会がようやく巡ってきた事は嬉しかった。
でもその頃には『スカイ・クロラ』が好きな本当の理由を言葉にする事は出来なくなってしまっていた。
言葉にする事が、軽々しく消費する事と同義だと思えた。

ずっと自分一人で持っておく。
そんなふうに大切にすることで生きていくつもりだった。



『スカイ・クロラ』との出会いから12年後の夏。
自分でも驚くことに、かつて抱いた恋心にも等しい憧憬を、再び抱く日が訪れていた。


きっかけは一時的にTwitterを断った事だった。
ある事情から約ひと月半に渡るTwitter断ちを行ったのだけど、それによってTwitterを眺める事に費やしていた時間がまるまる空いてしまい、暇を持て余すうちにふと思い立って『スカイ・クロラ』シリーズの感想や解釈に関する記事を、ネットで調べていろいろ読み漁っていた時だった。

偶然『スカイ・クロラ』シリーズを今まさに刊行順で初めて読んでいる人が、一冊分ずつ感想を綴っているウェブページへとたどり着いた。
その頃には刊行順と時系列順が同じではない事がだいぶ浸透していて、書店によっては『ナ・バ・テア』から順に並べて置くところも出てきているぐらいだったので、刊行順に初めて読む人の率直な意見は貴重なものだったのだ。

そこに表示されていた、刊行順にして第3巻『ダウン・ツ・ヘヴン』の感想は、短い言葉ながらも掬い上げる箇所や指摘が的確で、理解度の高さに惚れ惚れさせられる文章だった。

その人が書いた『スカイ・クロラ』と『ナ・バ・テア』の感想も探して読んで、続刊以降でどのような感想を書かれるんだろうと一気に興味が湧いた。
感想が投稿されたらすぐに気付けるようにその人のSNSをフォローすると、程なくわたしの方へもフォローが返ってきた。
そんなふうにして始まった縁だった。


綴られる文章に対する一方的な感嘆から始まった繋がりは、次第にご本人に対する興味へと進化を遂げた。
『スカイ・クロラ』シリーズ以外の本の感想も毎回鋭く研ぎ澄まされていて、絶賛から批評まで読ませる文章ばかりだった。
その人の感想が面白かった事がきっかけで、新たに手に取って感銘を受けた本が何冊もある。


森博嗣を筆頭に、好きな作家が何人か被っている事からコメントを送るようになった。
返信を頂くかたちで言葉を交わす機会が訪れる度に嬉しかった。
わたしが感想を投稿した本を、直後にその人が読んでいた時には堪らず頬が緩んでしまうほど喜んだ。そのまま書かれた感想を読んで、読みの深さと言葉の切れ味の鋭さに頬を引き締め背筋を伸ばす、そんな平和な日々を過ごしていた。



だから「お会いしませんか」というメッセージを頂いた時は、心臓が破れるんじゃないかというほど驚いた。
『スカイ・クロラ』との出会いから12年後の夏に訪れた、暴発しかねない程の喜びに満ちた驚きだった。




「なんで黒井って名前なんですか?」
「黒いカラスです。『スカイ・クロラ』のアナグラムです」

初めて直接お会いした日。
ハンドルネームの由来を聞かれてそう答えた。
『スカイ・クロラ』とは森博嗣という小説家の作品で~などという余計な説明いっさい抜きで、アナグラムという事実だけを述べて伝わることが嬉しかった。

目当ての場所へのお出かけが終わって駅に着いて、でももう少し一緒にいたくて近くのカフェに入る事を提案したら快諾してもらえた。
空いているカフェを探して入って、そのままずっと『スカイ・クロラ』を筆頭に、互いが好きな本の話をしていたら3時間半が経っていた。
自分が人見知りだという事実が嘘みたいに、初めて会ったその日から、一緒にいるのが心地良い人だった。



9月22日。
その人が恋人になった日から、今日で丸2年が経つ事になる。
未だにときどき黒井さんとも呼ばれるけれど、それより今では本名をもじったあだ名で呼ばれる事の方がずっと多い。
そこに、文字で書かれるのとは全然違う、これまで知り得なかった安らぎを感じている自分がいる。
ひとりきりで青空を飛ぶカラスから、地に足をつけた人間へと戻るような、心が解ける感覚。


夏が来る度に読み返していた『スカイ・クロラ』を、ここ数年はずっと読んでいない。
だけどうちの本棚には、今でも青空が差し込まれている。
わからなさを抱えたまま読む事を、
文章の美しさを味わいながら読む事を、
想像の余地のある結末に想いを馳せる面白さを、
そして何より20歳の私と32歳のわたしに奇跡のきっかけをくれた、人生を変えた一冊。

この思い出があれば残りの生涯を生きていける。
そう本気で思っていた時とは違うかたちになったけれど、今だからこそ胸を張って「人生を変えた」と呼べるのも確かだ。
軽々しく消費なんてしない。懐かしい思い出は懐かしいままでずっと大切にしていく。


2010年以降、何かを本気で表現するための場所では必ず「黒井」というハンドルネームを使ってきた。
これまでハンドルネームの由来について考えることは、懐かしい思い出を振り返って少し泣きたくなるほどの感傷を思いきり抱きしめる、自分一人だけで完結する行為だった。
だけど今では、ずっと一緒にいたい人がそばにいてくれる、そんな幸せが真っ先に思い浮かぶのだ。
幾つもの奇跡に対する感謝とともに。