「野ばら 2」 / 散文
無影灯のような真夏の陽も沈み、縹色の帰り道、特急の車窓から流れて滲む街並みを眺める。
時系列を無視し、振り返るこの頃の色々。
昭和の残り香が色濃く漂う喫茶店でレモンスカッシュ。
遅がけに、豆カレーとグラスワインのランチ。
街路樹の正体について一悶着、そして拗ねる君と笑う僕。
ビルの合間にぼんやりと輝く幻日。
あの女の子の彼女が働いているというカフェ。
大柄な男子とXジェンダーな僕、そんな二人は雑踏をすり抜け、騒々しい街を早足で流しながら夕餉について話し合う。
フレンチ風なんとかの店に並び、気が変わって辺りをふらつく。
「僕的にはこういう店の方が好ましいんだよ」
そう言って鞍替えしたこざっぱりとした大衆居酒屋で、カウンターにちんまり並んで落ち着いたのだった。
「次、何飲む?」
そう訊ねる君に、
「こんなの、日本酒に決まってる」
と応じながら、改めて目の前に並ぶ料理を眺める。
稚鮎の天ぷらに鯵のタタキ。
悪びれもなく君のお酌で喉を潤し、白鹿の酒が胃を温めるみたく、二人を包む空気もいい具合に温んで柔らかに。
鯛のカマ焼きも美味かったな。
「君、二日続けて魚だけど大丈夫?」
「菜食の休日、と言ったところ」
たまにはそういうのもいいものだよ。
連休開始の前日、鶏のもも肉やブラウンマッシュルーム、夏野菜に焼き目をつけて、ホールトマトを適度に潰しながら煮込む。
ニンニクとローレルの香りを移しながら。
ベランダの観賞用と化したミニチュア菜園からは、黒キャベツとベルガモットタイム、ローズマリーにご協力頂くのだ。
一晩冷蔵庫で風味を締めておき、保冷バッグに手製ピクルスと共に封じ込めて。
既に荷物でいっぱいの鞄には、三年近く前から気になっていた桜尾ジンを詰め込む。
宮島に自生するハマゴウを用いたクラフトジンは惚れ惚れするような美しい色の硝子瓶で、君と一献、それがこの夏季休暇の企み。
数年前、急な事情で生まれ育った街から越した僕だが、君は去年の晩秋に僕馴染みの街に越してきたという。
しかもマイナーな、僕が勝手に贔屓にしていた姫神を祀る社の目の前の建物に越して来ていたわけで。
「この神社、なんて読むの?」
と君が見せた地図の表示に驚いた僕は、
(姫...)
と心の中で呟いたのであるが。
すっかり失念していた事を思い出す。
馴染みの街の姫神の社に最後に訪れた際、僕は姫神に呟いていたのだ。
普段寺社仏閣では挨拶しかしないタイプだが、何故かその時は心の内である呟きを漏らしてしまったのである。
(もしや今、あの時の答えが顕れている...?)
そう思い、数年ぶりに姫神へと挨拶に参上する。
この日の朝、何だか捨て置けない夢を見たのも挨拶のタイミングに関わっていた。
そして社は長閑なまんまで、以前と何も変わらない空気に包まれていた。
君の世界観の中で、「君はイレギュラー」から「君は破天荒」に格上げされた僕。
「でも君は、自分の気持ちに正直なんだろうなぁ」
そう呟いた君に、
「そう、そこだけには自信がある!」
そう臆面もなく寝っ転がったまま言い放ち、アッハと笑う。
そこには果敢に行くよ。
言い換えれば愚直な感じに。
その点に於いて、僕は未だpunksのまんま。
「馬鹿ッ!...君が俺を目覚めさせたの!」
割と悔しそうに笑いながら、君はそう応えて。
おはよう、降参した?
僕は端からサレンダーだ。
言い慣れ、聞き慣れた阿呆ではなく、馬鹿と言われたのは初めての事。
...なかなか新鮮な響きではないか?
自分の気持ち、自分の心に正直でないとどうなるだろうか。
果たして、もはやそれは自分なのだろうか?
文系の僕と、超理系な君が持つ物差しは違っているだろうけど、どこかに揃って示す場所があればそれで良いだろう。
ベランダから獅子座の望月を眺める。
夕方、君が虹を見付けた場所には月が輝いていた。
「満月は...何だか落ち着かなくて苦手だな」
そう呟く君を見やりながら
「大丈夫、月相的により満ちていたのは」
「昨日の月」
「そゆこと」
夜風を浴びて、月明かりに淡く照る月長石をイメージする。
眠り始めた君をよそに、愛しのハマゴウのエッセンスが散りばめられた溶液をソーダで割る。
冷蔵庫から一寸ピクルスを出してきて、望月の夜に静かの海に漂うような一献。
ウェルナーの「野ばら」は近頃頭から離れたが、「僕が、夏の暑さに飽いてふわふわと時空の波乗りをする童なら、君は高嶺の蔓ばら」と僕は密かに二人を喩えていた。
どっちも野ばらで、どっちも童な気もしてきたこの頃だが、そうなると僕はまさに野なかの、市井の野いばらで、君は高嶺の童だろう。
高嶺の童には高嶺の花がお似合いなのだ。
仮にこれが''limited-time offer"であれ、僕は僕である事しか出来ない。
何より僕は君の幸せを、君の心の幸せを願っているのだから。
ピクルスのトマトの表皮はやけに艶めいて、自身がピクルスである事に気付いていないようだった。
姫神の元へ参上した後の深更、下らない小競り合いで部屋の端々に散らばる。
しばらく時を経て、ゲリラ豪雨のような唐突さで君は愛の言葉を放った。
豆鉄砲を食らった鳩のような僕は、仄暗い部屋の隅で、何事も無かったかのように目を閉じて夢の中に転がり込む。
(名古屋人のくせに、何故か君は神戸弁だったな...)
そんなどうでもいい部分に着目しながら、言葉は言霊の響きを以て、僕の体内の水分を揺らし、細胞は振動していた。
リフレクション。
残念ながら、目覚めたら夢は全く覚えて無かったのだけれど。
道端のプラタナスを見上げながら、中途半端な時間に買い物に赴く。
「僕は今日、一寸奮発して葡萄を求めるのだ」
そう宣言して果物売り場に直進する。
手に入れた甘い巨峰を冷蔵庫に幽閉したが、残念ながらそれにしか手が出せなかったのだ。
しかし、ふと思い出した夢があった。
それは亡き父が僕に葡萄を一房買い与えてくれた夢で、その葡萄も巨峰だったのだ。
ま、良しとしよう。
君が素麺を湯掻いている間に、僕は洗面所で前髪を切る。
茹で加減はなかなかの塩梅だった。
長かったようで、あっという間の夏季休暇もお終い。
「一寸だけ飲もうか」
冷蔵庫で夏の夢を見ていた純米酒を攫い、グラスに注いだ君は、僕が切っておいた奈良漬を添える。
「...合うねぇ」
「合うに決まってる」
しみじみと、今という瞬間が刻印されてゆくのを感じていた。
車窓から覗く空色は薄藍に移ろい、真夏のハマゴウ色の夕べ。
あの日姫神の社で「自分の気持ちに正直であること」を誓ったのは、この夏の二つ目の秘密で。
文庫本片手に、電車に揺られながら色々な場面を追想したある日のこと。
居待月のメロウ。
嗚呼、夏もすっかり熟れてきたよ。