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Made in far east

2018年5~6月 中国・カザフスタン・ウズベキスタン

 中国・西安から新疆ウイグル自治区を経由して中央アジア諸国へ。寝台列車や長距離バスを乗り継いで一つの都市に数日間滞在して次の目的地へ向かう。人種と文化が折り重なるユーラシア大陸を東から西へ移動していくと、人込みに紛れていたはずの外見はいつしか目立つ存在に変わり、しだいに自分の輪郭がはっきりしていくような感覚を覚えた。

 現地を訪れたからこそ世界の広がりを感じる瞬間がある。旅先の断片をつなぐ。


中国西安

 明代に建てられた城壁の脇にあったホステルには中国、日本、ニュージーランド、タイ、ポーランドなどの旅行者が滞在していて、西安の町中に反して国際色豊かだった。

 「今日はどこに行ったの?」。2段ベッドが3台並んだ部屋でニュージーランド出身の男性3人組に尋ねると、英語なのか中国語なのか判別できない言葉が返ってきた。解せない表情を察してくれたのだろう。彼らの一人がスマートフォンの画面をこちらに向けて昼間に撮影したばかりの写真を見せてくれた。そこには地中に埋まった兵士や馬の像が映っていて、彼らが西安近郊の世界遺産「秦始皇帝陵博物院」(兵馬俑)を訪れたことを理解した。

 同宿の中国人男性に訳してもらった中国語の発音を無理やりカタカナ表記すると、「秦」は「チン」で、「始皇帝」は「シュウファンディー」。どうやらニュージーランドの3人組は、中国語と英語を交えて「チン・シュウファンディー・テラコッタ・アンド・ホース」と発音したようだ。

 彼らに限らず日本人以外の旅行者は当然のように観光地や地名を中国語読みで発音する。「西安=シーアン」はまだ理解しやすいが、同じく中国西域の「青海」は「チンハイ」で「新疆」は「シンジャン」。そのため相手の発音と頭の中の漢字表記が一致せずにコミュニケーションがつまづくことが多々あった。ニュージーランドの彼らとの会話も漢字文化を共有する日本人だからこそ感じる異文化体験だった。

 そしてなぜか「上海」は「じょうかい」ではなく日本でも中国語読みが一般化していて、一見中国語読みの「北京」は中国語では「ベイジン」なのはどうしてなのだろうという新たな疑問が生まれた。

 漢字文化を共有していることに加えて日本人と中国人は顔つきが似ている。そのため街頭や飲食店、寝台列車のコンパートメントにおいて、相手の「ニーハオ」に対して「ニーハオ」で応じると、中国語のシャワーが止まらなくなって困惑した。その度に「私は日本人です」と話してみても、発音が違うのか、相手が求めている返答とは異なるからか、覚えたての中国語が一度で通じた試しはなかった。

 「現地の言葉であいさつすると対応が良くなる」という旅行における格言は、相手がこちらを外国人と認識しているからこそ機能する。中国では「ハロー」とあいさつして「私は外国人です」と示した方が、片言の英語とボディーランゲージで意志の疎通を図りやすかった。

 ちなみに同宿の中国人男性によると、始皇帝の名前「嬴政」は「イェンチォン」、秦の都があった「咸陽」は「シンヤン」、世界遺産の「兵馬俑」は「ビィンマヨン」で、現代中国における始皇帝のイメージは武力で中華を統一した「悪い人」だと教えてくれた。

 西安の北40キロほどの秦咸陽宮遺址に足を伸ばしてみると、同時代の世界遺産・兵馬俑とは比較にならないほど観光地化されていなくて、外国人とおぼしき訪問者は私ぐらいだった。都があった小高い丘は雑草だらけで城壁の名残がわずかに確認できただけで、隣接する小さな博物館の展示資料には「白起」「王翦」「蒙恬」といった人気漫画で馴染みの名前を確認できたのだけれど英語の解説はなかった。兵馬俑が世界遺産なのは始皇帝の偉業によるのではなく、大量に出土したテラコッタとホースのおかげのようだ。

秦咸陽宮遺址


中国ウルムチ

 新疆ウイグル自治区の首府ウルムチは想像していたよりずっと“中国”だった。自治区名にイスラム教徒のウイグル族の名前を冠しているので、もっと中国文化とイスラム文化が混在しているのではないかと期待していた。頭にスカーフを巻いた女性や民族帽子を被った男性らウイグル族の人たちともすれ違った。隣国カザフスタンにルーツを持つであろう目鼻立ちがよりはっきりした人たちも見かけた。それでも市街地を行き交う大多数は漢民族だった。

 内陸部特有の羊肉料理を提供する店舗の看板は、漢字とウイグル文字を併記していた。けれど大半の看板は漢字表記のみ。ウイグル文字だけの看板を掲げる飲食店や雑貨店が軒を連ねる一角もあったが、通りの両端には空港のように荷物と人間を検査する検問所が設けられていた。人通りは少なく、出入りするのはスカーフと民族帽子の人たちだけで、ウイグル族のコミュニテーは脇に追いやられているような印象を受けた。

 検問所は市街地のいたる所にあり、ショッピングセンターに入ったりバスに乗ったりするたびに荷物を降ろしてゲートをくぐらなければならなかった。街頭に設置された監視カメラの数も多くて100メートルも歩けば3、4台のカメラに出くわした。

 ホステルで同部屋だった漢民族の男性によると、検問所や監視カメラが多いのは「数年前にテロがあったから」。彼は仕事でウルムチに滞在していて、一緒に食事やお茶に出掛けたり、独学で続けているという日本語の勉強に付き合ったりした。ただ、検問所や監視カメラを入り口に政治的な話題を振ってみても口数は少なく、どこか他人事だった。

 一方、北京で外国語を教えていたという同宿のフランス人男性は「カメラやポリスが多すぎる。ウルムチは好きじゃない」。確かに警官の数は西安に比べて段違いに多くて検問所はもちろん町中のそこかしこに立っていた。

 警官を観察していて気になったことがあった。彼らの役割は職務質問で、街頭で市民に声を掛けて身分証を確認したり、ショッピングセンターや地下道の入り口で荷物の中を調べたりしていた。ただ、私が見る限り職務質問の対象は少数民族の市民だけだった。さらにいうと声を掛けるのは少数民族出身の警官の役目で、ペアを組む漢民族の警官は横で様子をうかがっていた。ヒエラルキーを俯瞰しにくくするための現場の工夫なのかもしれない。声を掛けられた側は同胞に悪態をつきながら身分証を提示し、面倒くさそうに荷物の中身を取り出していた。

 私はといえばウルムチでも中国語で話しかけられる外見のためか、散策中に職務質問を受けることはなかった。検問所では警官と目を合わせずに形式通りに振舞っていれば素通りできた。唯一呼び止められたのは大きな荷物を転がしながらバスステーションに向かっていた時だけでパスポートを見せるとすぐに解放された。

 「漢民族には何でも吸収する力がある」。2013~14年にかけて世界各地を旅していたときに南京で出会った中国人男性の言葉を思い出した。彼は日本語が堪能で夜中まで日本や中国、チベットや韓国などについて語り合った。彼によると、かつてモンゴル族や満州族が中華を統一した際に、人口で優る漢民族と同化した結果、モンゴル族は元に、満州族は清になったという。彼はさらに「もし第二次世界大戦で日本が勝って中国全土を植民地化したら」と思考実験を展開した。「その場合、中国人が日本列島に進出して日本人の人口は半分程度になっていたでしょう」。新疆ウイグル自治区では漢民族が統治者でウイグル族は従わされる側だ。現在進行形で進む同化政策を見た気がした。

ウルムチの検問所と監視カメラ


国境超え

 国際バスの乗客は20人ほどだった。半数が中国人の中年男性、もう半数はカザフスタンとキルギスの若者だった。両者の間には溝があるようで、外見は中国人寄り、見た目年齢は若者寄りの私はどちらのグループにも属することができずにしばらくは一人で長距離移動に身を沈めていた。

 貨物を兼ねたバスは国境近くの町で積載量いっぱいの荷物を積み込むための休憩に入った。英語が話せない運転手の説明を解釈するに出発時間はおそらく1~2時間後。各グループは時間の潰し方を心得ているようでそれぞれ集合場所から離れていき、土地勘のない私はバスが見える近くの公園で過ごした。

 長過ぎる暇つぶしを終えて集合場所に戻ると最初に中国人グループに声を掛けられた。いつも通りに「私は日本人です」と片言の中国語で返したが、反応は芳しくなかった。日本人への嫌悪感をあからさまに示す中国人がいることはこれまでも経験していた。今回も同様でメンバーの一人が「日本人は嫌いだ」とでも発言したのだろう。グループ内の意志は統一され、それ以降、彼らから話しかけられることはなかった。

 片や、私が日本人であることを知った若者たちは好意的に接してくれるようになった。唯一英語を話せたのは中国の大学に通うカザフスタン出身の男子学生だけで、彼を窓口にたばこを分け合ったり、夕食の席を共にしたりした。男子学生によると中央アジアグループの総意は「中国人は偉そうだから嫌い」だった。

 中国側の国境では心象をさらに悪くする出来事が待っていた。カザフスタンの学生に事前に気を付けるようにアドバイスを受けていたのだが、ウルムチでは検問所に引っかからなかったのでたかをくくっていた。パスポートを提示して一通りのやり取りを終えると、旅行者側が「Good」や「Bad」など4段階で職員の対応を評価するアンケートを求められた。角を立てないように最高評価のボタンを押した直後だった。別室に行くように告げられた。

 別室に呼ばれたのは私とキルギス人の若者の2人だけで、同じバスの中国人たちは当然のように含まれていなかった。ノートパソコンを立ち上げることを求められて、こちらからは何をしているのか分からない角度で勝手にキーボードを叩かれたり、デジタルカメラやスマートフォンの画像データを確認されたりした。カメラの中には検問所や監視カメラの写真が残っていたので何事か追及されるかもしれないと内心ハラハラした。

 しかし、当局の職員にとってウルムチの光景は当たり前に過ぎたのかもしれない。羊肉料理の写真を一緒に確認しながら「ハオチー(おいしい)」と口に出して険悪な雰囲気にならないように心掛け、不機嫌なキルギスの若者の悪態に同調していると、20分ほどで解放された。

 過去の旅行でも国境で煩わしい思いをしたことはあった。イスラエルではテロ警戒で荷物を一点ずつ確認されたし、イギリスでは不法労働防止で銀行の預金額を聞かれた。ネパールではバックパックのポケットに入っていた絆創膏を要求されたので半ば呆れ顔で提供したし、メキシコでは手巻きたばこの袋の中に何度も鼻を突っ込んで匂いをかがれたので「ジャスト シガレット」と説明したこともあった。外国人として入国または出国するのだから国によって国境管理が厳しかったり、面倒な思いをすることは理解できる。それでもアンケート評価をさせた後で旅行者に負荷をかけるのは率直に言ってずるいと思った。
 

カザフスタン・アルマティ

 国境を越えると急に旅がしずらくなった。慣れ親しんだ漢字は姿を消し、目に入る文字はRやNが左右反転したりローマ字のWやXに1画加えたようなキリル文字に替わった。中国では鉄道駅やバス停に漢字表記しかなくても行き先を探すのは容易だったし、飲食店では「牛」「羊」「面」「飯」といった文字を頼りにメニューを類推できた。ところがここではそうはいかない。文字から得られる情報が減り、異なる文化圏に足を踏み入れたと感じた。

 カザフスタンのかつての首都アルマティの第一印象はヨーロッパだった。街並みは整然としていて代表的な観光地は寺院から教会に替わった。金髪青眼の人たちとすれ違う機会も多くなり、人種のグラデーションが格段に増した。中国では自己認識と他者認識が一致せずに困惑することも多かったが、ようやく旅行者然と振舞えるようになった気がした。

 現地を訪れたからこそ浮かぶ疑問がある。それはカザフスタンの人たちの自己認識はアジアとヨーロッパのどちらなのかということ。私の印象はヨーロッパだったけれど、この地域の総称は中央アジアだ。疑問の出発点には1991年まで共にソビエト連邦を構成していたロシアが念頭にあった。ロシアは国土を南北に縦断するウラル山脈を境に東はアジア、西はヨーロッパに分けられる。ならばその南に位置するカザフスタンはどちらなのだろうと。

 誰かに聞いてみたかったけれどカザフスタンでは英語の通用度が低かった。滞在したホステルの公用語はロシア語で、「ダー」(イエス)と「ニェット」(ノー)ぐらいしか理解できない私は、同部屋のカザフスタン人やロシア人、キルギス人たちの会話に入ることができなかった。

 それでもチャンスは訪れた。散策を終えてホステルに帰ってくると、それまで素っ気なかったカザフスタン人の男性が話しかけてきた。彼はアルマティで働きながら家賃を抑えるためにホステルで生活していて、カザフスタン語とロシア語、英語を話すことができるという。数日同じ空間で過ごしたことでコミュニケーションをとるべき相手として認めてくれたのかもしれない。まずは日本のアニメやゲームの話題に花を咲かせ、場が温まったタイミングで疑問をぶつけてみた。

 彼の答えは「俺たちはターキッシュ(トルコ系)。アジア人だ」。

 ターキッシュという言葉に蒙が啓かれた気がした。私はキリル文字やロシア語に引っ張られてカザフスタン≒旧ソ連≒ロシアのイメージを強くし過ぎていたようだ。ユーラシア大陸は広く、ヨーロッパは西の端の一部にすぎない。そもそも大陸の大部分をアジアとくくることに無理があり、ターキッシュという言葉にアジアでもヨーロッパでもない第三の答えを聞いた気がした。彼の答えは極東から訪れた観光客の画一的な視点を細分化してくれた。


ウズベキスタン・サマルカンド

 10代後半の2人組の女子を追い越そうと並びかけたときだった。片方の女の子がこちらを横目で確認した瞬間、「ウワァオ」と驚声を上げながら後ろにのけ反った。彼女の目はまるでアイドルにでも会ったかのようにキラキラしていて、誰か有名人に間違えられたのかと思った。しばらく並んで歩き、英語なのかウズベキスタン語なのかロシア語なのか判別できない言葉で話しかけられたのだけれど、理解できたのは「日本人か?」ぐらいで、彼女がどうしてそんなに興奮しているのかは分からなかった。もう一方の女の子は会話に参加してこなかったが、友達の驚声の理由を知っている様子で、こちらにまっすぐな視線を送っていた。曲がり角に来たので、私は自分の進行方向を指さして「バイ」と手を挙げると握手を求められ、2人の手を順に握って別れた。

 ウズベキスタン随一の観光都市サマルカンドで受けた歓待はこれだけではなかった。「アッサローム」「ハロー」「こんにちは」。たまに「アニョハセヨ」。町中を散策しているだけで次から次に声を掛けられた。こちらもあいさつを返すと「日本人か?」「ロシア語話せるか?」と会話が始まった。いつの間にやら写真撮影会に発展することもしばしばで、若者や家族連れ、お年寄りらと肩を並べてスマートフォンの画面に収まった。こちらがカメラを向けても快く応じてくれる人ばかりで、シャッターを切るたびにポーズを変える子供たちや、「私の写真を撮れ」と催促するおばあちゃんもいた。歩き疲れていたときには「もう勘弁してくれ」という思いを込めて「ハーイ」と手を挙げるだけで通り過ぎなければならなかった。

 海外で話しかけられた場合、まずは疑ってかかるのが鉄則で、日本語だったときはなおさらだ。しかし、サマルカンドではそんな警戒心は杞憂だった。滞在した宿のスタッフに、昼間出会った人たちがいかにフレンドリーだったかを説明すると、サマルカンドには外国語大学があって特に東アジアや東南アジアの観光客を見かけると学生たちが頻繁に声を掛けるんだ―と教えてくれた。

 日暮れ時にサマルカンドを代表するレギスタン広場に足を運ぶと、ライトアップされた建物の前で学生たちが夕涼みをしていた。ここでも私は人気者で、日本語を勉強中で翌年に日本に留学するという学生3人に囲まれて実践会話の相手役を務めた。日本語を学び始めたばかりでほとんど意思の疎通が図れないにもかかわらず「日本人と話したい」という熱意だけは伝わる青年にも対応した。

 なるほど若者たちから声を掛けられる理由は分かった。ただ、これだけでは子供やお年寄りの人懐っこさは説明できない。ウズベキスタンの首都タシュケントや世界遺産の観光都市ブハラのホスピタリティーはそれほどでもなく、サマルカンドのそれは中央アジアの他の都市に比べて群を抜いていた。

 彼ら側の理由は数日滞在しただけの観光客には分からなかった。ただ、こちら側の理由は分かる。ウズベキスタンはイスラム教文化の濃度が濃くて、中東よりの外見の人たちが多かった。ここでは人込みに紛れるのは難しく、私は完全に外国人だった。

 一口に中央アジアといっても一様ではなく、大陸には人種のグラデーションが分布していて、文化のレイヤーが折り重なっていた。

サマルカンドの子供たち



スタローヴァヤのサリャンカ

 ウズベキスタンの後はカザフスタンの首都アスタナを経由してロシア、ウクライナを巡った。

 旧ソ連圏のこれらの国にはスタローヴァヤと呼ばれる大衆食堂があり、地元客に交じって毎日のように利用した。テーブルの上やガラスケースの中に並んだメイン料理やスープ、サラダ、パン、ライスなどを順にお盆に載せて最後に会計するセルフ式なので、キリル文字が読めなくても直接見ておいしそうな料理を選ぶことができた。

 カザフスタンのスタローヴァヤでは文字を読めないがゆえの不思議な体験をした。いつも通りに料理を選んで会計に進むと、店員がスープボウルを指さしながら「それは何?」と聞いてきた。私は3種類の中から1つを選んだだけ。これまでなら店員がお盆の上の料理を判断してレジを打ち、私は表示された金額を支払うだけだった。まごつく観光客をみかねたのだろう。後ろに並んでいた中年男性が「サリャンカだ」と代弁してくれて難を逃れることができた。

 サリャンカを簡単に説明するとミネストローネにキュウリのピクルスと漬け汁を加えた酸味の利いたスープ。ボルシチと並ぶ旧ソ連圏の名物で、その名前は知っていた。ただ、この時は特に考えもなく指さし注文しただけだったので「これがサリャンカか」と後になって気付かされた。地元客が集う食堂で名前が分からない料理を食べようとしていたのは私ぐらいだっただろう。見様見真似で同じように列に並んでいてもちょっとしたアクシデントで文化を共有していないことが浮かび上がり、注文後に料理名を知るという文脈のあべこべさに妙に感じ入ってしまった。

 この経験がなければ「サワークリーム(どんな料理にも添えらえる)の入った酸っぱいスープ」といった感想しか抱かなかったかもしれない。でも不思議なもので、名前が分かり、名物であることを知ると、その由来を調べて二日酔いに利くという豆知識を得たりして、サリャンカは私の中で特別なスープとして思い出に残った。

 カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、ロシア、ウクライナ。キリル文字文化圏で2カ月ほど過ごしていると、ただの記号でしかなかった文字もなんとなく読めるようになってくるもので、文化圏をまたいだ当初の違和感は幾分緩和された。「サリャンカ」「ボルシチ」「ピロシキ」「ビーフストロガノフ」。それでも目の前のキリル文字と頭の中のカタカナ・ロシア語が一致することは稀で、大部分の単語は読めても意味が分からないのでそれほど役に立たなかったのだけれど。


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