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読書の意義と殺された意思【華氏451度】

読書という習慣は死んだ。

代わりに、趣味としての読書という行為が生まれ、特定のコミュニティの中でしか情報交換されない閉ざされたカテゴリーとなった。
そう言わざるをえない。

しかし読書習慣を斡旋する社会ムーブメントは依然として様々な場所で行われていて、例えばスターバックスが併設されたTSUTAYAなんかに行くと、そこでコーヒー1杯でも頼めばTSUTAYAの書店に並んでいる本を自由に席に持ち込み、優雅なコーヒータイムのお供として好きなだけ読むことができるといったサービスを施している店舗があったりする。

社会の側は読書に対してなかなかに開かれているのだ。

問題なのは我々国民である。

長い文章を読むという行為そのものが苦痛になりつつある一般的現代人の集中力はショートムービーへと向けられ、コンテンツの制作者と消費者の距離がいささか近づいたSNS世代の娯楽は、モノローグ文化からダイアローグ文化への転換点を意味するように感じる。

「華氏451度」はレイ・ブラッドベリが1953年に書いたディストピアSF小説だが、こんな現代でこそよりわかりやすい意味を持った作品になってきたのではないだろうか。


内容をざっくり説明しておくとこうだ。

情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。そこでは漫画以外の本の所持が禁止されており、発見された場合はただちに「ファイアマン」(fireman、焚書官または昇火士)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕される。(表向きの)理由は、本によって有害な情報が善良な市民にもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためだとされている。密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。だがその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた。というものだ。

読書はつねにモノローグ的だが、それにとってかわるダイアローグの共和圏、語りかける環境だけになった社会というのはなんとも恐ろしいとするブラッドベリの主張は、現代でこそより痛感させられるのではないだろうか。

先進国でのデジタル化の発展、中国の監視ネットワーク網とそれに基づくホロコースト状態。
デジタルと人間の関係が不穏な空気を漂わせるなか、警鐘を鳴らすが如くジョージ・オーウェルの「1984年」が近年よく取り沙汰されている印象だが、むしろ現代の先進国においてより懸念すべき社会モデルはこの「華氏451度」の世界なのではないかと私は思う。

この物語に登場するフェーバー(書物の所持が禁じられている社会を憂いている元教授)という老人の台詞にこんなものがある。

「書物は、われわれが忘れるのではないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたちにすぎん。書物には魔術的なところなど微塵もない。魔術は、書物が語る内容にのみ存在する。書物がいかに世界の断片を継ぎ合わせて一着の衣服に仕立てあげたか、そこにこそ魔術は存在する。」


表面をなぞるだけの読書体験に意味はなく、本質が眠っているのはその内容そのものであり、読書を通じて自分自身が書物になるということが真に意義深い活動なのである。

人類が忘れてはいけないこの意義深い活動を、その魔術を、我々はどのようにして取り戻すことができるだろうか。

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