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Ⅰ章 彼の場合⑦

「そのあとはもう散々だった」

 ホテルのラウンジにあるカフェテリアの窓際、彼はテーブルを挟んで豊崎かなえと向き合っていた。ガラス越しに見える景色は薄く雫の線が見える。
小雨が降ってきた。

木嶋は、淡々と話を続ける。

彼女とはそれ以来会っていないこと。
自分が彼女にとって所詮、「都合のいい存在だった」こと。
自分が気持ちを伝えられない根性なしだったこと……。
そうした何もかもに打ちひしがれ、サークルの部室で自棄になっていたときに1つ上の先輩の気まぐれで童貞を奪われたこと。

「そういうのが重なって、いつの間にか自分と向き合えなくなった」

木嶋は乾いたよう吐き出すと窓の方へと眼をやる。
雨脚はまるで止む気配がない。

 かなえは深く息を吸って、ゆっくりと吐いてから確認するように言った。

「木嶋さんは、千尋さんにとっての自分の価値を知ってしまった」
「それから自分の価値がわからなくなった。自分の望んだ価値と違うから」
「その喪失を誰かの希望に応じることで紛らわそうとした」
「それが一過性のものであっても、精神的な安らぎを得られるから……」


「……そうだね。恥ずかしながら」

―—――自分と向き合って、自分が空っぽだと解ってしまうのが怖い。
だから、求めてきた誰かを満たすことで自分の存在に安堵したい。
その想いは時間が経つに連れ、強くなり、そして安堵のカタチは割り切った「作業」へと変貌していった。

彼の引力に引き寄せられた女性の半分は、木嶋とのインスタントな関係を望んだ。もう半数は彼の「空になった器」に愛情を注ぎたかった。そうして自分ならば埋められると思い込んだ彼女たちの母性と幻想は、月日とともに無情にも枯れていった。

 ティーカップに入ったアールグレイを眺めながら、かなえは少し考えて話始めた。

「その……次は私の話をしていいですか?」

「あぁ、ごめん。僕の話ばかりしてた」

どうぞ、と木嶋が言うと、彼女はゆっくりと彼の眼を見てから話し始めた。

「私には先日まで付き合ってた人がいました。それまでも付き合った人は何人かいましたけど、彼が一番長く付き合った人でした。」

うん、と相槌を打ちながら、彼女の視線が手元の水面へと落ちていくのを確認する。

「4年半、かな……。その間は色々なことがありました。喧嘩も人並みにはあったと思います。思い出も月日の数だけあったはずです。」

「それでも……」

「はい。別れました。原因は相手の浮気でした。」

「話し合ったの?」

「少しは……。でも一番傷ついたのは、浮気相手が私の会社の人だったことでした。」

 かなえの会社の飲み会で彼が迎えに来た際に「誰か」が近づき、やがて関係へ発展していったということだった。

 浮気が発覚した理由は在り来たりなものだった。彼の自宅のごみ箱に自分の覚えのない残滓を見つけたからだった。
だが、彼は最後まで相手の名前を言わなかった。

「私は、その時に築き上げてきた日々が崩れ落ちる音を聴きました。」
「私が彼との未来を見ているときに、彼は他の人と快楽に溺れていたんですから……。」

未練は、と木嶋が聴くと彼女は頭を横に振り、ゆっくりと言葉にする。

「今はもう何も……。それよりも彼と過ごした日々を忘れることが遥かに辛かった。」

「だから木嶋さんと出会ったときに思ったんです」
「彼との日々を忘れたい。壊したい。そのために快感に溺れたい……」
「そのためなら、どんなに穢れても惜しくないって」

 しまった、と気が付いた時には遅かった。彼女の想いを聴いてしまった。
実のところ、自分の過去を話した時点で引き返せないところまで来ていた。もう切り上げてしまうことは出来ない。
自分の過ちを理解しつつも止まることも逃げることもできない流れに身を任せるしかない。

「それで……今は気が晴れたの?」

「それが全然ダメでした」と言いながら彼女は笑う。

彼女は紅茶を傾けて口に含むと、ゆっくりと口の中で転がしている。香りは楽しめているのだろうか。

「木嶋さんに何度抱かれても、彼との思い出はどこにも行きませんでした」
「どこへも行ってくれなかった」
「きっとこのまま死ぬまで……いや、死んでからも彼との思い出を抱いていくのだろうと思います」

あぁ……だからか、と彼は思った。
彼女が交わった後に流す涙の理由がやっとわかった。
後悔ではなかったのだ。

「木嶋さんもきっとそうなんだと思います。」

「え……?」
彼女は、再び木嶋の眼を見ながら今度は意を決して告げようとしている。
彼は、その威に押されながら受け止めるしかないことを覚悟した。

「千尋さんとの思い出も、気持ちも、後悔も消えることはないと思います。私たちは、このまま抱え続けて生きて行くんだと思います。」


「人が抱えていくものって……それが失敗だったとしても自分が求めて努力してきたものなんだと思います。勿論、それだけじゃないですが……」
「でも……自分の中に何もないと思うなら、今の自分がやりたいことをやってみて、これから器の中を満たしていけば良いんじゃないでしょうか」

「やりたいこと……か」
そんな風に考えたことがなかった、と木嶋は思った。

でも確かにそうなのかもしれない。
結果として実らなかったが、その中には確かにいつも自分の感情があった。

―—――そうか、僕が欲しかったのは「感情」だったのか。

「かなえちゃんさ。」

「はい。出過ぎたことを言いましたか?」

「いや、ありがとう。その通りなんだと思う。」

考えたことがなかったよ、と言いながら、木嶋は川の方へと眼を向ける。
灰色に覆われていた雲の切れ目から少しずつ陽が抜け出してきた。

己が空虚でないと解って、木嶋は安堵し始めている。

こうして誰かと向き合って自分のことを曝け出すことも悪くない。
実際に今はこうして気分がラクになった、と彼は思った。

「晴れましたね……」

「そうだね」

「この後、どうしますか?」

「このあとか……。この流れで任せるって言ったら怒られるだろうしなぁ……」


そうだなぁ……と言いながらコーヒーを口に含み、天を仰いでから彼女を見つめる。
彼には、どうしたいですか?と聴こえた気がした。




「かなえちゃんと、セックスがしたい」

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