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千原徹也=織部論

今年の四月、千原徹也氏の主宰する〝れもんらいふデザイン塾〟のイベントを取材した。

自由であり、個人的であり、まどろみの中にいるような心地良い空気。
理由は千原氏が醸す雰囲気にある。
───そこには〝ゆるいつながり〟がデザインされている。


千原徹也氏によるアートワーク。
目に飛び込んでくるビビットな色彩や独創的なフォルム。
それらは刺激的であるにも関わらず、千原氏の構築する空間には穏やかな安心感───〝私の話を聴いてくれる〟という安堵感がある。
実際に、つぶさに相手の言葉へ耳を傾ける千原氏の姿が印象的だった。
(もちろん講義の中で自身の哲学やプロダクトについての物語を惜しみなく話してくれてはいるのであるが)


相手の言葉を一旦受け入れ、自分のフィルターを通してみる。
そこから最適な〝記憶〟や〝思考〟や〝発想〟を導き出し、言葉にする。
決して押し付けることのないやわらかさ。

〝優しい言葉〟よりも、〝自分の話を聴いてくれる〟ことの方が相手を穏やかな気分にさせるのかもしれない。



そういった〝空間作り〟からデザインははじまっている。

千原氏の凄さはあらゆるもの(人・モノ・体験)を物語化させる力にある。
鮮やかで躍動感のあるアートワークに注目されがちではあるが(アートディレクターという職業上、当然の話ではあるが)、物語を吹き込む〝作家性〟は群を抜いている。
それは自身の人生だけでなく、千原氏の周囲の人たち(関りのある人やモノ)まで───大げさに表現すれば、千原氏の視界に映るモノ全てから着想を得ているといった貪欲さが伺える。


目の前の相手からエッセンスを引き出す天才なのかもしれない。
相手は引き出されたことに気付いていない。
というのも、それがその人にとっては〝価値のあるもの〟だとは気付いていないからだ。


千原氏からすればそれらの原料は、〝奇抜な人間〟の〝奇抜な行動〟や〝奇抜な体験〟である必要がない。
誰もが経験し得る共感性の高い要素───つまりは〝大衆性〟に意識は向けられている。


大衆性の中から光る石を抽出する。
千原氏はそれらを集めて、溶かし、混ぜ、磨き、オリジナルなマテリアルを精製する。

表層への現れ方(プロダクト)は刺激的であるが、実はその核を形成するものは〝共感性〟───意外にも、〝誰の心にも持ち合わせているもの〟なのだ。




千原氏の仕事を振り返ってみる。

スターバックスのイベント、舞台「100万回生きたねこ」、菊地凛子web、きゃりーぱみゅぱみゅの振袖デザイン、ZUCCaとのコラボレーション「ZUCCa LEMONLIFE CO.」のデザイナー、Zoffの広告、装苑の表紙、NHKガッテン!ロゴ、adidas Orignalsの店舗ブランディング、アーティストのMV、CM監督…


そのアートワークはどれも
色彩豊かで、どこかあどけなく、フラジャイルでいて、親しみやすい。

一言でいえば「かわいい」



しかし、〝かわいい〟だけではない。
千原氏の作品を見ていると〝かわいさ〟の中にジャリっとした質感を感じる。
最初、私にはそれが何なのか分からなかった。
〝かわいさ〟の中に宿る〝何か〟に違和感を覚えたが、その一瞬の質感は何事もなかったように通り過ぎていく。
文章を整理しているうちに、自分が意識の外側でその〝何か〟に未だに惹き付けられていたことに気付いた。
樽の中でウィスキーが熟成するように、あるまとまった期間を通して、私はその〝何か〟の正体が分かった。


それは〝狂気〟だ。


〝千原徹也〟の精製するキュート───その核に潜む狂気。




〝きゅーと〟と〝きょーき〟

千原徹也氏のアートワークには複数のレイヤーがある。
ファーストインプレッションは強烈に目を惹きつける〝色彩〟と〝フォルム〟が感情へ訴えかける。
二つ目に届くのは〝かわいさ〟だ。
そのフラジャイルなあどけなさが本能へ訴えかける。
そしてその奥にあるのが〝狂気〟だ。
この強い要素が観る者の脳内の記憶だけでなく、心の記憶へと刻み込む。

出典:numero.jp


〝千原徹也〟を掘り下げていく中で想起する人物がいる。
───それが、古田織部だ。



古田織部とは漫画『へうげもの』で一躍有名になった茶人。


古田織部正重然

武将でありながら千利休が大成させた茶道を継承し、大胆かつ自由な気風で〝茶の湯〟を表現した。
千利休の七名の高弟、〝利休七哲〟のうちの一人であり、さらには利休に次いで天下一宗匠という位に就き、文字通り天下一の茶人となった人物である。
織部のクリエーションのカラーから〝織部好み〟と称され、安土桃山時代に一世を風靡した。


独特のクリエーション───〝織部好み〟は利休の築き上げた〝侘寂〟における茶の湯とはまた違った味わいをもたらす。


〝へうげもの〟は〝ひょうげもの〟と読み、〝剽げる〟から「ふざけた人(モノ)」や「おどけた人(モノ)」と言った意味がある。

まさしく〝へうげもの〟とは古田織部のことで、彼のクリエーションを見ればその感覚的な〝独特の美〟を実感できるはずだ。



私は千原徹也氏の中に織部を見た。
〝へうげもの〟としてデザイン界に忍び込み、好き放題に暴れまわるトリックスター。
見立てという方法で織部越しに〝きゅーと(cute)〟〝きょーき(狂気)〟の天才「千原徹也」を論じてみたい。

残念ながら古田織部に関する資料はほとんど残されていない。
(私も山田芳裕氏の描いたこの漫画を読むまで古田織部の存在を知らなかったのだが)
それだけに謎の多い人物である。



そしてまた、この記事は《藤原ヒロシ=利休論》との太陽と月の関係になっている。


利休と織部の比較が日本の美意識の幅を物語り、さらには現代を生きる藤原ヒロシ氏と千原徹也氏という二人の天才の感性とクリエーションに新たな視点をもたらす。




Cool Japan(クールジャパン)

主に映画・音楽・アニメ・ゲームなどの現代サブカルチャーを指す言葉だ。
また、ファッションやアート、建築などのハイカルチャーを指す場合もある。

とにかく、日本の〝Cool〟な文化資源───ひいては日本独自の美意識にリスペクトを込めた言葉である。


言葉の意味的にもハイカルチャーに比べ、サブカルチャーは押しなべて価値を低く見られる(ハイカルチャーが上位文化という意味を有していることから当然ではあるのだが)。
しかし、海外からの視点はどうもハイカルチャーよりサブカルチャーに重きが置かれている。
そのことを感覚的に気付いている察知している日本人は少なくないのではないだろうか。

主にアニメやゲームに対して声高に掲げられる〝Cool Japan〟

この現象に〝違和感〟に似た驚きを隠せない人も多いはずだ。 


それは印象派というムーブメントを生み出したパリの画家たちが、輸出品の包み紙程度にしか認識していなかった〝浮世絵〟に対する日本人の価値観とよく似ている。


海外からの視点と国内での視点にはズレがある。
そういった内的な〝当然のものとして〟の感覚こそカルチャー(文化)と呼ぶに相応しいものではないだろうかと考える。
───無意識までを支配している感覚にこそカルチャーの根強さを見出す。


自国の評価は気にする必要はない。
ファッションの中で、低く見られがちのサブカルチャーを〝ハイ〟にまで押し上げたのは藤原ヒロシ氏の偉業だ。


それは〝洗練された〟という分かりやすい上質のイメージで。




利休と織部の比較。

利休の茶室や茶道におけるクリエーションは、歪みが少なく、〝静謐〟な印象を感じる。
洗練されたデザインの中に〝侘寂〟というノスタルジーを纏わせる。
コードからノイズを排除してあらゆる要素を削ぎ落していった結果、〝黒〟という色彩に辿り着いた。
全ての色が混ざり合った〝黒〟───混沌とした〝黒〟の世界に宇宙を見出す。

つまりは、内側へ〝美〟を掘り下げる(追求する)。



対照的に織部のクリエーションは奇抜さや可笑しみが特徴的だ。
独特の〝緑〟に見られる色彩感覚や柱や器に見られる歪みにも似た曲線的なライン───デザインされた〝変化〟が見る者の目を楽しませる。
静謐の〝黒〟ではなく祝祭としての〝カラフル〟なイメージ。


利休が〝静〟ならば織部は〝動〟。



「個」としての美意識の強さは同じでありながらベクトルは真逆に向かっている。
これは茶室においても顕著な違いが見られる。


利休のプロデュースした『待庵』と織部のプロデュースした『燕庵』

ほの黒く塗られた壁に溶け込むような灯り。
わずか二畳に縮小した世界『待庵』では亭主と客人の緊密なコミュニケーションが行われるようにデザインされている。
一切の景色(外界)を消し去ることで、己の心へと向かわせる空間をそこに表現した。


出典:japaneseclass.jp



「膝を突き合わすは客を苦しめる」そう言って、『燕庵』では空間に広がりを持たせ、さらに自然光を取り入れるために多くの窓を設計した。
『待庵』の直線的な柱とは対照的に、ぐにゃりと曲がった中柱にやわらかさを感じる。
解放感と劇的な明るさがクリエイティブな感性へ訴えかける。


出典:blog.livedoor.jp


利休がプロデュースした『楽茶碗』と織部がプロデュースした『美濃焼』にこそ決定的な〝美意識の差〟が表れている。


利休の指導を得た長次郎の茶碗は、無表情、無感の中に宿る充実感
〝寂〟の美学の結晶体。

出典:https://wabi-sabi.info/archives/118



〝織部好み〟と呼ばれる美濃焼。
サービス精神を旺盛に働かせて大量に茶道具をつくった美濃焼は、次から次へと技術を革新して、見て楽しく、使って面白い性格を持つ。
ファッショナブルであり、ダイナミックなクリエーションである。


出典:gotoh-museum.or.jp


出典:japaneseclass.jp


漫画『へうげもの』の中で、古田織部は自身のクリエーション、または琴線に触れるプロダクトに対して「乙なもの」と評した。


織部の美意識を語る上で───ひいては日本特有の美意識を語る上で───この〝乙〟という感覚は非常に重要になってくる。

【甲乙】
1.第一と第二。
2.二つのものの間の優劣。「甲乙をつけがたい」「甲乙を争う出来ばえ」 

(デジタル大辞泉<小学館>より)


「オツだねぇ」
とい言葉には、「普通とは違ったオモシロい味わい(趣き)がある」という意味がある。

つまり、第一級のもの(最高品)を〝甲〟とし、それよりも若干は劣るがそこにも特有の情緒がある様を〝乙〟とした。
〝甲〟は文句なしに格好良い様に対し、〝乙〟は整っていないが可笑しみ(味わい)がある様を表現している。


織部のクリエーションは〝乙〟にある。

対照的に利休のクリエーションは〝甲〟だ。
洗練されたデザインには格調高いオーラが纏う。

しかし、織部の〝乙〟なるプロダクトには別の雰囲気が漂っている。
それは親しみやすさ、あどけなさ、やわらかさ。

現代の言葉を使えば〝かわいい〟という感覚だ。




侘・寂・萌×日本の美意識。

ここに来てようやく日本の美意識の話となる。
織部は洗練された茶の湯というコミュニティに〝かわいい〟を持ち込んだ。

まずはこちらの記事で日本の美意識についてまとめているので一読してもらいたい。


この中で私は、〝不完全こそ美なり〟という概念が日本の美意識の中にあると言及した。

日本の美意識は時間経過の揺らぎにある、と。

つまり未熟なものを〝萌〟とし、完全形を迎え、さらには経年変化で崩れたものを〝侘・寂〟とする感覚。

利休の美意識は〝侘・寂〟にあるのに対し、織部のそれは〝萌〟にある。
つまり〝萌〟=〝乙〟であり、〝未完成の危うさ〟や〝稚拙な愛らしさ〟を愛でる感覚だ。


そこが明確に利休の世界観と違う点である。
そしてその概念を表す言葉は〝かわいい〟の一言に集約される。



ここで千原徹也氏のクリエーションを振り返ってみよう。

色彩豊かで、どこかあどけなく、フラジャイルでいて、親しみやすい。

〝かわいい〟の一言があれば、もはや説明は不要。


さらに千原氏は私とのインタビューの中でこう答えている。

デザイン業界にいると、偉い先生方がいらっしゃるじゃないですか。デザインの団体もある。芸大や美術の専門学校を出ている子たちはみんな「美しいものを作れ」と教わっていると思うんですよ。「洗練されていて、抜けのいい、そんな美しいモノをつくりましょう」というのが全てだと思うんですよ。

でも結局、広告やデザインをやっていて分かるのが、一般の人と距離が遠いんですよね。
洗練されたものって距離が遠くなるんですよ。 

教養のエチュード《〝きゅーと〟と〝きょーき〟より》


織部が〝乙〟なものを作った狙いは、単に〝萌〟の美意識だけでなく、安く、多くの人に使ってもらいたいという点にあった。
利用者の分母の数量を増やして、そこから価値を上げていこう、と。

そのためには〝人の手に取られやすいモノであるべき〟なのだ。

───つまり、未熟性を宿したプロダクト。


もともとデザインをやっている人というのはひねくれた人ばかりだし、「分かる人だけ分かればいい」という人ばかりだと思うんです。それ(一般の人との感覚の差)を繋ぐのが〝かわいい〟だと思っています……

 ……結局その「本格的」とか「抜けがいい」っていうのは広告の中で教わるのですが、〝+かわいい〟が入っていないと一般の人との距離が縮まらないんだと思うんです。 

教養のエチュード《〝きゅーと〟と〝きょーき〟より》


利休が巧みなブランディングによってその価値を高めたことに対して、織部は売価を下げて大衆との距離をデザインし、〝量〟によってブランディングを行なった。
ハイブランド的な稀少性と付加価値によっての戦略大量生産によって手に取りやすい価格に設定することで絶大な人気を獲得していく戦略

織部のクリエーションと戦略はユニクロのそれと近いのかもしれない。

※数々のデザイナーとのコラボレーションやスポンサーとしてのブランディングから、もはやユニクロが〝ファストファッション〟の域を飛び越えた存在であるということは明記しておきたい。
Appleがそのブランドイメージを残しながらファッション→ライフスタイルへの移行を成功させたように、ユニクロはライフスタイル→ファッションへの移行を試みている(アート的な要素を獲得しながら)。



利休が確立した〝侘茶〟の概念───〝コンセプトの茶の湯〟の芸術性は分かりにくかった(政治的な意味合いが強かった茶の湯を大衆文化へとアップデートすることには成功したが)。
内面へのベクトルにエネルギーが働くため、観る者の素養や教養がある程度必要となる。

利休が道を作った〝茶の湯〟。
形になれば、次に人が求めるのはもっと親しみやすく、分かり易い〝茶の湯〟だ。

織部は、コンセプトとしての〝茶の湯〟に未熟性───かわいさを取り入れたることで〝茶の湯〟を新たな段階へアップデートしようと試みたのだ。

織部のムーブメントは〝茶の湯の大衆化〟にこそあった。




織部が利休から受け継いだもの。

『茶道四祖書』の中に「茶の湯とは人とは違って作為すべし」という言葉がある。

利休が提唱したのは「茶の湯にはマニュアルがない」という破格の思想だった。
つまり、「力のある茶人は持ち前で、臨機応変の〝茶の湯〟を演じて良し」とした。

利休自らが実践していたように、「茶の湯にはマニュアルがないというのが、利休の〝茶の湯マニュアル〟」だったのだ。
───蓄積されたものを打ち砕くパンク精神。 

織部は伝統的な形式を守るのではなく、〝創作の茶の湯〟に耽った。


織部は利休の方法論を受け継いだのではなく、その精神性を受け継いだのである。


織部は利休と全く違うことをやっていながらも、そのような意味においては確実に利休の系譜の上に存在して、他の誰よりも色濃く利休の精神を体現してみせたのだ。


そして、千原徹也氏の〝狂気〟は、織部のこの精神と密接に繋がっていると考える。 

影響力の強固な以前のパラダイムへ〝かわいい〟を武器に壊しにかかる。
これを〝狂気〟と言わず、何を〝狂気〟と定義できようか。


千原氏のアートワークに感じるジャリッとした質感。
そこに織部のニンマリと微笑む顔が浮かび上がる。


自分らしくやれば、そうじゃないデザインができて、多分今までにない人から依頼が来るようになるんじゃないかって。だから、「自分らしくやろう」と。 

教養のエチュード《〝きゅーと〟と〝きょーき〟より》



下から上に突き上げる感覚。

織部のプロダクトは安く市場に出回ることで価値を創造した。
洗練されたもの(甲)でなく、ひょうげた、つまり〝かわいい〟要素(乙)を武器として。
織部のクリエーションは多くの人に受け入れられて初めて、価値を生み出す。

そして、広く多くの人の元へプロダクトが出回った時、大衆文化の価値を上げることに成功するのだ。
プロダクトには〝織部好み〟という独自の芸術性が込められている。
それは時限爆弾のように、ライフスタイルの中で突如として所有者の感性へ目がけ、爆発する。
しかしそのことに気付く者はほぼいない。
人は生活の中で溶け込んでいく〝かわいさ〟に知らぬうちに感染しているのだ。
静かな革命が文化の堆積となり、そこに住む人間の感性を犯していく。

内側にいる人間がサブカルチャーを価値の低いものとして評価を下す中───外側にいる人間は、そのすばらしき〝美意識〟の本質的な価値に気付いている。
モネやゴッホが自国民が包み紙程度の価値だと評価した広重や北斎の浮世絵に魂が震えるほど感動したことと同じように。 


下から上への突き上げだ。
サブカルチャー、大衆文化、共感性に価値を与えること。
それは非常に評価が難しく〝文化的時間〟という大きな流れの中で見た時にはじめて人はその偉業に気付くのだ。
振り返った時に、ようやく─── 


本当にすばらしいものは、〝畏敬の念〟を相手に抱かせない。
ただそこで、相手に微笑みを与えるくらいの小さな幸福の中にある。 



〝千原徹也〟は現代の〝へうげもの〟───〝かわいい〟を武器に大衆文化の価値を押し上げる古田織部である。



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文筆家。ラジオでも喋る仕事をしています。 れもんらいふデザイン塾講義レポート/POOL SIDE TALKレポート/秋山具義著『世界はデザインでできている』構成(ちくまプリマー新書)/#教養のエチュード賞 主催/サークル『教養のエチュードしよう』管理者
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