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「桶狭間の戦い」の実像に迫る

1.はじめに

仕事依頼(執筆依頼)が来ず、かと言って取材に行く交通費も車もないので、以前取材した「桶狭間の戦い」について、改めてまとめておこうと思う。(桶狭間へは何度行っても行くたびに新しい発見が有り、1年前に書いた記事を読むと笑ってしまう。)

★去年まとめた「桶狭間の戦い」の記事https://note.com/ryouko/n/n53576688d882

「桶狭間の戦い」については、書き始めたら止まらず、数十万文字になると思う。内容を理解しながら読むスピードは、400字/分(原稿用紙1枚)だというから、2000文字で書けば「5分で分る桶狭間の戦い」になるが、私には、「桶狭間の戦い」についてしゃべらせたら何時間でも話し続けられる自信はあるが、「5分間スピーチ」は出来ない。

目標1万文字(原稿用紙25枚)!
読者が読むには25分必要;

さて、「桶狭間の戦い」の謎は、
 ──なぜ、小人数で大人数に勝てたか?
に尽きると言って良い。
「小人数で大人数に勝てる方法」を頭を使って考えてみた。

①奇策を用いる。
②奇襲する。
③実は人数差はさほど無かったので勝てた。
④ゲリラ戦で勝った。
⑤今川軍に裏切り者がいたので勝てた。

①「奇策」については、「桶狭間の戦い」直後の厳助の日記『厳助大僧正記』に「回武略打取」(武略を廻らし打ち取る)、『春日山日記』に「信長、奇計を以て義元が不意を打ちて、遂に義元の首を得る」とあることから、「桶狭間の戦い」の第1報は、京都には「武略」、越後には「奇計」で勝ったと伝えられたことが分かるが、残念ながらその「武略」「奇計」の内容は書かれていない。
②「奇襲」については、「義元が不意を打ち」ということであり、なぜ、今川義元が不意を突かれたのか(油断していたのか)は、後述。
③「人数」については、太田牛一『信長公記』に、今川義元は45000人を率いて桶狭間山で休憩しており、織田信長については、善照寺砦から中島砦に移動したのは2000人弱とあるので、ついつい「45000人対2000人」と考えがちである。
江戸時代の検地から割り出した最大動員数は、今川義元は25000人で、最近は、
・15000人:駿府に留置
・10000人+小荷駄(荷物運びの非戦闘員)15000人=25000人出陣
だとするが、一般には、兵数は10000人ではなく、25000人で、
・先陣:10000人(大高城など)
・本陣:5000人
・後陣:10000人(沓掛城など)
だと考えられている。一方、織田軍については、「最大動員数は10000人だと言うが、これは新田開発後の話であり、当時は4000人」として、
・1000人:清須城に留置
・3000人:出陣(1000人で先陣、2000人で本陣を襲撃)だという。
つまり、「5000人対2000人」の戦いだったという。
大河ドラマ『麒麟がくる』時代考証担当・小和田先生は、

「今川軍の兵力は通説では25000とされる。これは妥当だろう。しかし、正規の武士は1割程度で、残りの9割は農民兵だったのではないか。戦国時代について記した『落穂集』によると、「戦場で1000人の死者があれば、武士はそのうち100人から150人程度だった」としているからだ。一方、織田軍の動員兵力は6000ほどだろうが、守備兵などを除けば、決戦時に信長が率いたのは、3000程度と思われる。だが今川軍とは異なり、信長自らが鍛え上げた馬廻(うままわり)を中核とする精鋭部隊であった。つまり、今川家と織田家の国力差・兵力差は、従来の我々がイメージするほどは大きくないのである。桶狭間を考える上で、このことは是非とも強調しておきたい。」(小和田哲男「拮抗する兵力と「情報戦略」が、奇襲を可能にした」)

と言っておられる。織田軍の精鋭部隊・馬廻衆は800人だったとか。今川軍の9割が農民兵・・・田植えは終わったのだろうか?
※「田植えはお済みだろうか?」
https://note.com/ryouko/n/n23f8ba348e95
 農民兵の割合については、今川軍松井宗信隊の研究がある。全体の23%が、1騎、2騎を数える「随分衆」(驍士、まともな武士、正規の武士)で、残りの77%が、1人、2人と数える「雑兵」(歩兵、足軽、随分衆の従者)=農民兵だという。今川軍松井宗信隊に関しては、農民兵は90%ではなく、77%だったようだ。
④平野部で戦えば、「三方ヶ原の戦い」のように大人数が勝つ。山中での「ゲリラ戦」であれば、天正2年4月に天野藤秀が徳川家康を破った実績がある。今川義元が濃尾平野に入る前に、桶狭間で戦えば、勝てるかもしれない。「桶狭間」については、太田牛一『信長公記』に、
「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて(写本によっては「くてみ」)、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし」(桶狭間村は、谷が入り組んでいて(写本によっては「じめじめしていて(湿地帯で)」)、足をとられて身動きできなくなる深田があり、植物が高く、低く生い茂って兵が隠れたり、逃げるのに邪魔になったりするというという難所であった)
とある。
⑤「裏切り者」(合戦当日の寝返り)については、「関ケ原の戦い」の小早川秀秋のようなもの。「松平元康裏切り説」と「水野信近裏切り説」があるが、史実だとしても、徳川家康本人や彼の母の兄弟が「裏切り者」であるとは、江戸時代には書けない=証拠がない。

2.太田牛一『信長公記』にみる「桶狭間の戦い」


「桶狭間の戦い」について書かれた古文書は多いが、照合して見ると食い違っている。学者は「太田牛一『信長公記』にのみ史実が書かれている」と言っているので、まずは『信長公記』を読んでみた。

<『信長公記』にみる「桶狭間の戦い」>

①夜明け:今川軍、丸根、鷲津両砦へ攻撃開始
②織田信長は清須城から出陣。熱田神宮、丹下砦を経て善照寺砦に付き、そこを本陣とする。(午前8時、上知我麻神社から「東」方を見ると、丸根、鷲津両砦方面に黒煙が上がっていた。今川軍が丸根、鷲津両砦を落としたらしい。)
③今川義元は、桶狭間山にいて、北西に向かって陣を張っていた。(丸根、鷲津両砦を落としたと聞いて謡曲を3番謡った。)
④織田信長が善照寺砦に入ったのを見た佐々政次&千秋季忠隊300人が今川勢に突撃したが、すぐに50騎が討たれた。(今川義元は、佐々政次&千秋季忠を討ったと聞いて謡曲を謡った。)
⑤織田信長は中島砦に移動。この時の総勢は2000人弱。織田信長が兵を鼓舞していると、前田利家らが今川軍の首を持って現れた。
⑥織田信長、中島砦から出陣。「山際」まで進軍すると、突然の暴風雨。
⑦雨が止んだので進軍再開。今川軍は押され、算を乱して退散。
⑧午後2時、東へ向かって進軍。今川義元の旗本は300騎であったが、5度戦うと50騎に減り、毛利良勝が今川義元を討った。
⑨織田信長は清須城へ帰城。

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『信長公記』を読んでがっかりするのは、「奇策」も「奇襲」もなく、普通に戦って、普通に勝ってることである。そんなんで少数が多数に勝てるのであろうか?
──「桶狭間の戦い」とは、織田軍2000人と今川旗本300騎の戦いであった。
と言われれば、「勝って当然」なのであるが、「今川軍の旗本300騎以外のの人はどこで何をしていたの? 休憩していたの?」と問いただしたい。
──どうやって旗本300騎をピンポイント攻撃したのか?
他の今川兵と出会わないように遠回りをしたのか? そもそも、今川義元がその場所にいることをどうやって知ったのか?

詳しく見ていこう。

①「夜明けに今川軍は、丸根、鷲津両砦へ攻撃開始する」という情報は、『信長公記』によれば、前日に織田信長に伝わっていた。「今川軍に内通者がいたので分かった」というが、今川義元がわざとスパイに教えたと思われる。これを聞いた織田信長が清須城から出陣し、丸根、鷲津両砦へ救援に行けば、四方から取り囲んで討てば良い。
・東:今川軍
・西:伊勢湾(今川方服部友定の軍船約1000艘。織田軍には水軍はない。)
・南:大高城の今川軍
・北:鳴海城の今川軍
織田信長が清須城から出陣しなければ、国境付近の砦を全て破壊することは、兵数差で容易である。実際、織田信長の援軍を得られなかった丸根、鷲津両砦は午前中に落ちている。
②良い作戦だと思うが、織田信長は、丸根、鷲津両砦に援軍は送らず、かといって清須城に篭城もせず、善照寺砦に入るという作戦をとった。善照寺砦は高所に在り、合戦場を見渡せる。

③今川義元は、合戦場東端の桶狭間山に本陣を置き、合戦場西端の織田信長の本陣・善照寺砦(北西)に向かって陣を張ったという。

④織田信長が善照寺砦に入ったのを見た佐々政次&千秋季忠隊300人が今川勢に突撃した。詳細が書いてないが、「中島砦の城兵が先駆け(抜け駆け)した」ように読めてしまう。(詳細は後述)
ここに奇妙な記述がある。「是(こ)れを見て」である。

「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎、二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で候へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。是れを見て、「義元が矛先には、天魔、鬼神も忍べからず。心地はよし」と、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。」(太田牛一『信長公記』)

今川義元は、本陣で「是(こ)れ」を見たという。「是れ」が「合戦」(佐々政次&千秋季忠隊が次々と討たれていく様子)だとすると・・・合戦場東端の桶狭間山(標高64.7mの無名の山)の本陣からは、織田信長の本陣・善照寺砦は見えるものの山麓の合戦場(中島砦周辺)は見えない。佐々政次&千秋季忠隊が次々と討たれていく合戦は、漆山や高根山からでないと見えない。実際、名古屋市蓬左文庫所蔵「桶狭間合戦絵図」には、漆山に「義元本陣」と書かれている。
 ただ、『信長公記』からは、「これ」が「合戦の様子」としか読めないが、『伊束法師物語』などでは、今川義元が本陣で見た「これ」は、「合戦の様子」ではなく、「今川本陣に届けられた織田方先陣・佐々政次&千秋季忠と織田方抜け駆け・岩室重休の首」としている。

然るに、佐々隼人正、岩室長門守、千秋四郎、此の人々、先陣に扣(ひかへ)しが、味方の旗色の寄り来るを見て、面もふらず、敵陣に乗り入りける。爰に駿河軍兵に石川六左衛門と申者、数度の軍に戦功を励まししに依りて、此度の軍に物見の役なりしが、十五町計先に張番して有りけるが、「待ち請けたり」と言ふまゝに散々戦ひける。多勢の事なれば、終に三人ながら討れにけり。敵の首を持て義元に入れけば、「兎にも角にも、我鑓先には、天魔はじめ成るとも、たまるまじき也。舞へや、謡(うた)へ」と、酒もり、最中に成りにけり。(伊束法師『伊束法師物語』)

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 ──「桶狭間山」は「漆山」ではなく、「標高64.7mの無名の山」では?

 実は、「漆山」も、「標高64.7mの無名の山」も、「桶狭間山」=「桶狭間村にある山」ではありません。桶狭間村の地図を見ると、「桶狭間村にある山」は、西部の高根山、幕山、巻山、それに、東北部の生山(上の天保12年(1841年)の絵図「知多郡桶廻間村図面」(右が北)では「者(は)へ山」。他の表記は「波井山」「ハイ山」など)、武路山だけです。(ちなみに、高根山~幕山には、先陣・松井宗信(二俣城主)が1500人で、巻山には、先陣・井伊直盛(井伊谷城主)が1000人で守っていたと言われています。こういったことは、織田方の太田牛一は知らないのか、『信長公記』には書いてありません。)
 『信長公記』の「桶狭間山」とは、1つの山のことではなく、桶狭間村西部の「高根山~幕山~巻山」のことかな? 今川本陣には5000人いたといいますが、1つの山に5000人は無理でしょうから。(実は500人の誤り?)
・今川義元の本陣は桶狭間村にある山にあった。
・今川義元は、佐々政次&千秋季忠隊が次々と討たれていく様子を本陣から見た。
この2条件を満たすには、「今川義元の本陣は高根山にあった」と考えるしかないのですが、当時の高根山は急勾配で、登山道も無く、輿に乗って登ることは不可能だったようです。

⑤織田信長は中島砦に移動。ここで気になることが2点。
・織田信長が兵を鼓舞した言葉の内容
・前田利家の登場

「各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。『運は天にあり』。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是に於いては、ひ稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打ち捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」(太田牛一『信長公記』にある織田信長の中島砦での演説)

この演説で気になる点は、「あそこにいる今川軍は、夕食を食べて腹ごしらえをした上で、徹夜で、大高城へ兵粮を入れ、今朝、鷲津、丸根砦で戦った。苦労し、疲れている者たちである」という点です。今朝、鷲津砦を落とした朝比奈隊(遠江衆)と東三河衆は、眼の前の諏訪山で休んでいましたが、大高城兵糧入れはしていません。大高城兵糧入れをし、丸根砦で戦った松平隊(岡崎衆)は大高城で休んでおり、眼の前にはいません。しかも、その先の漆山(高根山?)にいる今川軍は、大高城兵糧入れも砦攻めもしておらず、元気です。(ただし『信長公記』の記述によればですが。)

前田利家の参戦は、勝敗に関わる重要事項なので、後述。

⑥織田信長は、中島砦から出陣し、「山際」まで進軍すると、突然の暴風雨(「熱田神宮の神風」?)に逢う。何山の「山際」(山麓)か書いてありませんが、詳しい移動ルートが書かれていませんので、中島砦のすぐ近くの山、つまり、「桶狭間山」(漆山か高根山)の山麓でしょう。

⑦雨が止んだので進軍再開。今川軍は押され、算を乱して退散。

空晴るゝを御覧じ、信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、「すは、かゝれ、かゝれ」と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。(太田牛一『信長公記』)

織田信長の声が大きかったことは有名ですね。声の大きさは、戦場では、リーダーの条件の1つなのでしょう。
「黒煙立て懸かる」──雨の後で、地面はぬかるんでいますから、煙は立たないでしょう。(見て書いた描写ではなく、軍記物によく出てくる表現、慣用句です)それよりも、土の匂いがしたと思います。
「弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱す」「塗輿も捨て」の理由は書いてありませんが、『信長公記』からは「奇襲」(いないはずの織田信長がいた)による狼狽ととれます。他の本ですと、「立て掛けてあったやりを倒して逃げた」(時代劇で、追手から逃げる時に、立て掛けてあった板や竹竿を倒して道を塞ぐようなもの)とか、「織田軍が鉄砲を放ったのを落雷だと勘違いし、『槍を持っていたら被雷する』として、槍を捨てた」とか書いてあります。

⑧今川義元は東へ逃げた。途中、5回戦った。

「初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ合ひ、次第次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。」(太田牛一『信長公記』)

今川義元の周囲には300人いた。織田信長が追ってきたので、50人を残して織田軍を食い止めさせ、その隙きに250人で逃げた。織田信長は、その50人を倒して追ってきたので、また50人を残し、200人で逃げた。同じことを5回繰り返すと、最後の50人になったので、今川義元を含む50人で織田軍と戦った。

「桶狭間合戦図」を見ると「織田信長は中島砦から出陣し、眼の前の漆山の今川本陣を襲うと、今川義元は逃げ、小川道を通って大高城に入ろうとしたが、漆山南麓の深田に足を取られ、長槍で突かれて果てた」というイメージですが、『信長公記』には「東へ逃げる今川義元に追いついて戦い、また逃げられて、また追いついて戦いと、5回も戦った」とあり、「漆山から数キロ東へ逃げた」イメージです。
考えてみれば、「桶狭間合戦図」が史実ならば、「桶狭間村の戦い」ではなく、「鳴海村の戦い」になってしまいます。『信長公記』の記述が史実であれば、「鳴海・桶狭間の戦い」(主戦場は鳴海村で、逃げた今川義元が桶狭間村で討たれた戦い)ですね。(『定光寺年代記』には、「5月19日、駿州義元、尾州鳴海庄にて、駿州軍勢1万人討たる」とありますが、誤報でしょうし、変な日本語ですね。私が記録者なら、「5月19日、尾州鳴海庄にて、今川義元を含む駿州軍勢1万人、尾州織田信長に討たる」と書きます。誰に討たれたか書かないのは記録者のミスです。新聞記事のように、5W1Hについては欠かさず記録して欲しいものです。)

今川義元の家老・松井宗信は、小川道の高所に陣を張り、なぜか南から織田軍が来たので驚いて漆山の今川義元に連絡しようとしますが、追いつかれて討たれたそうです。(地元の伝承でも「織田軍は南から攻めた」としています。今川軍は、北西の中島砦から攻めてくるものと思っていたので、驚いたのですが・・・どうやって南から? 西から大回りしたのでしょうか?)
なお、松井宗信の物見の場所については「高根山の頂上説」「標高64.7mの無名の山の頂上説」もあります。

⑨織田信長は清須城へ帰城。

2017年に初公開された『桶狭間合戦討死者書上』(「長福寺所蔵文書」)によれば、今川軍の戦死者は2753人(25000人の1/10)なのに対し、織田軍の戦死者は、990人余り(3000人の1/3)と多く、大高城を攻めることは出来ず、「ヒット&アウェイ方式」で清須城へ逃げ帰ったようです。もし、織田信長が大高城を攻めていたら・・・どうなったでしょうね。

※『天澤寺記』「桶狭間殉死之士」では、今川軍の戦死者は、3083人(随分衆583人 雑兵2500人)。
https://note.com/ryouko/n/n944993e6b0f0

はい、ここまで(『信長公記』の記述の確認)で6000文字です。残り4000文字でグイグイと「桶狭間の戦い」の実像に迫って行きますよ~!
とはいえ、疲れたので、お休みします。休んでいる間に、需要(「スキ」100個)があれば続きを書くし、なければこれまで。

3.『信長公記』の「桶狭間の戦い」の記述は史実か?


『信長公記』の「桶狭間の戦い」の記述には、いくつかの嘘がある。
①合戦の日を「天文21壬子5月19日」としている。(正しくは「永禄3庚申5月19日」。)
②丸根、鷲津両砦は、上知我麻神社の「東」にあるとしている。(正しくは「南東」。)もしかして、今川義元が逃げたのは「東」ではなく、「南」(大高城)?

4.太田牛一『信長公記』に登場する謎の3人


(1)佐々&千秋は本当に「抜け駆け」をしたのか?


そもそも佐々政次&千秋季忠が中島砦にいたのでしょうか?
千秋氏は熱田神宮の大宮司家ですから、熱田神宮にいて、織田信長に同行して善照寺砦に入るはずです。この疑問の回答は、『信長公記』の天理本にヒントが書かれています。(『信長公記』の写本の内、天理本(天理大学附属天理図書館所蔵の写本)と五島美術館本には、他の写本に書かれていないことが書かれています。)

道家祖看『道家祖看記』
18日の夜半過ぎに、信長公、広間へ出させ給ひ、「さい」と申す女房に「時は何時ぞ」と尋ね給ふ。夜中過ぎと申口、くくしめさせ給ひ、「馬に鞍置かせよ。湯漬けいたせ」と仰せられ、御せん過、昆布、勝ち栗持ちて参り候。即、聞こし召し、床几に腰掛け、小鼓取り寄せ、東向きになり給ひ、「人間50年、下天の内を比ぶれば、夢幻の間なり。一度生をうけ、滅せぬ者のあるべきか」と3度舞はせ給ひて、城の内をば、御小姓7、8騎にて出給ふ。大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、其の外、300計にて控へたり。「両人、早し、早し」と曰ひて、熱田源大夫殿の宮の前にて、1700、800になり給ふ。
星崎面に控へたる佐々下野守、300余りにて、6万余騎の押さへを仕り候者、信長に出迎ひ、「某、1人なり共、今川と組み、打死せん」と巧み申すに、さても妙なる御出也。「某、命を捨て候はば、今日の合戦に御勝ち候事、必定なり。今日、天下分け目の合戦是也。天下を治め給ひ候時、弟・内蔵佐、我等倅を御見捨てさせ給はで」とて、「我々は東向きに、今川旗本へ乱れ入るべし。殿は、脇槍に御向かひ、鉄砲、弓も打ち捨て、只無体に打ちて掛からせ給ひ候」とて、押し向かふ。
義元、油断して有る所へ、350計、打ち殺したり。「案の如く、本陣に喧嘩出来たり」とて、6万余騎の者共、騒ぎ立つ所へ、信長、2000余りにて、「1人も逃さじ」とて、喚(をめ)き叫んで大音を挙げて切って懸かり給ふ。一支えも支へずして、とっと敗軍、義元首を毛利新助取る。折節、西より大風吹き、霰(あられ)降り、大高、沓掛の大木、吹き転び申す也。
5月19日巳の刻、首数5000計打ち取り、大利を得させ給ふ。信長27歳也。
徳川殿は24歳。今川殿の先駆け、大高の城に、信長殿の人数300余り立て篭もり、家康攻め落とし、大高にましまし、伯父・水野宗兵衛とて、信長方の兵、「義元打死。早、逃れ候て、岡崎の城に3日抱へ候へ。我等の扱い、信長と一味させ申すべし」と使ひ有り。「心え候」とて、大手の口まで出られ候。如何に伯父なり共、敵方の使ひに驚き、退き候はん事とて、本丸へ馬を入れ給ふ所へ、敗軍是非無き次第、岡崎近き矢作の川端に日暮れまで陣取り、控へ給へ共、留まる者、1人も無し。其の夜半過ぎに永橋切り落とし、岡崎へ入り給ふ。信長、余り長追ひもし給はで、其日、7ツ時に清須の城へ帰らせ給ふ也。
【大意】織田信長が清須城から出陣し、熱田神宮を経て「星崎表(ほしざきおもて)」(他の古文書では「熱田表(あつたおもて)」)を通ると、佐々政次が待っていて、「今日は天下分け目の戦いです。私は殿のために命を捨てて、今川本陣に突入しますので、殿は、横槍をお入れ下さい。なお、殿が天下を取られたあかつきには、弟・成政と倅・清蔵を取り立て下さい」と言葉巧みに、織田信長をおだてながら申し上げた。そして、今川本陣に350人で突入して討ち取られた。今川軍が佐々隊を討ち取って油断していた時、織田信長は2000人で今川本陣に突入し、今川義元を討ち取った。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348/138
阿部定次『松平記』
永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。
「今朝の御合戦、御勝にて目出度」と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々、御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍し、さはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者、長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき、青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの、義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。
【大意】 丸根、鷲津両砦を落とした今川義元が、鳴海桶狭間で昼食をとろうとすると、近所の寺社から酒肴(戦勝祝、ご祝儀)の提供があり、馬廻衆にも酒が振る舞われた。この時、織田信長は、織田軍を2つに分け、1隊(佐々隊?)に今川軍の先陣を攻撃させ、自分(織田本隊)は今川本陣を攻撃した。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885125/23

(2)前田利家はなぜ戦場にいたのか?


前田利家は出奔し、まだ許されていませんから、この戦場にいるはずがないのに、なぜいたのか? そして、本当に中島砦にいたのか?

要するに、学者は、「奇襲ではなく正面攻撃」「正面攻撃でも勝てたのは、兵数が拮抗していたから」として、『信長公記』の「今川軍45000人」を25000人、さらには10000人にまで減らしています。ところが、「織田軍3000人」はそのままで、数を増やそうと努力していません。片手落ちです。

5.「桶狭間の戦い」における松平次郎三郎元康の役割

(1)実母・於大の方との再会

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★左:東照宮大権現(徳川家康)坐像、右:伝通院(於大の方)坐像



(2)なぜ松平元康は大高城に篭城したのか。

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なぜ松平元康は、大高城に篭城したのか。

伊束法師『伊束法師物語』には驚くべきことが書かれています。

※伊束法師:「桶狭間の戦い」の時の織田信長の軍師で、「桶狭間の戦い」の時の織田方の動きには超詳しい。清須同盟の時、徳川家康を紹介されて岡崎へ移り、岡崎衆にも取材して『伊束法師物語』にまとめた。『伊束法師物語』は、主語がなかったり、説明不足だったりして難解である。『三遠平均記』は加除修正されていて分かりやすいが、松平元康大高城篭城の部分は、なぜかカットされている。
・伊束法師『伊束法師物語』
https://note.com/ryouko/n/n6899ed1341e2
・伊束法師『三遠平均記』(『三河記』とも)
https://note.com/ryouko/n/n7246fb57e8af

ちなみに、『三河物語』には、「然ると申すに、 元康の臀除(しりはらひ)を成され候ものならば、か程の事は有る間敷に、大高の城の番手を申し付けられし事こそ、義元の運命なり」(松平元康を大高城に置かずに、殿(しんがり)を任せていれば・・・)とあります。ということは、今川義元は、本陣で討たれたのではなく、本陣から逃げ出して討たれたのでしょうね。

6.『信長公記』には「史実」が書かれているが、「真実」は書かれていない!


『信長公記』が書かれたのは、江戸時代である。「桶狭間の戦い」の記述にも、

「今度、家康は朱武者にて、先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり」(今回の「桶狭間の戦い」では、徳川家康は朱武者で(朱色の鎧で身を固め、朱色の武具を持ち)、先陣として、大高城へ兵粮を入れ、鷲津、丸根砦を攻めて疲れ、人も馬も大高城で休んでいた。)

とある。「松平元康」ではなく「家康」であり、「御辛労なされたる」と敬語が使われている。

「」(藤田達生『』)

今川義元、「三河守」任官については、柳原蔵人頭(右大弁)淳光(瑞光院)の備忘録『瑞光院記』に記されていると言うが、現存しない。関東大震災で焼けたのではないかという。ただ『史料稿本』(『大日本史料』の原稿)に転記されている。

永禄3年5月8日 宣旨
 治部大輔源義元
  宜任参河守
   蔵人頭
永禄3年5月8日 宣旨
 従5位下源義元
  宜任治部大輔
   蔵人頭
  口宣2枚
  5月8日右大弁
進上廣橋大納言殿

※廣橋大納言:広橋兼秀(1506-1567)
※『史料稿本』
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1560/13-2-3/4/0063?m=all&s=0063

今川義元が三河守に任じられたので、松平元康は、今川義元に対して不信感を持ったと言うが、朝廷が、よかれと思って勝手にやったことで、今川義元にとっては、「三河守」は、現在名乗っている「治部大輔」よりレベルが低いことから、不満だったという不満だったという。つっぱねていれば、「桶狭間の戦い」での松平元康は、もっと協力的だったのではないか?

「松平元康裏切り説」と「水野信近裏切り説」については、江戸時代の古文書には書かれていないので、合戦当日の松平元康や水野信近&信元兄弟の動きから、「なぜそう動いたのか?」と推測するしか無い。

そもそも織田方の奇策(迂回)にも、太田牛一が「織田信長は卑怯にも奇策で勝った」とは書かない。書けないので迂回路については記述しないと思いますけどね。

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