【死とは何か】死を免れない私たちは、どう生きるべきなのか?[完全翻訳版]〜超要約〜
まさかの 約1万6千字 の超大作になってしまいました。
長すぎて読めないという方も多いかもしれないので、もし音声(動画)コンテンツにしてほしいという要望があれば、ぜひ「スキ」を押してください。
全編無料でお届けしていますが、もし満足いただけたら、記事の文末にある「サポートをする」のボタンより投げ銭をいただけると嬉しいです。
どうも、読書家ブロガーの「りょうかん」です。早速やっていきましょう!
\人気書籍を超要約!!/
『死とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』の完全翻訳版編〜〜!
死の哲学!マジ長い!
はい、というわけで、人気動画チャンネル『中田敦彦のYouTube大学』の冒頭っぽい感じで始めてみました。気づいたよ〜って方は、ぜひ高評価(スキ)とチャンネル登録(フォロー)をよろしくお願いしますww
さてさて、いよいよやってきました。2019年の大晦日からやるやる詐欺をしていた こいつ の要約をする日が…!! いやー、怖い。
なにって、この分厚さですよ!?
思わず「辞書かよ!」ってツッコミ入れたくなる…。なんやねんこれ・・・
ちなみに、全部で何ページぐらいあるか予想つきますか?
想像したくもないですかね?(わかります、僕も知りたくなかったです)
全部で「750ページ」ですよ! 750ページ!!
一般的なビジネス本の平均がだいたい250ページぐらいなので、単純計算で「3冊分」ぐらいの文量があるのかな。
こんな本を出版するなんて、、、どうかしてるぜ!!
【余談】話はいきなり脱線するんですが、、、
約半分程度の日本縮約版も出版されています。この縮約版は 耳で聴く読書『Audible』 でも読むことができるので、750ページの完全翻訳版を読むのがしんどいという人はこちらも試してみてください。(初回登録で最初の1冊は無料になります…!!)
本題に戻ります。
ぶっちゃけた話、本自体はマジで面白かったです。
「読み始める勇気」と「読み進める気力」は必要ですが、思っていたよりかは読みやすく、読み終えたときの清々しさも他の書籍とは段違いでした。
内容自体も、表紙とタイトルの印象だと「スピリチュアル系かな?」「宗教的な感じかな?」と思いがちですが、実際はビックリするほどロジカル思考で理論を最後まで積み上げて展開しているので、どちらかというと『数学の証明を読んでる』という感覚に近いかもしれません。
著者の シェリー・ケーガンさん (Shelly Kagen) は、イェール大学で【道徳哲学】を深めている教授で、この本には、シェリー先生が着任以来20年以上やっている講義の内容がまとめられて書かれています。
その講義のテーマが「哲学的思想で “死” を考える」なので、本書のタイトルも『DEATH / 死とは何か』という仰々しいものになっているというわけです。
で、大学の「講義」がベースとなっているということで、本書の構成も「全15講」という形になっており、おそらく半年間(1セメスター)で実施される全15回分の授業を講ごとにまとめているんじゃないかなと。
そして、この本の最大の特徴は、死をテーマにする他の書籍とは違い、全体を通して「シェリー先生が自身の “死” に対する考えを読者に納得してもらえるように努めている」という部分です。自分の考えをできる限り理解してもらうために(哲学的思考を使いながら)徹底して論理的な説明をしている。
しかも、「頑張って納得してもらえるように試みるが、僕の考えに同意してもらうことが目的ではない。肝心なのは、あなた自身が自ら “死” について考えることだ」、なんてことまで言っているんです。
ぶっちゃけ「なにそのスタンス!??」って思いません??(笑)
僕はそのスタンスがあまりに面白くてカッコいいから、思わず「シェリー先生……あなたは最高のプロフェッサーだ!!」って叫んでしまいました(笑)
じゃあ、その「シェリー先生の考えってなに?」ってところが気になってきますよね?
「死んだらみんな極楽浄土に行けるって話かな〜」
「輪廻転成するから清く生きようって話かもな〜」
みたいなことを想像してると思うんですが、まっっっったく違います。
シェリー先生が本書で主張する考えは、
① 魂は存在しない
② 不死は良いものではない
という、この2つ。
大事なことなのでもう一度。
① 魂は存在しない
② 不死は良いものではない
思わず「そっちですか!??」という声が聞こえてきそうな主張です。
まあでも、同意しろという話ではないのでね。「ひとつの意見としていっちょ聞いたるか!」という気持ちで読んでもらえたらいいのかなと。
というわけで、前置きが長くなりました。
ここから本題の「要約」に入っていきます。
大筋の構成をザッとまとめておくと、
1.「死」とは何か[死の定義]
— 1-1. 人間(私)とは何か
— 1-2. 魂は存在するのか
— 1-3. 人格の同一性について
— 1-4. 人間は「いつ」死ぬのか
2.「死」は悪いのか[不死の是非]
— 2-1. 死の何が悪いのか、なぜ悪いのか
— 2-2. 本当に「不死」は望ましいのか
3.我々はどう生きるべきなのか[生の価値論]
— (自殺の是非)
という形で要約をしていきます。本書の各講と完璧に同じではないですが、目安として、下記のような形で対応させています。
1.死の定義 → 第1講〜第9講
2.不死の是非 → 第10講〜第13講
3.生の価値論 → 第14講〜第15講
なるべく端的にまとめようと思っていますが、それでも元々の文量があるだけに長文となってしまったので、備え付けの「目次」を使って興味ある部分だけを読むことをオススメしておきます。
≫≫ ここからが本文です ≪≪
1. 死とは何か [死の定義]
まず、シェリー先生は、論理的(哲学的)に「死後の生」の考察に挑みます。
「死後の生」とはすなわち、「私が死んだあとも “私” というものが存在し続ける可能性はあるのか?」という疑問です。
この問いに対して明確な答えを出すためには、下記の2つの疑問点をはっきりさせる必要があると言います。それは、
疑問点① 「人間(私)」とはどういうものか
疑問点② 死後に存在するのは「私」なのか
というもの。正直、この時点で「そんなところから議論を始めるんですか…??」と呆れてしまう人もいると思います。
なんなら、シェリー先生自身も「死後の生の有無なんて、少し考えれば答えは “ノー” になることはわかりきっている」と語っているほどです(笑)
ただそれでも、真っ当な【哲学者】として、そこから議論を進めたいと。
というわけで、まずは最初の【人間 (私)】の定義に挑みます。
— 1-1. 人間(私)とは何か
最初の「人間(私)とはどういうものか」という疑問について考えていきましょう。(ちなみに、私の定義のことを哲学の専門用語では「人間の形而上学についての疑問」というらしいです)
この疑問に対して、基本的に2つの立場があると言います。それは、
立場①「二元論」 :人間=身体+心(魂)
立場②「物理主義」:人間=身体
の2つです。どちらも割と一般的な考えでもあるので、イメージはつきやすいかなと。(ここで言う 身体 とは、「物理的なモノ」としての身体です)
要するに、この2つの立場は、人間に【魂】があるのか、という部分によって主張が分かれていることになります。
ということで、人間(私)を定義するためには、【魂】の存在を議論する必要があるというわけです。
— 1-2. 魂は存在するのか
皆さんは【魂】の存在は信じていますか??
冒頭でも紹介したように、シェリー先生は「魂など存在しない」という主張を持っています。
ですが、哲学者のプライドを賭けて(?)、本書でも計8パターンの「魂の存在証明への挑戦」をしています。詳しい内容は割愛しますが、中には、二元論者(魂は存在する)の主張の方が優位に感じるものや、物質主義者(魂は存在しない)という主張に矛盾がある点など、客観的な指摘を繰り返しているのが印象的でした。
とは言え、あらゆる考え方で魂の存在証明に挑んだ結果、「魂は存在する」とも「魂は存在しない」とも断ずることはできないという切ない事実が浮かび上がってきます、、、。
また、二元論者でもある哲学者デカルトの主張に対しても、真っ向から議論をして反論をしています。
それらを踏まえて、シェリー先生は【魂の存在】について、こう結論をまとめました。2つほど引用します。
\シェリー先生の結論①/
私は、二元論のためにこれまで考察してきたさまざまな主張は、少なくとも現状ではうまくいかないと結論する。
いつの日か、その結論が変わるかもしれないことは言うまでもない。将来私たちは、何か説明する必要がある事柄を証明するとしたら(あるいは、最善の説明を提示するとしたら)、魂を持ち出す必要が本当にあると判断するかもしれない。
だがいずれにしても今の時点では、私の見る限り、最善の説明を導く推論を持ち出す主張はどれ一つとして、魂の存在を前提とする説得力ある理由を提供してはくれない。
\シェリー先生の結論②/
私の見る限りでは、魂(身体から切り離された別個の無形物、意識の在り処)の存在を立証しようとする試みはすべて、けっきょくは成立しない。そうした主張はみな、最後には不首尾に終わる。
したがって、私が到達した結論は懐疑的で、魂の存在を信じるべき真っ当な理由はまったくない、というものだ。私たちは二元論を退け、物理主義を受け容れるべきだ。
つまり、現時点では「魂は存在する」と信じるに値する主張がないため、いずれ考えは変わるかもしれないが、今は「魂は存在しない」と信じる、ということです。
たとえば、科学の進歩によって「魂」の存在を認めないと説明がつかない事柄(例:幽体離脱など)が出てくるかもしれません。そうなる可能性ももちろんあり、その時にはシェリー先生も考えを改めるでしょうが、今の段階でわかっている範囲で結論を出すならば「魂は存在しない」という主張になってしまう、というわけですね。
【余談】魂の不滅性について、、、
本書内では「もし魂が存在するなら〜」という議論も展開されており、そのひとつに「魂は本当に不滅なのか?」というものがあります。
この議論では、哲学者プラトンの『イデア論』を引き合いに出てきて、「魂は下記のような特徴を持つ【= 形相 (ケイソウ)】であるために不滅である」、という主張が展開されています。
【形相の特徴】
・存在するが見えない
・永遠であり変化しない
・非物理的なものである
これに対するシェリー先生の反論も本書では書かれており、個人的にはめちゃくちゃ興味深い議論でした。気になる方はぜひ読んでみてください。
— 1-3. 人格の同一性について
ここまでの内容で、疑問点①の「人間(私)とは何か」についての議論が終わりました。シェリー先生の結論をザッとまとめると、
魂の存在に信じるべき根拠がないため、二元論(人間=身体+魂)を退けて、物理主義(人間(私)=身体)を採用する。
という感じでしょうか。
続いて、「死後の生」に対する2つ目の疑問点に移りましょう。
疑問点① 「人間(私)」とはどういうものか
疑問点② 死後に存在するのは「私」なのか
この疑問(死後に存在するのは私なのか)を言い換えると、
「死後の私は今の私と同じであるとはどういうことか」
という問いに答えていくことと言えます。
もっと噛み砕くと、「今日の自分と明日の自分を同じ人物だと認める根拠は何か」ということでもあります。
これを哲学者は『人格の同一性』の問題と呼ぶそうです。
この『人格の同一性』を認めるポイントとして、下記の3つの説があると言います。
・魂説(魂が同じなら同じ人物である)
・身体説(身体が同じなら同じ人物である)
・人格説(人格が同じなら同じ人物である)
正直、3つ目の『人格の同一性の人格説』は言葉の定義がややこしいですが、それを説明すると余計にややこしくなるので、とりあえずそういうものだと思ってください(笑)
で、気になるのは「じゃあどの説が有力なの?」ということ。ひとつずつ少しだけ説明していきます。
【魂説】
シェリー先生は「魂は存在しない」という論者なので、この説はそもそもあり得ないですが、それでも魂がある場合についても考察をしています。この説を採用する上での最大の障害は「魂が入れ替わったことに気づけない」というものです。つまり、魂は目に見えなくて確認もできないので、身体と人格が同じままで魂が入れ替わった場合に、他人だけでなく本人ですら気づくことができません。もしこの説を受け入れるならば、今と次の瞬間で魂が入れ替わっている可能性を受け入れなければならなくなります。もうそうなると「私」の存在自体を常に疑っていなければならなくなりますね・・・。
【身体説】
身体さえ同じであれば私は私である、というのがこの説です。よくアニメやSFの設定である「身体が入れ替わってる!」で考えた場合には同じ身体を持っている方が私である、ということになります。ただ、この説の難点は『身体のどこを私とするか』ということです。つまり、手足胴体がバラバラにされた場合、すべての部位が “私” なのか、それとも一部が “私” なのか。最も最善の選択肢は「脳」を身体の重要なパーツとする考えですが、これも考えだすと深みにハマっていきます・・・
【人格説】
同じ人格を持っていれば同じ人物だと認めよう、というのがこの説になります。身体説でも例に出した「身体が入れ替わってる設定」で考えると、同じ人格を持つ人を “私” としていることが多いような気がするので、3つの中では最もらしく聞こえます。ただ、人格説にも「人格は変わりうる」という弱点があります。今日と明日ぐらいの時間軸では大きく変化しないでしょうが、10歳・50歳・100歳と考えたときには、まったく同じ人格のまま成長したと言える人は皆無だと思います。そうなると、10歳の自分と50歳の自分は別の人物である、ということになり・・・
これを読んで、皆さんはどう感じましたか??
一応シェリー先生の結論を紹介しておくと、
\シェリー先生の結論/
魂説は言わずもがな否定するが、「身体説」と「人格説」のどちらが優れているか(選ぶべきか)については確信が持てない。
ということです。この結論に到達するために、さまざまな角度から検証&思考実験を行っていましたが、それでも、どちらかの優位性を明確に示すことはできませんでした。
ただ、おそらくこの議論を読みながら、多くの人がこう思ったはずです。
どうでも良くない??
僕自身も読みながら「議論自体は興味深いけど、この議論は本当に必要なのか・・・?」と半分ぐらい呆れてました(笑)
すると、まさかの文章が飛び込んできます。引用しましょう。
この件に関しては、自分にできる哲学的な主張はすべて述べ尽くしてしまった。だが、あと一つだけ、考察に値する点がある。
私は、「人格の同一性」のカギは何かに関して、身体説は最善の見方かもしれないと思いたい気がするとはいえ、そんなことはどうでも良いと思いたい気もしているのだ!
私たちはずっと、「私が生き延びるのには何が必要か」という疑問を投げかけてきた。
たが、ここで言いたい。じつは、それは私たちがこれまでずっと考え続けてこなければならないような疑問ではなかったのかもしれない、と!
えーーーーーーッッ!!!
い・ま・さ・ら・かーい!
これ、369ページから370ページにかけて書かれている文章なんですが、約半分近く読み進めた先でまさか
「そんなことはどうでも良い」
「考え続けなければならないような疑問ではなかった」
と言われるとは思いもしませんでした……(笑) シェリー先生、、、(笑)
で、このように続きます。
私たちは、生き延びるためには何が必要かを問うべきなのか?
あるいは、生き延びる上で大切なのは何かを問うべきなのか?
つまり、
「死後の生」について考える必要なんてなくない??
考えるべきなのは「死ぬまでどう生きるか」でしょ!
と、急にちゃぶ台をひっくり返してきたんです。
このときの衝撃は忘れることができません・・・。
マジで「これまでの議論とはいったい……」と呟いてしまいました(笑)
そして、「どう生きたいか」という問いに対するシェリー先生の答えは、
今の私と同じような人格を保ち続けられたらそれで良い
っていう…(苦笑)
私という人格が、身体によって定義されるのか、人格によって定義されるのか、はたまた魂によって決められるのか、正直どうでもいいことにで、何によって定義されたとしても「今の私と同じような人格を保てる」のであれば何でもいいのさ、と。
いやマジで、これまでの議論は何だったんだ説。←
【余談】魂説を認める可能性が、、、
シェリー先生が行っていた思考実験の中に、『分裂』と『複製』の議論があったんですが、これが実に面白かったです…!!
たとえば、身体が分裂するとしたらどうなるでしょう。これは現実不可能な気もしますが、SF的な仮説として「脳は半分あればすべての機能を維持できる」とした場合、理論上は身体(≒脳)をアメーバのように2つに分裂することが可能になります。この場合、身体が2つ存在することになるため、身体説を採用する人はそのどちらを “私” と認めるべきなのか。議論は割れることでしょう。
また、人格が複製できるとしたら・・・? この仮説は(現時点では無理でも)科学の進歩によっては実現可能になる確率も低くないかもしれません。その場合、同じ人格を持つ人が、2人と言わず複数人同時に存在することもあり得ます。すると、誰が本当の “私” なのでしょうか。はたまた全員 “私” と認めるべきなのか? 僕には答えがわかりません。
で、この議論で特に面白いのが、『身体(脳)の分裂は可能』となれば一度否定された「魂説」の復活可能性が出てくる、という部分です。つまり、脳の右半球と左半球を別々の身体に移植した場合、魂説が正しいのであれば、魂は分裂しないため「片方しか目覚めない」という結果が出ると想定されます。もちろん現代の医療では実現不可能ですし、実現可能だとしても倫理的にその実験が許されることはないと思われます。が、その魂説を認めざる得ない可能性が生じるということ自体が、めちゃくちゃ面白い議論だなと(笑)
— 1-4. 人間は「いつ」死ぬのか
衝撃的な大どんでん返しがありましたが、議論を正常運転に戻します。
ここからは、「死ぬこと」の掘り下げに入ります。
まずは、『人間はいつ死ぬのか』という議論から。
この問いをもう少し噛み砕いて説明すると、
人間には
P機能(人格/パーソン)
B機能(身体/ボディ)
の2つの機能が備わっているんですが、このどちらが停止した時点を「死」と定義するか、という議論です。
通常は、P機能とB機能は同時に停止します。
が、稀に「P機能が先に停止して、時間差でB機能が停止する」ということが起こり得ます。いわゆる植物状態のような形です。
つまり、本人には生きている自覚も認識もなくなっており、生きたい or 死にたいという欲求すらなくなっているが、心肺機能は正常に動いていて脳死もしていない状態。
これは果たして「生きているのか?」「死んでいるのか?」どっちなのか。
皆さんはどう思いますか??
この議論には、先ほどの「人格の同一性」が関わってきます。
要するに、『人格の同一性の身体説』を採用するか、『人格の同一性の人格説』を採用するか、どちらを選ぶかによって、死の定義も変わってくるというわけです。
ただし、どちらを選んでも矛盾が生じることを先にお伝えしておきます。
もし『身体説』を採用する場合、
人格(私)は存在しない(=死んでいる)のに、私(身体)は存在している(=死体)、という謎すぎる状態を認めざる得ません。
また、『人格説』を採用した場合、
人格(私)は存在しない(=死んでいる)が、身体は生きている(=P機能だけ止まった状態)、というこれまた不思議な状態を定義しなければいけなくなります。
正直、この議論については『人格の同一性』の結論が出ていない以上、明確な答えを出すことが不可能です。
そこで、シェリー先生は、「人間はいつ死ぬのか」という問いに対する回答として、
\シェリー先生の結論/
P機能を行う能力を失った時点で「人格を持った人間」ではなくなる。
B機能を行う能力も失った時点で「身体の死」となる。
ただそれだけのことである。
と結論をまとめました。
この答え方であれば、身体説/人格説のどちらを採用したとしても、それぞれの説における「人格(私)」の定義に従って「死のタイミング」も決められる、というわけです。
【余談】寝ている時も死んでいる!?
もし『P機能が止まったら死である(=人格説)』を採用してしまった場合、さらに不都合な状態が起こり得ます。それが【夢を見ずに寝ているとき】です。つまり、脳は休んでいる状態で物事を自発的に考えることをしていない(=P機能が停止している)状態であるため、その瞬間は死んでいることになってしまいます。その不都合を消すために『P機能が永久に停止したら死である』と定義したとしても、“永久に停止する” とはどのタイミングで判断するのか、という疑問も生じてしまい、死んだ瞬間に死を判別できない(もしくはP機能の再起する可能性があると永遠に死んだことにできない)という問題も発生してきてしまうというわけ。議論の沼が底なしすぎる・・・
2. 死は悪いのか [不死の是非]
これでようやく前半(死の定義)が終了です。
ここまでを踏まえた「シェリー先生(物理主義者)の考え」をまとめると、
人間は、とても素晴らしい芸当(P機能)を持っている「ただの物体(身体)」である。「死」とは、単に身体が壊れることであり、その結果として重要な機能(P機能&B機能)を失うことでもある。
という感じでしょうか。
この定義のもとで、本当に「死は悪いものか」「不死は望ましいか」という議論に移っていきます。
— 2-1. 死の何が悪いのか、なぜ悪いのか
シェリー先生の唱える通り「人間(私)は身体(物体)」であるのであれば、死んだところで死んだあとの「私」は存在しないので、悪いもクソもないように感じます。
であれば、「死の何が悪い」のでしょうか??
もしかすると、「死んだ本人にとっては悪くなくても、残された人にとっては悪いのだ」という意見もあるかもしれません。つまり、その人と交流できるはずだった機会をすべて奪われてしまうことは、どんな状況であれ悪いことだというわけです。これはなんとなくその通りな気がします。
ですが、シェリー先生はこのようなパターンを問いかけます。
「別離より死別の方が悪いと感じるのはなぜですか?」
ここで言う「別離」とは、
たとえば、友人が宇宙船に乗り込んで遥か彼方の恒星探査に旅立つとき。その友人は長い年月をかけて宇宙を旅するため、次に地球に戻ってくるのは100年後になる(特殊相対性理論により光速ほどのスピードで移動する友人は地球にいるより年を取らない)としましょう。そして、打ち上げから20分後には宇宙船との交信が途絶えてしまうような場合のことを言います。
つまり、相手は生きている(死んでいない)けど今後一切の意思疎通の機会が奪われているような状況です。それはそれで悲しいですが、死ぬよりは悲しみが少ないような気がしませんか?
さらに考えを深めます。
もし友人を乗せて遥か彼方の恒星探査に向かっている宇宙船が、打ち上げから1時間後に爆発し、乗組員全員が即死してしまっていたら・・・
つまり、別離の状態から「死別」に至った場合、きっと多くの人は、爆発の知らせを受けたときに悲しむことでしょう。
要するに、「その人と交流できなくなるから死は残された人にとって悪い」という主張は、この意味からも正当性が薄いのではないかと。
もっと言うならば、別離より死別の方が悪いと感じるということは、やはり残された人の中でも「死んだ人にとって死が悪いことだ」と感じているという根拠になるのではないかとすら思えます。
そこで提唱されるのが【剝奪説】です。
剝奪説とは、「生きていれば享受できたかもしれない人生における良いことを剝奪されるから」死んだ人にとって死は悪い、という主張になります。
シェリー先生自身も、死がなぜ悪いかという問いに対する答えとして、【剝奪説】こそが進むべき正しい道に思えると語っています。
が、剝奪説も全体としては妥当に思えるものの、すべて丸っと包括できるわけでもない、とも言っています。
たとえば、もし「生きていれば享受できたかもしれないことを剥奪されたから」と主張するのであれば、それは生まれてくる前の人間に対しても適応されてしまいます。つまり、本来生まれてくる可能性のあった人間(存在可能な人間)は、精子と卵子の掛け合わせた数だけいるはずで、単純計算で「3×10の33乗(30澗)」ほどの人がいることになるのですが、その人たちが生きていれば享受できたことを剥奪されていることを悲しむ人はいません。
もちろん解釈を緩めて「その人がいずれかの時点で存在している場合」などの条件をつければ包括する対象を適切に近づけることはできますが、それでも完璧に説明できるわけではないです。
とは言え、他に納得にたり得る主張を見出すことができないため、何から何まで明瞭に説明できているわけではないですが、現時点では【剝奪説】を採用するのが適切だろうなと。
\シェリー先生の結論/
なぜ死が悪いことであり得るかについては、まだ完全には答えの得られていない難問がいくつか残されているが、それでもなお、私は【剝奪説】こそが、進むべき正しい道に思える。この説は、死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。
死のどこが悪いかといえば、それは「死んだら人生における良いことを享受できなくなる点」で、それが最も肝心だ。死が私たちにとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからに他ならない。
— 2-2. 本当に「不死」は望ましいのか
では、死が「人生における良いことを剝奪するから悪い」のであれば、永遠に生き続けることこそが最も望ましいものなのでしょうか?
おそらく、多くの人は「不死は幸せだ」と信じていると思います。
が、もし「残りの人生 (今後の人生) に良いことは何ひとつ残っていない」としたら、それでも不死でありたいと思いますか??
一度でいいので想像してみてください。人生100年時代のこの人生を、100回繰り返したとき、それでもまだ「こんな人生を送りたい」と思えるものがあることを想像できますか? それが1000回になったら?? 10000回になったら???
正直、生きることに飽きてきそうな気がします。もちろん、死なない限り、何かしら良いことを享受し続けることは間違いないですが、その良いことを享受することの価値が次第に落ちていくような感覚すらあります。
ただ、退屈を避けるために、今の自分と違う価値観で世界を感じられるように変化することもあり得るかもしれません。しかし、その場合でも、『人格の同一性』における結論でシェリー先生が語っていた「今の私と同じような人格を保ち続けているか」に対して矛盾を孕んでしまいます。完全なるジレンマです。
そこで、シェリー先生はこのように結論を結んでいます。
\シェリー先生の結論/
不死の人生というものは、少しも望ましいものではないだろう。
結局のところ最善なのは「自分が望むだけ生きられること」ではないかと思う。私たちはあまりに早く死にすぎるという依然とした事実はあるが、それでも不死よりはマシである。
3.我々はどう生きるべきか [生の価値論]
というわけで、[死の定義]と[不死の是非]についてまとめてきました。ここまでのシェリー先生(物理主義者)の意見を整理すると、
人間とは、素晴らしい能力(P機能)を持つ「ただの物体(身体)」である。
死とは、単に身体が壊れることであり、その結果として重要な機能を失うことでもある。
死が悪いのは、「生きていれば享受できたかもしれない良いことを剝奪されるから」である。
不死は、望むべき人生などではなく、最善な人生は「自分が望むだけ生きられること」でしかない。
という感じになります。
これらの考えを踏まえた上で、じゃあ私たちは「どう生きればいいのか」「どう生きるべきなのか」を議論していきます。
このことを考える上で、まず、「死ぬという事実が私たちの生き方に影響を与えていないか」ということを考えてみましょう。
たとえば、死ぬという事実を直視することで人生を目一杯生きようとする人もいれば、逆に、死を考えることで気分が滅入って人生を前向きに捉えられなくなる人もいると思います。
つまり、「人は必ず死ぬ」という事実は、私たちの人生に何らかの影響を与え得る、というわけです。そのとき、取れる反応は下記の3つのいずれかになります。
[否定する](例:死後も魂は生き続けるなど死を否定する)
[対応する](例:事実を認めて適切に生きようと対応する)
[無視する](例:単に死ぬ事実について考えずに無視する)
シェリー先生は、最も尊い反応は「対応する」だと主張しているが、とは言え、死ぬという事実を受け入れようとすることで人生にマイナスの影響があるのであれば、「無視する」を選ぶことも適切だ、と断言しています。
過度に死を恐れたり、死に対して怒りを抱くより、ただ単に「考えない」というのも、人生においては大事なことだろうと。
この考え方が、次の「どう生きるべきか」に繋がってきます。
すなわち、死ぬか死なないかということで悩む以前に「人生そのものを台無しにしないこと」こそが大事だということです。変なところに意識を向けたことで、貴重な人生を台無しにしてしまう可能性は捨て切れません。だからこそ、自分の人生を台無しにしないように用心するべきというわけです。
では、どうやって「人生を台無しにしないように用心」すればいいのか?
シェリー先生は『やり直しが利かない過ちを犯さないこと』を筆頭に挙げています。その過ちを犯しやすいポイントは下記の2つです。
① 目標の選択
② 目標の実現方法
人生において何を目指すのか。そして、そこに達するための選択肢。
これは「人生はものごとを正しくやり遂げるのにはあまりに短いから」という理由だけではなく、「目指す価値のあることが驚くほど多くあり、それらを達成することがいかに複雑で困難であり得るか」ということを直視したときに、あまりに短い時間しか生きられないという事実が重要だと言います。
そして、シェリー先生は、死を免れない私たちが採用できる「最高の人生戦略」についても、下記のようにまとめています。
【第1の戦略】
達成することが事実上保証されている種類の目標を目指すこと
例:食べること、交際すること、セックスすること、など
【第2の戦略】
人生における良いことのうち、際立って価値の高いものに目を向けること
例:小説を書く、交響曲を作曲する、などの夢や志のたぐい
【第3の戦略】
上記で挙げたような大小の良いことを “適切” に取り混ぜること
おそらく最重要ポイントは、第3の戦略の『適切に』の部分だと思います。この適切の度合いは、それぞれの価値観によって違うはずです。すなわち、第1の戦略のような保証された小さな目標で満たされることを重視する人がいてもいいし、逆に、第2の戦略のような野心的な目標を中心に据える人がいてもいい。その塩梅こそが「どう生きるか」の部分になるんだろうなと。
— (自殺の是非)
これで、第14講までの内容をザザッとまとめ終えました。
最後に載っている 第15講 の内容は【自殺】です。これまでのテイストとは急に違った感じで最終講に突入します。載せるか悩みましたが、一応軽く触れておきます。
この講における問いは「自殺が理にかなっている状況はあるのか?」です。そして、この問いに対して『合理性』と『道徳性』の2つの視点で議論を進めています。
まずは『合理性』について。
これはまさに、ここまで14講分の議論を踏まえて考えると、すんなり結論まで到達します。
つまり、死が悪いのは「生きていれば享受できたかもしれない良いことを剝奪されるから」であり、最善な人生は「自分が望むだけ生きられること」であるのであれば、【時に自殺も正当化できる】と言えるでしょう。
たとえば、自殺を考えている本人が、自分の望むだけ生きられたと確信しており、残りの人生でプラスなことよりマイナスなことの方が多いとわかっている場合。その状況であるならば、自殺の合理性を認めざる得ません。
では、『道徳性』についてはどうでしょう。
自殺の道徳性に対しては、安直な主張がなされる場合もあります。が、安直な意見に対してはシェリー先生がバサリと反論をします。
たとえば、
「自殺は神の意志に背いている」
→ 自殺も神の意志かもしれないし、その場合は命を救うことが神の意志に背いていることになるよ?
「素晴らしい命に感謝しなさい」
→ 与えられた命が必ずしも素晴らしい贈り物とは限らなくない? もしかしたらゴミを与えられてる可能性だってあるよ?
みたいな感じです。
とは言え、自殺の道徳性をしっかりと議論するのはかなり大変です。
シェリー先生も『功利主義的立場』や『義務論的立場』の視点などさまざまな角度から議論を展開されていましたが、最終的に【自殺の道徳性に対して哲学は無力である】と結論づけています。
\シェリー先生の結論/
功利主義の立場を受け容れようと、義務論的立場を受け容れようと、これが私には正しいと思える結論だ。
自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。
ただし、本当に考えておくべきなのは、「自殺しようとする人に出会ったときに、私たちはどうすべきなのか?」という問いです。
自殺をしようとしている相手が、自殺の正当性を認めざる得ない条件をすべて満たしていた場合でも、果たして自信を持って「自殺していい」と言えるだろうか。
もちろん、ここまでの議論を踏まえると「自殺は決して許してはならない」というような強硬な姿勢になるのは考えものだが、とは言っても簡単に許可できるものでもない。
最終講で非常に考えさせられますが、「死」を考える上で「自殺」というテーマは大事な問いなのだと思います。
まとめ:死について考えることは、生について考えることだ。
まさかまさかの 1万6千字 の超大作になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、途中をすっ飛ばしてまとめだけ読んでくれている方、何はともあれこの要約記事に興味を持っていただき、本当にありがとうございます。書いている僕自身が疲れているので、きっと読んでいる方も疲れていることと思います。とは言え、ここまで読んでいただいたのでぜひ最後まで読んでいってください。
さて、約750頁の辞書並の書籍『死とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』の完全翻訳版を読み終えた3日後、僕の祖母が亡くなりました。
本当ならば1月上旬に投稿する予定だったこの要約記事のタイミングが遅れたのは、祖母の葬儀などが重なったからという事情もあるのですが、ただ僕としては、「死とは何か」を考えさせられたあとに、親族の「死」を迎えたことで、言葉に表しきれないほど多くのことを学んだ気がしています。
まず、本書に書かれていたシェリー先生の主張「魂など存在しない」「不死は望ましくない」という意見に対して、僕もほぼ同意です。読む前から近しい考えだったこともあり、違和感なく主張を読み込むことができたかなと。
ただ、祖母の葬儀を通して、
「シェリー先生の主張することは、自分自身の死を考える際には言葉の通りに受け取ると良い気がするけど、他人の死に対しては主張のすべてを許容しない方が良いかもしれない」
ということを感じました。
つまり、他人の死に直面したときには、魂の存在を受け容れた方がその人の死を受け止めやすいのかもなということです。
たとえば、仏教的な思想では、死後の魂は49日間かけて極楽浄土に向かう、という考え方をしますが、僕自身の死に対しては「死んだらそれまで」と思えるものの、今回の祖母の死に対しては「死んでしまった」と事実を全身で受け止めるより「49日間かけて歩いてるんだな」と思った方が、精神衛生上とても良い。それ以上の心的ストレスを抱えなくて済むからです。
「死は悪いのか」という問いの中で、「残された人にとって悪い」という議論がありましたが、『魂』というものは残された人のために作られた概念であり、魂は存在しないとしても、人間の生きる知恵のひとつとして存在する価値があるものなんだと。(あくまで僕の個人的な見解です)
また、最後の講で【自殺】について触れられているのも、よくよく考えたら自然な展開なのかもしれないと感じます。
というのも、全体の構成をちゃんと眺めてみると、実は 第14講 までの議論はすべて自分に矢印の向いたものになっています。一方で最終講では、「もし自殺をしようとしている人がいたら〜」という他人に向けた矢印の議論に展開されているんです。
つまり、「自分がどう生きるか」の先には「他人の生をどう捉えるか」を考えるフェードが待っているんだろうなと。
そして、これらの議論を踏まえた上でなければ、『尊厳死』や『安楽死』のような議論を適切に行えないのかもとも感じました。
読んでいる最中は「そこまで考える必要はあるのか?」「その理論は屁理屈やろ」と思っていましたが、こうやってまとめてみるとまだまだ議論すべき余地はたくさん残っていることがわかってきます。
きっとシェリー先生も「750ページじゃ足りないよ」「15回の講義じゃ一部しか語れないな」と思っていることでしょう。
ただ、それでも結局大事なのは【自分ならどう考えるか】と自問することでしかありません。全員に必ず訪れるのに、なかなか真剣に向き合うことのない「死」というテーマ。もし関心を持った方は、ぜひ完全翻訳版の読破に挑戦してみてください。
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というわけで、今日の記事は以上です。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
結局テキスト(文章)では理解できない、、、喋って聴かせてほしい。
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では、またあした〜!
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≫ 祖母の葬儀を終えて感じたこと、とか。
≫ 哲学者は、厨二病やねん。
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