【若者の自殺の多発について 〜生きるための意欲を漲らせるために必要なことは何かを考える〜
子供の自殺が多くなっていると聞きます。これは異常なことですが、どこか麻痺するくらいに、ずーっと言われ続けていて。やはり麻痺してしまうという異常事態がこの国のデフォルトになってしまっている。
私は介護の現場で勤め、そのことをよく発信し、その中でひたすら
意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲意欲
と言い続けています。意図してやっております。意欲を失うと人はあっけなく死んでしまうからです。
そう、意欲を失うと人はあっけなく死んでしまう。
これは観念論でも精神論でもなく、実際論として、死ぬのです。肉体としての生命維持機能がことごとく死に向かうし、意志もまた死に向かうのです。この恐ろしさはひょっとしたらピンと来ないかもしれないです。介護の現場でもそれがピンと来てる人は私の知る限りあまり見ない。
そんな中、特に、生きる意欲を失った状態で、生きる肉体的能力が保持されていると。
人は自殺の方向に向かうのです。私の職場でも、肉体の健康状態が良くなった途端に希死念慮が発言する人が非常にたくさんいます。
(希死念慮…自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある)
昔からよく言われる「元気があるから自殺ができる。元気がなければ自殺すら出来ない」というのはこういうことです。
以上を真実と仮定するならば、体力が充実している若者ほど自殺リスクが高いという論理的帰結が導かれます。
そう、冒頭で子供、若者の自殺が多くなっているというのを異常事態と断じていますが、子供、若者が自殺しやすいのは異常事態ではないのです。
ならば、問題の本質は若者が生きる意欲を持てないということが異常事態、ということでしょう。
さて、では生きる意欲を築き、それを守るにはどうしたらいいか?
さほど見識もない私でありますが、以下の2つを挙げてみます。
①楽しみを外部・他者に依存しない②自然という「もう1つの世界」に気付き、親しむ
です。
まず①ですが、端的にいうと「依存しない」ということに尽きます。
タイムリーな例で言えば、この間のWBC(ワールドベースボールクラシック)。それ自体は素晴らしいものですが、それを生き甲斐にしてしまうような在り方はリスキーということです。プロ野球が雨で中止になった途端に不機嫌になるような人もそういうことですね。
依存というと、薬や甘いものやタバコ、お酒、最近ではスマホとかを思い浮かべやすいでしょうが、ここで指す楽しみを外部・他者に依存するというのは、
読書、音楽鑑賞、TV視聴、ラジオ視聴、追っかけ、スポーツ観戦、ネットサーフィン、ゲーム、などなど、
自分で産み出す比率の低いものすべてです。
趣味は大切ですが、これらは喪失し易いのです。スポーツ観戦だったら雨や時期の終わりになすすべもなく喪失します。
また、これらのものは「飽きて」しまうと、それこそなすすべもなく喪失するのです。そうなると次から次へと追い回さなければならなくなる。そして疲労と虚しさは蓄積されるのです。
情報というのも依存対象の一つですね。故にデータを負い続けるのもまた、1つの外部・他者依存となります。
さて、外部・他者に依存する楽しみの対となるのは自己から何かを発現させる楽しみ全てです。
自分の頭で考えてみる、それを文字に起こす、日記を書いたり、発信したり、字を書いたり、楽器を演奏したり、歌を歌ったり、料理をしたり、散歩したり
まあ、挙げればきりがありませんが、これらのものはとにかく喪失し辛いのです。
モノをあまり必要とせず、そして必要なモノがあれば「終わり」がない、モノを必要としないものさえある
ナニカに依存する楽しみと、自分の内部から産み出す楽しみ。この2種類の楽しみのうち後者の比率が多いと必然的に楽しみを味わうという意味における「自立度」が高いということになります。
つまり、生きる意欲を枯渇させるリスクが低いということです。
あ、恋愛とか人間関係に対する依存は最たるものですね。その人を失うと喪うので。
次に②
これは養老孟司という人が言っていたことをそのまま紹介するのですが、氏が仰るに、現代人は世界を1つしか持っていない、すなわち「人間関係の世界」しか持っていないということです。
昔の人もまた、悲惨なことはたくさんあった、例えばイジメ、その陰湿具合も、理不尽な暴力も別に現代よりも程度が低かったわけではない。ならばなぜ現代日本人にはかくも自殺の雰囲気がついて回るのか?
その疑問に氏は現代人は挫折した時に自然というもう一つの世界に逃げ込むことを忘れてしまったからだと説かれた。
「いじめられた、ひどい目に遭わされた、裸足で駆け出し、飛び出して、気がつけば月明かりはかくも美しく私を照らしてくれ、草木の香りは私を優しく包んでくれた。人の世のいざこざによる傷を、少し忘れさせてくれた」
このような事が昔はありふれていた、現実においても、小説のような創作の世界においても、
しかし現代人においては、思えばそれが希薄、いや、ゴッソリと失われてしまい「人間関係の世界」しかなくなってしまった。
つまりそこで挫折してしまうと、逃げ場がなくなる。ほけんがないということです。
確かに自然は減ったが、何よりも自然に親しむという在り方が人から失われてしまった。
と、まあ要約するとこのようなことを仰った。これは大いに傾聴に値する説だと感じたので、紹介致しました。
さて、この自然に親しむ在り方を取り戻すための方策を、1つ挙げましょう。
それは「移動」において、依存しないということです。
車や電車よりも自転車、自転車よりも徒歩というふうに。
すると自然に意識を向ける時間が否応なしに増えます。別に花や草や木だげが自然ではないのです。建造物であっても、コンクリートであってもいいのです。
「人間関係」という世界の外側に出るのです。
逆に言うと、どれだけ豊かな自然いっぱいマイナスイオンいっぱいの場所にいたところで、スマートフォンとにらめっこしていたのでは自然と親しむとは言えませんな。
また、キレイな自然をひたすらカメラでパシャパシャしているのも、意識は恐らく「その切り取った自然をどう扱うか?」つまり人間関係の世界に留まっていると感じます。
ならば答えは簡単です。
手ぶらで歩く
ということですな。
近所で良い。近所で10分15分歩くだけなら、スマホも財布すらもいらない。
そういう時間を作るということかもしれませんね。
さて、以上の2点に関して私なりにこうさうしてみましたが、こう見るとゾッとすることが一つ明確になりました。
現代人とひとくくりにしましたが、私のような42歳の人間よりも、デジタルネイティブと呼ばれている若い人々は、
上記の観点から見ると非常にリスクの高い場所に立っている。
そう考えると子どもたちの自殺が多いと言うのは、ある意味で必然と言えます。
悲しいことですが。
さて、私に出来ることは何でしょうかね。。と思いかくの如き文章を書来ました。が、暗いですね。
どのような事を発信するにしても、もう少し明るく前向きな語り口にした方が世界には貢献出来る。
そのような気が致します。
そのような気が致すだけで、私の中に希望が、生きる意欲が漲る。
そういうことなのです。
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