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Ⅰ章 彼の場合④


『どうしてこうなっちゃったんだろう。私、見る目ないなぁ……』

 いつか聴いたその言葉を思い出して目が覚めた。
横にいるはずの彼女の姿はなく、ベッドには自分だけが残されたようだった。起き上がり、居間へ向かう。
豊崎かなえは、寝室に背を向けるかたちでソファに座っていた。付いているテレビを見る様子ではなく、少し呆けているように見える。

 またか……、と思った。
かなえは泣いていた。厳密には眼に涙を溜め、自分の気持ちを押し殺すように堪えている。彼女との行為のあとは、いつもこうだった。

 彼女は「僕との関係」について他の2人の女性とは捉え方が異なっている。

年上の「あの人」は、結婚や恋愛に興味がなく、日々のストレスの解消と快楽に溺れるのための関係を、女子大生「あの子」は、恋人への背徳感と危険な悪戯、要するに若気の至りのために関係を求めた。

 かなえは、そのどちらでもなかった。
別れた恋人を忘れようと清算するために関係を求めたのだった。

元来、生真面目な性格で生きてきた彼女は、性に対しても潔癖だった。
その彼女がこうした関係を求めたのは、彼女なりに何か思うことがあったのだろう。以前、少しだけ自分から話してきたことがあったがあまり触れないようにした。離れたときに辛いから。

「また泣いてるの……?」
「はい」

子供をあやすように彼女を抱き寄せて思考を曖昧にさせようとする。
葛藤があろうとなかろうと自分は、こうしてはぐらかす事しか出来ない。
抱き寄せた肩が震えて、そのうち涙が零れ落ちる。

こういう優しさって罪なんだろうか。

そもそもこれが優しさなのかもわからない。
自分の存在はいつも捌け口になっているだけで、結局のところ、一時的に寄りかかる椅子や手摺のようなものでしかない。
わかるのは、今の彼女が答えを出そうとするには脆過ぎるということだけ。

「木嶋さんは、後悔とかないんですか?」
「え?」

 唐突に投げられた問いに言葉を失う。

「恋愛に対してってこと?」
「……はい」

「ないわけじゃないよ。傷ついたこともあるね……。だからこうした関係に落ち着いてるんだよ」
「その……辛くなったりしませんか?」

「辛くなる?」
「結局、相手の都合に合わせているような気、しませんか?」

「そうだね…。合わせていたとしてもそれは自分も同じだから…。お互い様というか。あんまり考えないようにしてる。考えちゃったらやっぱり辛いよ」

そう言って乾いた笑いをするしかなかった。本当のことだから。

 昨日の情事は、いつもにも増して彼女の感情が露わになっていた。
それは乞うようでもあり、願うようでもあり、自分から溺れていくようにも感じられた。忘れたかったのか、それとも…。

乳房を掌で包み遊びながら、下腹部から下部へ向かって舌でゆっくりと劣情をなぞっていく。変化していく感触と匂いを頼りに辿り着いた彼女の秘部を、指先で抑揚を付けながらほぐし、唇を重ねて愛撫する。のけ反った背中と悶える声を聴いて彼女の欲求を確認したあと、僕は自分の一部を注ぎこみ、応えるように抱き寄せて彼女の奥を染めた。
あの時の彼女の顔は、溺れるというよりも自分の過ちを受け入れているように見えた。


「あの…。このあとって時間あります?」
口を開いたのは、かなえの方だった。

「え?あぁ……特に用事はないよ」
「じゃあどこか行きませんか?」
「いいよ。息抜きしたかったから」

そう話してからシャワーを浴びて支度をする。
家を出てからしばらく歩き、駅のホームの椅子に座る。

「どこか行きたいところでもあるの?」
「実は……ないんです。ただ木嶋さんとゆっくり話をしてみたいと思っただけで」
「面白おかしく自分のことを話せるような中身のある人間じゃないよ、僕は」
「あの……面白い中身があるかどうかってそんなに大事なんでしょうか?」

 言葉に詰まる。本心を言えば、自分を打ち明けるのが怖かったからだ。
逃げてきたことを。避けてきたことを。
そして何より自分の弱さを誰かに話すことで今までの自分を否定してしまうことを…。

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