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エロスとタナトス、私が感じる「死」

「でも、表に行ってみたって、べつにすることもないし.........」

「歩けばいい!」

「歩くって......?」

「そうさ、歩くんだよ.......ただ、歩き回るだけで、充分じゃないか.......そういう、あんただって、僕がここに来る前は、自由に出歩いてたんでしょう?」

「でも用もないのに歩いたりしちゃ、くたびれてしまいますからねぇ.....」

「ふざけているんじゃない!ようく自分の心に聞いてみなさい、分からないはずはないんだ!........犬だって、檻の中に入れられっぱなしじゃ、気が狂ってしまうんだからね!」


戦後まもない時期、数々の名作を残した安部公房の最高傑作と呼び声高い「砂の女」。


海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められ、考えうる限りの手段で脱出を試みる。

穴の中での生活は、ただ日々砂かきをこなして体力を消耗しては、しばし休憩や貧相な食事をはさむだけ。

非常に退屈で鬱屈しているが、女はそんな生活に疑問すら抱かず受け入れている。

どうやらその集落ではそういった生活様式がデフォルトなのだ。


私が生きている世界の写像だ。
そしてあらゆる芸術家や文学者が感じ、表現してきた普遍的テーゼ。

虚無なサイクルを、それとして受け流すのが、大衆、集合知が出した答えなのだろうか。

私はときどき、仲の良さそうなカップル、楽しそうにはしゃいでいる若い集団、仲間といきいき働いている服屋の店員、個展を開き、来場者と話し込む芸術家の端くれ、ストリートミュージシャン、そのようなものを目にしたとき、また、自分が友人や好きな異性と他愛もない幸せな時間を過ごしているとき、私が死んで、肉体を持たない魂だけの存在になったときにこの光景を見たら、きっと、涙するんだろうなと思うときがある。

「この音」を聴いている時、僕は僕の生が無限であることを知ります。しかし、それでも僕は怖いのです。無限が怖いのではなく、肉体の有限が怖いのです。残念ながら今の僕は肉体そのものが魂なのです。自由自在に宇宙の彼方まで飛翔する霊魂よりも、このガンジガラメの不自由な肉体の方を愛しているからでしょう。


横尾忠則ほどオカルトな芸術家は、やはり興味深い。

これはインタビューから一部抜粋したもので、「この音」とは、サード・イヤー・バンドの楽曲の事を指している。

仏教的な輪廻転生を軸にした死生観、横尾忠則自身、魂に刻まれた前世の死の記憶があるそう。
そして、死ぬたびに「この音」が聴こえてくるのだそう。

肉体は消耗品で、やがて終わりを迎える。
しかし、魂は不滅で永遠のサイクル。
まるで、砂かきを続ける砂の女そのもの。

死んだ後でもできることを、肉体を持って「生きている」あいだにする必要などあるのだろうか。

では、肉体を持って「生きている」あいだにしかできないこととは何だろうか。

少なくとも、砂かきは、たしかに肉体を持っていなければ出来ることではないが、わざわざ僅かな生の大半をあてがってまでする行為ではないように思われる。

私が魂だけの存在になったときに見て涙する光景は決して、闇雲に砂かきをしている姿ではないことだけはわかる。

きっと次に生まれるときは宇宙人なのだろうから、今回のこの地球上での生は、砂かきの他の何に捧げようか。
そう考えることを面白がれる人材には、ささやかなキャンディを渡したい。

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