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剣豪将軍・足利義輝の最期「永禄の変」
永禄8年(1565年)5月19日、塚原卜伝から奥義「一之太刀」を授かった「剣豪将軍」足利義輝の最期は、数珠丸恒次以外の「天下五剣」など、多くの名刀を抜いて畳に刺しておき、刃こぼれすると他の名刀に持ち替えて戦ったイメージが強いです。
『足利季世記』によれば、「若江三人衆」(三好義継が若江城主であった時の3家老。池田丹後守教正、多羅尾右近(多羅尾綱知)、野間左橘兵衛(左吉)長前)の筆頭・池田丹後守
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
信長による足利義昭追放のあと、光秀の政治的立場はどうだったのでしょうか?信長家臣の中でも有能な光秀は「近畿管領」といわれる要職に就きまました。さらに、信長が京都で行った大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」では、総指揮に抜擢されます。これは「お前が家臣の中で一番だ」と言われたに等しいことだったといいます。今回は、本能寺の
明智岸 ー光秀の娘たちー
明智光秀については、
・妻は牧、長女は倫子
と記憶されてる方が多いのでは?
『麒麟がくる』で、
・母は牧、長女は岸
と言われ、
「牧は妻の名では?」
「岸は倫子が結婚してからの名では?」
と驚いた方が多いのでは?
私も驚きました \(~o~)/
「明智系図」の明智光秀の娘は次の通り。
『和漢三才図会』「麒麟」
「麒麟(きりん)」とは、本来、「麕(くじか)の突然変異の一角獣」(「麕」はシカ科の獣。鹿よりは小型で角が無いのが特徴)を指しましたが、西洋のユニコーンとの関係で聖獣となり、さらに羽がついて、今のように派手なキメラ(日本で言えば鵺)になったようです。
絵画や陶器では青い麒麟「聳孤(しょうこ)」を見ますが、五行思想では「土」ですので、本来は、鹿革のような(織田家のカラーの?)黄色とか金色になります
「桶狭間の戦い」の実像に迫る
1.はじめに仕事依頼(執筆依頼)が来ず、かと言って取材に行く交通費も車もないので、以前取材した「桶狭間の戦い」について、改めてまとめておこうと思う。(桶狭間へは何度行っても行くたびに新しい発見が有り、1年前に書いた記事を読むと笑ってしまう。)
★去年まとめた「桶狭間の戦い」の記事https://note.com/ryouko/n/n53576688d882
「桶狭間の戦い」については、書き始め
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
将軍義昭の家臣であり、信長の家臣でもあった光秀。信長の排除に動く義昭の前途に不安を抱くようになります。光秀が義昭の側近に宛てた手紙には「おいとまをいただきたい」と記されていましたが、年月日がなく、いつ書かれたものか定かではありません。今回は、義昭が信長を倒すために手を組んだ武田信玄の動きをひとつのヒントに、光秀がどの時
「桶狭間の戦い」-今川義元はどこにいたか-
A説:漆山
B説:桶狭間山(標高64.7mの無名の山)
C説:桶狭間山(石塚山)
D説:鷺山(鷺塚)
E説:桶狭間古戦場伝承地
F説:本陣移動説
★各説の解説