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残響を可視化したい

先日、現代哲学者のエッセイを買った。
本屋さんで見かけて、気になって手に取ってパラ見して、面白そうかも! と感じた自分の直感を信じてのお迎え。

そして本日。
おうちから出ない休日と決めた祝日の月曜日。
積読本のタワーからその本を抜いて、のんびりと読み始めた。



……??
どうしよう、面白くない。
序盤から湧き上がる違和感と素朴な疑問。

個人的な思い出、嫌な記憶、誰かの忘れられない発言。
各章ごとにそういうものをひとつひとつ取り上げては綴り、最後に結論めいた段落を添える構成なのだけど、そこに散りばめられた主語の「わたしたち」が気になってしまって文章が頭に入ってこない。

自分のことを語るエッセイなのに、なぜ主語が「わたしたち」なんだろう?
その「たち」って誰のこと?

言葉にすればそういう疑問になる。
それが何度となく脳内に繰り返されるも、当然ながら答えてくれる人はいない。
(そりゃそうだ。それが一人で本を読むことだ)

その疑問に折り合いをつけられないままに読むしかないから、せっかくフックのある文章に出会えても、心揺さぶられる度合いがいつもよりもかなり少ない。

もう少し読み進めたら面白く感じられるかもしれない……という淡い期待を抱いてしばらく頑張ったけれど、半分ほど読んだところで決定的な一文に出会ってしまった。
詳細は伏せるけれど、臆病と自身の無知を履き違えた言説に共感性羞恥を思いっ切り煽られた事で「もうこれ以上読むのは無理だ!」と本能が音を上げる感覚。
そちらに素直に従って、おとなしく本を閉じた。




恋人と対面で話す時を除いて、面白くなかった本の話をする時は、書名も著者名も出さないと決めている。
でも本当は、読まなかったことにして話題にもいっさい出さないのが、時間を費やした自分自身に対する最低限の礼儀かもしれない。

「本能」の言葉で片付けた感情をもう少し掘り下げる。
紙の書籍は一度発表したら簡単に修正が出来ないから、その時点での著者の集大成が詰め込まれるものだと考えている。
それに加えて、特にノンフィクションは著者の主張や哲学を一冊分の文字数を費やして可視化している事から、時間も場所も超えた著者の話を一対一で聞く貴重な時間だという認識で読みたい。

だから少しでもいい、何らかの影響を受けたい。
心が動く瞬間があるといい。
そう思っている。

でも今日手に取った本は挫折してしまった。
纏わりつく違和感から目を逸らし続けた結果だと思う。
著者の話をじっと聞くつもりで読んでいたからこそ「もうこれ以上この人の言葉を摂取したくない」という強烈な感情が盾になったゆえの逃走だった。

年始に書いたnoteで、ミニマリストを目指したい旨の野望を綴った。
そこには単純にモノを減らすだけでなく、考えてお金を使いたいという意図もある。
だから少なからず落ち込んだ。
「本の購入だけは自重しない」という矛盾する目標も掲げているので、仕方ないという諦めも肝心ではあるのだけど。




しばらくヘコんだ後、積読本のタワーから『絶望を生きる哲学 池田晶子の言葉』(講談社)を手に取って読んだ。
すさまじい切れ味の箴言に満ちた一冊だった。
影響を受けたいなんて生ぬるい気持ちでいたら、あっという間に血みどろの満身創痍になっているような。

その本の「目を見て話せ」という章に、こんな一文があった。

我々はこれから、顔が見えないと言えない言葉だけを言うように心がけてはどうだろう。それは、我々の対話(ダイアローグ)の可能性を開くはずだ。

その前に書かれているくだりも含めて感銘を受けたものの。
現実に実践するには正直、あまりにも峻厳な決意になってしまう。

でも少なくともこの記事は、それを目指したいと思って書いた。
頭の中に舞う疑問の残響を、言葉として可視化するためのアウトプットのつもりで。




良くなかったものや嫌いだと感じたものより、好きなものや素敵なもの、少なくとも光射す方へと心動かされたことに対して言葉を尽くしたい。
甘い理想論なのかもしれないけど、書き終わった今はただそう思う。

池田晶子さんの本、他にも読んでみよう。





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