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【4088字】2024.06.24(月)|桜桃忌を肴に、くっちゃべる。(五)

<前回までのあらすじ>

『燈籠』の内容と関連する要素がいくつかある類似エピソードについて長々と筆記した。冗長が過ぎる悪癖が露呈した感が否めない。反省。その都度反省してはいるものの、書き始めると止まらなくなって、同じ過ちを繰り返すのであるが・・・。

何はともあれ、一区切りついたので、引き続き「女性独白体」の作品の中で、思い入れがあるモノをピックアップしていきたい。


今日は『きりぎりす』について触れてみよう。

おわかれ致します。

画家の夫を持つ妻が、離婚を決意した告白文が綴られる。

親の反対を押し切って、売れない画家だった夫と結婚した。生活は貧しかったが、それでも俗世間に汚されず、自分の描きたい絵を描く夫との生活は幸福だった。

だが夫は画家として成功し、別人のように変わってしまう。

かつての貧しい暮らしを軽蔑し、お金に執着し、他者を侮辱し、体裁ばかりを気にする。人の世では、夫のような生き方が正しいのかもしれない。だがそんな醜さはどうしても受け入れられない。

その夜、布団で眠っていると、縁側の下からコウロギの鳴声が聞こえた。まるで自分の背骨の中で「きりぎりす」が鳴いているように感じられ、彼女はこの幽かな声を、一生忘れずに生きていこうと決心した。

リンク記事|「あらすじ」引用文

この作品は、淡々と、妻が夫を、なじるっていうか・・・、なんかこう、真綿で首を締めるってこういうことなんだなぁ、と教えてもらうような文体が、延々と続くのが特徴的だなぁと思っている。

この作品に限らずではあるが、文字媒体であれ映像媒体であれ、自分事として追体験するように読んだり見たりする癖がある僕にとっては、ゲーム風に言えば「ダメージ1」を、エンドレスに与えられ続けて、最終的にはノックアウトされる、そんな読後感を覚えた記憶がある。太宰作品特有の、”読むのしんどいけど文字を目で追うのがやめられない”って感じかも。

妻視点で、夫の変遷を、事細かに筆記しているのが一番の特徴だと思うんだけど、そう考えると「私小説」というよりも「心境小説」といった方が近いのかなぁ。学術的なことは良く分かってない文学素人なので間違ってたらごめんなさい。内面にフォーカスして、心情を吐露するシーンが目立つのかなって。

そういう意味では、”動き”はほとんど無いタイプだと思う。冒頭の「おわかれ致します」から、方向性は全く変わることなく。「なぜ別れを決意したのか?」というのを、これでもか、と詳述している印象。もしかしたらこの手の作品が僕は結構好きなのかも・・・。「動きが無い方が好き」って、言ったことあるわ。「極論、何も事件は起きなくて良い」とかも。今更ながら納得。こうやってレビュー(にもなっていないが)する機会があるから再認識出来るんだね。面白い。


それで思い出したネット記事があるので引っ張ってきた。

 テレビ東京系でシリーズ化されている同ドラマは、松重豊演じる主人公が営業先で見つけた食事処に立ち寄り、食事をするグルメドキュメンタリードラマ。バカリズムは「おっさんが1人でご飯を食べてるだけ。でも、その中には感情の動きがしっかりあって、葛藤、発見、感動があって、しっかりドラマになってて面白い」と評した。

 最初に面白いと思ったのが2017年のシーズン6で松本明子が店主を務めた回。「これだけなんだ。面白いな。そこにそれぞれの人間模様があるわけでもなく、ただただアジフライを食べた回」と感想を述べた。

 自身が脚本を務める作品も「いかに事件を起こさずに狭い範囲の小さなスケールで面白くできるか、に理想を持っている」と、「孤独のグルメ」に共通する世界観を見いだしていた。

※同ドラマ:『孤独のグルメ』のこと

リンク記事|引用文

僕も『孤独のグルメ』が好きだから、アルゴリズム(?)で引っ掛かったんだと思う。偶然、目を通すことになったんだけど、「バカリズム!分かる!分かるよ!!」となった。元から”なんか気になる人”のテリトリーに居た芸人さんだけど、瞬く間に”なんか好きな人”に位置付けが変わったのは言うまでもない。

その勢いのままドラマもちょこっと見た。『イップス』っていうやつ。篠原涼子も好きだから。『人魚の眠る家』って映画で、ドーンッて来た感じ。僕の中では。『アンフェア』じゃないんですね~。アレも見てたけどさ。まぁ『イップス』は、パティシエの回のやつを見て、あぁなるほどこんな感じか、と満足して、そっから見てないんだけど・・・。最近、ほぼ見ないのよ。つまらないから見ないってわけでもない。悪しからず。直近だと『下剋上球児』になるのかなぁ。史実から着想を得て製作されたドラマって聞いて。原案の著者である菊地高弘さんの野球関連の記事を日頃目を通してたっていうのもある。

ダグアウトで球児にエールを送る黒木華が可愛すぎた・・・。

バカリズムの言葉を借りると「いかに事件を起こさずに狭い範囲の小さなスケールで面白くできるか」ということになるのだけど、僕も完全同意。これは個人的な話になるけど、事件が立て続けに起きると、次第に、心が離れていってしまう感覚がある。「あぁこれは僕の人生ではまず起きないだろうなぁ…。」みたいな。冒頭で述べた”追体験感”が薄れるんだよね。こうなると、読み物であれ映像物であれ、”自分とは違う世界を生きている人の物語”になるから、感情移入のメーターが下がるきらいがある。

それもあってか、ノンフィクション作品や、ドキュメンタリー系や、ヒューマンドラマ系などを好む一方で、SFとか異世界モノ(まだ流行ってますか…?)は、取っ付き難いジャンルって印象。異世界モノがドーンって流行った頃、ちょこっとだけ触れたんだけど、「ちょっと俺には分からん世界だなぁ…。」と思ってしまった。

自分で言うのもなんだけど、創作物の好みは、かなりハッキリしている方だと思う。要は「心が動くか?」。この一言に尽きる。どれだけ名作だと言われても、自分の心が動かなければ、続きを読みたい(見たい)とならないし、逆もまた然りだ。「前は興味を持てなかったけど今は全然違う!」って感覚も、ほとんどない。一定量の知識等が求められる書籍だったらあるけどね。いわゆる娯楽物では、それは無いかなぁ・・・。

あと、前も、noteのどっかの記事で、オススメした記憶あるんだけど、『横道世之介』は、まさに「いかに事件を起こさずに狭い範囲の小さなスケールで面白くできるか」という、バカリズムのこだわりにマッチした作品だと僕は思っている。言わずもがな、大好き。こういうのがいいんだよ、こういうのが。


さて、そろそろ、本題に戻るとするか・・・。

あの~、書きながら、ふと思い出していたのは、『駆込み訴え』って作品ね。太宰治だよ。もう戻ってるからね。今日はもう寄り道しないよ。今日は、だけど。これまで『きりぎりす』と似てるなんて考えてこなかったんだけど、コンセプト的には、なんか似てるのかなぁって・・・。「私小説」というよりも「心境小説」だ、と書いたトコ辺りから、ちょっと、そう思い始めた自分が居る。的を射てるかどうかは分からん。僕がそう思っただけ。

イスカリオテのユダを主人公とした視点で、イエス・キリストに対してどういう感情を持っていたのかを述べるという形式を取っている。全体としてはイエスの薄情や嫌らしさを訴える内容となっている。しかしその実質は、自暴自棄になったユダの愛と憎しみがないまぜになって、どちらがどちらか本人すらすでに判別つかなくなり、混乱しながらも悲痛に訴えているというものである。ユダがどこに駆け込んで誰に訴えかけたのかは、明らかにされない。

太宰は「姥捨」において「ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す」と記している。

リンク記事|「概要」引用文

『きりぎりす』と『駆込み訴え』の違いを挙げるとしたら、語り手の心情になるのかな。前者は、もう、ただただ、一直線。「女心と秋の空」なんてことわざが霞(かす)んで見えるレベルで、徹頭徹尾、離婚を決意するに至った経緯を滔々(とうとう)と述べて来る。そりゃあもう気持ち良いぐらいに。その点、後者は、読んでいるコッチも「んっ?」と、同じ箇所を二度三度と読みたくなるような語り口。でも、そんなところに、人間らしさも感じられたり。嫌いじゃない。嫌いじゃないよ~。そういうのも。

それでまた思い出した。この話は、何の客観的根拠もない、単なる”居酒屋トーク”なので、話半分で聞き流してもらいたいのだけど、

「なんだかんだいってさ、男はさ、いざという時に頼りにならないヤツばっかなのよ。むしろ女の方が、そういう時は肝が据わってるもんなの。だからアテになんてしちゃダメ。意気地無しなヤツばっかなんだから」

そういう趣旨の話を、男女が居る前で、ハッキリと言い切った女性のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。月並みな表現ではあるが、カッコいいなぁ、と思った。「なにをっ!?」と反発したくなる感情は、一切湧いてこなかった。僕に限ればその通りだなとも思う。全男性を対象にしたら分からないけれども。なんなら、スパーンと言い切るところに、一種の快感すら覚えたものだ。

例えば、同じ話を女子会で披露していて、人を介して「こんなこと言っていたけど、どう思う?」と聞かれたら、受け取り方は180度変わって来る。「まぁその場だと啖呵を切って話せるってもんだよなぁ…。」というか。マイルールの一つに「男だけの飲み会で『女は~』と言わない」と決めている僕からすると、どうしても、その気持ちが先に立つ。

だからこそ、男女が居座る中で、堂々と言い切れる彼女は、素晴らしい。是非は別として、本心本音でそう思っていないと、なかなか言えないことだと思う。それと同時に「この人はいざという時に頼りになるんだろうなぁ…。」と感じさせてくれる。そう。説得力があるのだ。「この人がココまで言うならホントなのかも…。」っていう。こういう人のことを”姐御肌”と呼ぶのかもしれない。

~「六」へ続く~

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