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渋谷のバーにて

 昨日、後輩たちと飲んだ後に、一人で道玄坂の洒落たバーに行った。いつも僕が言っているジャズバーではない。白黒の無声映画を流している、「Baron」という名のバーだ。映画館の建物のすぐ近くのビルの地下にあるその店の雰囲気が好きで、時折僕は足を運ぶ。それほど頻繁に、というわけでもないのだが。
 オードリーヘップバーンの美しいポスターがカウンター横に張られている。酒瓶の並んだ棚の中央から、大きな桜の造花がこちらにせり出していて、さながら前衛的だなとさえ思う。しかしマスターは常識人だ。僕が店についた時も、そこには常識的な人ばかりがいた。

 バーテンダーといろいろと話をして、ふう、と息をついたころに、老年の外国人の夫婦がやってきた。僕はすこし得意になって英語で話しかけてみると、彼らも嬉しそうに返してくる。

「どちらから?」
「サンフランシスコ」
「お仕事は?」
「私はダンス教室の先生、夫は心理学の教授」

 心理学、か。僕は哲学と精神分析を勉強しているんです。そんなことを話す。フロイトの名前を出すと、二人はいかにも嫌そうな顔をする。僕もフロイトを全肯定しているわけではないので、言い訳がましくそう告げた後、彼が何か人間の精神に関する一つの側面を言い当てているのだということを説明してみる。欲望や欲求と行為は、必ずしも一方向の関係ではない。

「日本人の宗教にも関係するんだけれども、日本人の多くは、内と外の感覚に敏感なんだ」

 2人は興味津々に僕の話を聞く。僕は自分の浅い知識で神道の本質とは何かについて説明をしてみる。日本の神には善と悪の両側面を持っているものばかりだ。日本人の持つ畏怖の感情は、西洋的な神のそれよりも無意識的だ。だから神への感謝をしょっちゅう口にしたりはしない。

「無意識的というのは?」
「口に出したり祈りをしたりしないってこと。その代わり、もしも神がいるところに行くのであれば、最低限の礼節は守らなければ、と思う。だから神社を汚されると、本能的な嫌悪を感じるんだ」

 本能的な、という言葉に心理学者は反応する。僕が言いたいのは、内的な確信みたいなものなのだが、その場では上手く説明できない。

「つまり、あなたたちがもし土足で日本人の家に上がったとすると、日本人は無意識に、自分の「内」へと侵入されたと感じるんだ。それは物理的なものではなく、もっと精神的なものだからね。あくまで僕個人の意見だけれども、日本人はこの感覚が強い。自分たちの内側にある感情や主張は、表に出すとしてもすごくデリケートな形で出さなくてはならない。それが逆に、政治的なことを話す際の障壁にもなるんだ」
「障壁?」
「そう。つまり、日本人の政治に対する無関心さだよ。自分の生活、つまり自分の「内」さえ平穏ならばそれでいい、という感覚。これはアメリカのある社会学者も指摘しているけれども、日本人の中には本質的に独裁に対する緩い合意みたいなものがある。だから、知識人層がそれに抵抗を呼び掛けると、世間が冷たい反応をすることもある」

2人はなんだか、日本人の精神状況に、ある種の病的なものを感じたらしい。けれども、あなたたちの国だってそうでしょ? と言ってみると、そうかもしれない、とは返してくれた。何が正しくて何が間違っているのかを表現しなくてはならない、という圧迫感が、かの国にはあるのだ。

「ともあれ、神道と精神分析をつなげるなんて言う無茶なことをやってたら、僕は大学院を卒業できないだろうね」

最後にそういうと、二人は静かに笑った。子供がホテルにいるから、といってバーを去る。あの二人の目に、一人の日本人の学生はどう映ったのだろう。

いや、日本人たちは、どう映ったのだろう、というべきか。

彼らは都知事選の混沌については何も知らないだろうし、メディアにいろいろと扇動されて、あるいは政治家の口車に載せられて、理論家たちの「抵抗」の見せかけの善性みたいなものをを感じて嫌悪する日本人のメンタリティーについて、ちゃんと「理解」しているわけではないだろう。彼らの内側に、その感覚が無いから。「うち」と「そと」の感覚は、決して日本人だけではないと僕は思う。そして「内」に「響く」ことが無い限り、我々の無意識には常に嘲笑的態度が付きまとう。右だ左だ、と言えばそれで済むと思ってしまう。

 過激なことを最後に一つだけ付け加えよう。僕が言いたいのは、要はこういうことだ。相互理解などという馬鹿らしい理想よりも、理解できないことを前提とした倫理を構築する必要がある。「私はあなたを理解できないし、あなたは私を理解できない」。それがスタートラインに無くては、コミュニケーションなんてものは不可能だ。酒の席でも、僕はよそよそしさを感じてしまう。いっぱいのウイスキーだけが身体の内側に染み込むのを感じて、そう思った。

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