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田植えはお済みだろうか?

 最近の田植えは、田植え機でやるので、見ていると面白いが絵にはならない。

 大きな神社になると、神田(斎田、早稲田)で、大音量で田植え歌を流しながら、早乙女たちが昔ながらの姿で行うので絵になる。

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 熱田神宮は大きな神社だが、市街地にあるので、田植えは、元熱田・氷上姉子神社の大高斎田で行う。毎年6月の第4日曜の10時からであるから、今年は6月23日のはずであるが、公式サイトで確認したら、なぜかに6月18日になっていた。
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/shinto/mitajinjaotauesai.html

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 まぁ、いいとして、熱田とか、大高では、昔から田植えは6月末に行うのであろうか?

 桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日。
 これは、新暦の1560年6月12日であるから、田植え前なのかな?
 「植えたばかりのイネが荒らされた」ってことは無かったのかな?

 田植えで思い出すのが、「近藤某(なにがし)」の話だ。
 大道寺友山『岩淵夜話别集』に次のようにある。

岡崎に還らせ給ひし比にや、一日放鷹にならせ給ひけるに、折しも早苗とる頃なるが、御家人近藤何がし、農民の内に交り、早苗を挿て在しが、君の出ませしを見て、わざと田土もて面を汚し、知られ奉らぬ樣したれど、とくに御見とめありて、「かれは近藤にてはなきか。こゝへよべ」と仰あれば、近藤もやむことを得ず、面を洗ひ、田畔に掛置し腰刀をさし、身には澁帷子の破れしに繩を手繈にかけ、おぢおぢはひ出し樣、目も當られぬ樣なり。そのとき、「われ、所領ともしければ、汝等をも、おもふまゝはごくむ事を得ず。汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に從ふ習なれば、今の内は、上も下も、いかにもわびしくいやしの業なりともつとめて世を渡るこそ肝要なれ。『憂患に生れて安楽に死す』といふ古語もあれば、末長くこの心持うしなふな。いさゝか耻るに及ばず」と仰有て、御泪ぐませ給へば、近藤はいふもさらなり、供奉の者ども、いづれも袖をうるほし、盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。

 竹千代(後の徳川家康)は、駿府人質屋敷(静岡県静岡市)にいたが、父の法要のため、半年間、岡崎に戻っていた時期がある。冬が終わり、春=大好きな鷹狩のシーズンになったので、早速出かけて、終日、鷹狩をして楽しんだ。ちょうど早生品種の田植えの時期で、近藤某が農民に混じって田植えをしていた。竹千代が呼ぶと、顔は洗ったのもの、服はボロボロで、主君の前に出る姿ではなかった。竹千代の人質時代、三河武士は極貧だったのである。竹千代は、「領地が広ければ、武士がこんなことをしないで済むが、今は人質なので領地をあげられない」と言って泣いたという。(鷹狩は裕福な大名でないと出来ない。現在なら、鷹は1羽30万円から(安い品種。高い品種だと60万円)あるが、飼育が大変で、鷹匠を雇わないといけない。この人件費と鷹の食費が高い。

 ──この田植えをしていた松平氏家臣の近藤某はだれか?

名もない人なので名を知らず「某」としたのか、
逆に名のある人なので、辱めてはいけないと「某」と名を伏せたのか。

 松平氏家臣の近藤といえば、近藤康用とか、近藤景春とか。
 「井伊谷三人衆」の近藤康用は、徳川家康の遠江国侵攻時の案内人で、それまでは今川氏家臣だったので、却下。(ただ、近藤家自体は勢力をのばしてきた今川氏についたものの、本来は松平氏家臣で、近藤家の家紋「鹿の角」は松平清康(徳川家康の祖父)にいただいたもの。)
 沓掛城主・近藤景春は織田方だったので、却下。(ただ、近藤家自体は勢力をのばしてきた織田氏についたものの、本来は松平氏家臣。なお、近藤家の家紋「亀甲に七曜星」は山崎合戦の戦功で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にいただいたもの。)
 竹千代が鷹狩に行っていたのは吉良だというから、岡崎と吉良の間に住んでいた無名の近藤氏でしょうね。(とはいえ、竹千代が顔と名前を知っていたのであるから、そう身分が低い人物とは思われない。)


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