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生徒試論−徒にて生きるものたちについて

小学生までは児童という。中学生から、彼らは生徒と呼ばれる。大学になれば学生と呼ばれ、それ以降は研究者となるわけだが、私はこれら成長するものの呼び方の中で、「生徒」という言葉が一番好きだ。児童、学生と呼び名はあるが、いっそ、すべて学ぶものは生徒で統一すればよいのではないかとさえ思っている。

生徒、という言葉だけを取り上げれば、テスト前に徹夜で勉強したこと、それでも毎回結果が伴わなかったこと、滅法話の通じない先生、授業以外では面白い先生、重い教科書、まとまらないプリント、大掃除のワックスの匂い…私の場合はあまり色気のある思い出は出てこないが、多くも、いかにも学校や勉強、教師といった、教育的な装置の数々の記憶しか浮かばないかもしれない。
しかし、生徒という字は、まさに若い時間を命いっぱい生きる「歩く人」ということだ。徒(かち)にて生きる人のことだ。

学びの過程とは、まさにゴールの見えない徒歩のようなものだ。いや、そもそもゴールなどないのかもしれない。人生が旅に例えられるならば、それはきっと、重き荷物を背負って自らの足で歩く旅だ。逍遥であり道草であり、競歩であり、前進であり、後退であり遁走であり、回り道であり、夢想をしながらの孤独な散歩ではないだろうか。

「徒」という字自体には、そもそもあまりよい意味がない。いたずら- と読めば無駄で無益なことを表し、と- と読めば、あまたある中でも「暴徒」や「徒党」に代表されるような、いわゆるモブを意味する。徒歩という言葉ひとつ取っても、馬を与えられない下級武士や足軽の移動手段に由来している。
なぜ若き未来の担い手にそのような字を当てたのかといえば、この字はまた、へりくだった意味も持つからであり、教えは先生からいただくものという関係性を反映している。

確かに、学びの主体の立場や意味は大きく変わった。単純に少子社会であるがゆえに、ただでさえ希少な子どもたちが主導権を握るかのような逆転もあるかもしれない。また、高齢化社会になって人生が長くなり、学びは、形式的な卒業のない生涯学習になった。学ぶものたちの実体は一様でなくなった。年上の先生が子どもたちに、一方的に勉強の仕方を教える、という図式自体も無化してしまった。

逆に、理想の先生像の変遷に、子どもたちの成長の過程と同じような呼び名を付けたらどうなるだろうか。もちろん例外もあることだろうが、おそらくかつては「仁者」であったろう。その存在は絶対であり、同時に孤高を貫かざるを得ない立場だったに違いない。現代に入ると、呼び名は「演者」に変わるのではないだろうか。期待される教育現場の最前線にいる実践者として、子どもたちとは適正距離をとって、先生という役割を演じながら自ら個と相克しつつ教育に携わってくる教師の姿だ。そして今ならば、「友人」と呼ぶべきなのだろうか。「友だち」ではなく、成長する子どもたちに寄り添う存在として、より共感的な役割が求められてゆく。

儒教的にいえば、師弟はまさに「友人」関係であった。欧米でパートナーシップと呼ばれるこの関係は、日本では「友人」関係のほうが馴染むのかもしれない。
この「友人」という師弟の形而上学的な関係に、友人関係という現実を持ち込んではいけない。それはマナー違反だ。友だち親子や仲良し親子と同じことだ。このマナーやエチケットを守るならば、すべて教えるものも学ぶものも、「生きる」という学びの歩き旅を永遠にともにする巡礼の伴となるだろう。生を享けたものはみな、生きる喜びと困難への若き情熱を絶やさぬ生徒なのだ。(了)

Photo by Krisatu,Pixabay


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