見出し画像

アウトプットがもたらすギフト

最近Twitterからのフェードアウトを考えてます。
というのもこれですよ。

機能もUIも完全にInstagramのパ……としか言いようがない件の是非はとりあえず置いておいて。

わたしはiPhoneユーザーですがTwitterのアプリをアップデートしていないので、このフリート機能はまだ使えません。
でも使えるようになったとすれば、ますますがんじがらめにされる気しかしないわけです。

ツイートなら見逃したくない人の分は更新通知を設定しておけるのに、フリートは24時間経過で消えてしまう上に更新通知も来ない。
見逃したくないからこまめにチェックすべくTwitterアプリを何度も確認する。
そのアプリ確認がトリガーになって漫然と時間が奪われる。

……という未来しか!見えない!!
意志の弱い自分!!!!




ふざけてないです本気です。
消えちゃって残らなくても何の問題も無いささやかな呟きを気兼ねなく出来るメリットより、結局は更にのめり込ませるための機能じゃないかという警戒心の方が大きいのです。個人の見解。
(計画性があって時間管理もちゃんと出来る意志の強い人や、楽しさを見出して有効活用している人ならなんの問題もないと思う)

ということを考えていたらそもそもわたしTwitterやってる意味ある…?という結論に達しました。
毎週聴いてるポルノグラフィティ晴一さんのラジオ番組の感想や、リアルタイム配信される新日本プロレスの試合を画面越しに観戦しながら滾る思いをぶつける事には便利なので、意味があるかという問いには完全にイエスだしこれからもそういうふうに使っていけたらいいなとは思うけど。



なんだろうな。
この記事の最初に貼ったフリート紹介のリンク先に、こう書いてるんですよ。

「日常をつぶやいて、フォロワーのタイムラインを乱したくない。みんなが読みたがっていることを発信しなければ、という意識のユーザーが多い」

この意見に対して別アカウント作って一人で呟けば?と思ってしまうわたしが身も蓋もなさすぎるという事なのか。
そもそもアカウント複数持ち前提の考えが普通とズレているのか。
それなら返す言葉も無いですごめん。



己の倫理観に沿って表現の自由を行使する、書きたいことを書きたい時に書ける場であればいいのにね。誰にとっても。
何かあれば適宜軌道修正して、善きことへと少しずつでも近づいていくのが本来じゃないのか。
でもその「少しずつ」を許さないご時世であるのも確かか。
謝罪やらその後の対応やら全部無視で、犯した過ちを延々と非難し続ける人実際に見たしなぁ。
日常ツイートしづらい話をしてた筈だったのになんでこんなこと考えてるんだろうなぁ。





……などとつらつら綴っていた時に、以前読んで感銘を受けたnote記事を思い出したのでご紹介しますね。

「好きを仕事にする」という取っ掛かりからのブログでの発信に関する記事なんですが、改めて読み返してみて、フリート機能の導入に至ったTwitterの閉塞感にすごく当てはまるなぁとしみじみ感じたのでした。

「発信」の敷居が無駄に高まってないか。
「共感」は意図的に作りだすべきものなのか?


mixiとかで書いてたみたいに、めちゃ内輪向けなもの書いてもいいんじゃないの。
昔のしょこたんのアメブロみたいに、メポで1日何回更新してもいいんじゃないの。
人の目を気にして、役立つことを書かないとって、肩肘張ったりしないで。

フリート機能をそういうふうに使ってね、というのがTwitter社の意図なのかなとは思いますが、時間管理の意識をしっかり持ちたいわたしにとっては前述の通りのめり込ませる手法にも感じられるので、Twitterからは少し距離を置くべきかな、と感じている次第です。

Twitterやブログ等での発信の目的も人によって様々なので、明確な意思をもって発信を継続されている方は素晴らしいと思います。
でも発信する事そのものが目的になってしまって、何を書けばいいのか迷子になってしまっている方は、上記の中村英里さんのnoteをぜひ読んでほしい。





ここからは唐突に自分の思い出話をしますが、1年間毎日ブログを書く、という事をこれまでに3度行ったことがあります。

いちばん最初のきっかけは、2009年の終わり頃に「来年はいろいろな意味で変化の一年になるのが目に見えてるから、日記を毎日つける事を続けてみよう」と思い立ったこと。
そうして2010年1月1日から12月31日まで、当時メインで使っていたエムブロ!に、日記のような文章を毎日投稿したものでした。

画像1

ウェブ上に公開しているという意識はあまり無く(実際アクセス数も一日に一桁程度でしたし)、自分の仕事の話やらそれ以外のことやら、好きなように書き綴ったものでした。記事タイトルにも全部意味があります。

あまりにもプライベートな事を書きすぎてるので今は非公開にしてますが、それでも当時の自分の感情がそのままの熱量を保った状態で凝縮されていて、いま読み返しても楽しいんです。
(12月14日の記事タイトル見て何があったんだろうと思って読み返したところ、自分の負の感情に対する嘆きだったみたいです。完全に忘れてる)



時が経って2017年の1月1日。
「人間の細胞は7年で完全に入れ替わる」というほんとに本当かは分からない情報を耳にして、7年前って事は2010年か?と思い起こした事で、2010年に一年間毎日書いたブログの存在を思い出したんです。

あのブログを書いた当時の自分と今の自分は全然違うよな、と思い至り、7年ぶりに一年間毎日書く事をやってみようじゃないか!と思ってはてなブログのアカウントを作成しました。

その後実際に一年間続けて、もう無理だ一年で限界だと思って2018年はやらなかったんですが(はてなブログで別アカウントを取得して書きたい時だけ気まぐれに書いてました)、その一年の間に書くことを習慣にしてないと簡単に錆びるなと実感する機会が何度かありまして。
心機一転2019年にも、一年間毎日ブログを書きました。

そういう2年分の蓄積の結果が下記リンク先です。

(タイトルはポルノグラフィティさんの大好きな歌のフレーズ)

書き終わった後に更新ツイートをしてはいたものの、2010年同様に沢山の人に見られるわけではない辺境のブログだったので、身バレしかねない情報は避けつつ毎日思うままに書き綴ったものでした。





頻繁に思い出したり読み返したりするわけではないけど。
人間はどうしたって何もかもすべて覚えてはおけないものだからこそ、感情が鮮やかであるうちに心のままに書き残しておく事で、自分が忘れても書いた文章が代わりに覚えておいてくれるという事は実際にあるんです。
読み返せば思い出せる。
あるいは(手前味噌ですが)2010年12月14日のわたしのように、怒りや嘆きなどの負の感情の具体的な内容は忘れてしまっても、この時この想いを抱いていたからこそ書けたとしか言いようのない言葉の連なりに数年を経て再会する事で、思いもかけない驚きを味わえたりもする。



日々思いのままに書き綴ったブログは確実に未来の自分へのギフトになります。

後で読み返した時に楽しいという素直な面白さ。
アウトプットに慣れる事でもたらされる恩恵。
「好き」や「興味」に気付ける機会の増加。

時間が経てば消えてしまって残らないからこそ気兼ねなくつぶやける、という意見も確かに一理あります。
でもそれは、生きる上で忘れる事を避けては通れないのだから、自分の感情を「つぶやいて気が済んだから消えてもいいよ」と扱うことにも等しいんじゃないかとも個人的には思う。

ささやかでも何気なくても、言葉にしたくなるような心動かされる出来事が起きたのなら、日々のつぶやき以外のかたちで残してみる事を検討するのも悪くないんじゃないかな、と思う次第です。



★よかったらこちらもどうぞ。