見出し画像

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第14回【「本能寺の変」の真相】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第14回【「本能寺の変」の真相】

光秀謀反の真相に近づくためには、「本能寺の変」が起きる直前の1年間を注視することが重要といいます。その間、信長は朝廷に対して口出ししたり、高官に暴言を吐いたり、恵林寺の国師を焼殺したりしました。傲慢な振る舞いを重ねる信長のことを光秀はどうみていたのでしょうか?近年発見された「石谷家文書」などをもとに、光秀謀反の原因について考えます。

要旨

(1)「本能寺の変」に至る織田信長の行動


★織田信長の行動

・正親町天皇の安土行幸(みゆき)計画→安土遷都?
 ・安土城の清涼殿風建物
 ・安土城の大手道が一直線
京都馬揃え
「此きんしやと申すは、昔、唐土か天竺にて、天主(天子の誤り)、帝王の御用に織りたる物と相見えて、四方に織止ありて、真中に人形を結構に織付けたり」(『信長公記』)
自分を「王=天皇」だと言う織田信長(ルイス・フロイス談)
「予がいる処では、汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が王であり、内裏である」(私(織田信長)がいるところでは、あなた(フロイス)は誰にも媚びる必要はない。なぜなら、私が王であり、天皇と同じ存在だからである」)

★織田信長の問題行動

①暦問題(京暦(宣明暦)への口出し→三島暦へ)
「いわれさる事也。これ信長むりなる事と各申事也」(勧修寺晴豊『日々記』)
②【武田攻め①】武田勝頼の首を蹴った。(『綿考輯録』『常山紀談』)
③【武田攻め②】現職太政大臣近衛前久への暴言(『甲陽軍鑑』)
④【武田攻め③】正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜の焼身自殺

(2)四国説(現在の学説)


 この説が俄かに注目を集めたのは、平成26年(2014年)6月23日、林原美術館での「石谷家(いしがいけ)文書」47点の発見報告による。

※「林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー」
https://www.hayashibara.co.jp/data/943/press_tp/
※「石谷家文書(いしがいけもんじょ)の研究成果と史料集の出版について」
https://www.hayashibara.co.jp/data/950/press_tp/

★「天正10年1月11日付石谷空然宛斉藤利三書状」(「石谷家文書」)
尚々、御朱印之趣も元親御ため可然候、向後まても、惟日如在を不可存之由も被申候間、行々静穏之筋目之たるへく候、以上
新歴御吉兆、珍重不可有休期候、仍今度元親御請ニ御申ニ付而、則被成御朱印候之間、重而頼辰、仁首座下国候、弥始末可然様ニ、万事御異見尤ニ存候、
次御湯治之事、於御養性者可然候、猶様子頼辰可被申上候、取乱候間、重而可申展候、恐惶謹言
正月十一日   利三(花押)
進上
 空然
   人々御中


 長宗我部元親と深い関係にあったとは、斉藤利三である。
 斉藤利三は、「四国は切り取り次第」という約束は破棄されたが、「御朱印の趣(おもむき)も元親御ため然るべく候、向後まても、惟日、如在を存ずべからざるの由も申され候間、行く行く静穏の筋目のたるべく候」(織田信長の朱印状の趣旨は、長宗我部元親のためであることは間違いないから、今後も明智光秀は粗略に扱わないと言っているので、これから先は静かにしていた方が身のためである)と助言している。

日向守内・斎藤内蔵助、今度謀叛随一也。(山科言経『言経卿記』)

と、当時から、斉藤利三黒幕説は存在した。

(3)信長非道阻止(暴君討伐)説(小和田説)

★天正10年6月2日付西尾光教宛明智光秀書状(山鹿素行『武家事紀』)
 信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城、相済まさるべく候。委細、山田喜兵衛尉、申すべく候。恐々謹言。
  六月二日  惟日在判
 西小 御宿所

 明智光秀は、武田氏滅亡後に急に傲慢になった織田信長を「天下の妨げ」として討ったのだという。(「天下」とは? 天皇のこと? 足利義昭のこと?)

ここから先は

2,100字

¥ 100

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m