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私のグランマ

個人的な家族の話です。

もう60年以上ハワイに住んでいた大叔母が、ハワイを去ることになりました。
理由は色々ありますが、90歳を超えた高齢でハワイに一人で住むのが、このご時世難しくなってしまったから。

ちょっと紛らわしいですが、私は大叔母を昔からグランマと呼んでいます。父が外人なので父方のおばあちゃんなのかと思われますがグランマは母方の血筋で、日本生まれ日本育ちの純ジャパニーズ。

新潟の直江津で育ち、「あたし、もう雪だけは二度と見たくないの」が口癖のファンキーなグランマです。

「グランマ=おばあちゃん」という意味は幼少期から知ってたので、私もある程度の年齢になるまで本物のおばあちゃんだと思ってたし、大叔母だと理解した後も私の中ではおばあちゃん扱いのまま。

グランマには子どもがいなかったのと(でも色々あって姪っ子を養女にしてる)、○○おばあちゃんとか呼ばせるのを大人たちが面倒臭がりそうなったんだと思います。我が家は異様に家族仲が良いので、その辺の線引きは誰も何も気にしない。

私は昔からグランマが大好きでした。

ていうか、ハワイに住んでるおばあちゃんを大好きにならない理由なんてない。

定期的に送られてくるマカデミアナッツチョコ、マシュマロ入りのホットチョコレート、派手な色のオモチャ。英語だらけのダンボールを開けた瞬間に香る、あの独特なハワイの甘い香りにどれだけのワクワクをもらっただろう。

夏休みにやっとハワイの空港に降り立つとカラフルなレイを首にかけてくれて、ぶちゅぶちゅほっぺにキスされる。今このnoteを書いていて、改めて贅沢な子ども時代だったなと思います。

じゃあ純ジャパのグランマがなぜハワイに住んでるかというと、戦後に東京の大使館で働いていたところ、米軍兵だったグランパにナンパされたんだそうです。

グランマいわく、白人のグランパとは言葉はほとんど通じなかったけど、美味しい洋食やデザートを食べさせてくれて(ギブミーチョコレートの時代)、映画に連れてってくれて、バッグを持ってくれたりととにかく優しくて、トントン拍子に結婚してアメリカに行くと決めたそう。(グランマはめっちゃ割愛してサラッと説明するけど、本物の祖母いわく家族総出の大騒ぎだったらしい←当たり前)

「あの子が男だったら、物凄い出世したと思うよ」

亡くなった祖母や他の親戚はよくそんなこと言ってました。

たしかに、この令和時代でも海外移住や国際結婚はそれなりに大事なのに、敗戦後に英語も分からない状態で敵国に行く女ってどんな根性だろう。

ちなみにデートしてる時はカタコトの日本語でコミュニケーションをとっていたグランパが東京を去る船で「君のために今日からは英語しか話さない」と宣言して日本語ストップしたときは、グランマは「ここから泳いで帰る」とアメリカ人しかいない船の中で大暴れしたそう。(日本海育ちなので泳ぎは得意)

その後、グランマはグランパと共にメインランドやヨーロッパを転々としてハワイに落ち着きます。

その間、グランパはベトナム戦争なんかも色々と経験して負傷もして、私が生まれた時には足が悪かった。

銃弾の毒が回ってもう治らないとかで、年々足が象みたいに膨れ上がって、歩きにくい、杖で歩く、押しぐるま、車椅子、立てない、寝たきり、そして入院生活と、私が成長するにつれて身体が悪くなっていった。

忘れられないのが、グランパの米軍の病院に空港から直行してお見舞いへ行ったとき、中学生の私が日本で流行りのヒステリックグラマーの迷彩柄のタンクトップを着ていて、それを見たグランパが突然怒鳴り散らしたこと。

小さい頃から私を溺愛していて仏のように優しい、怒ったことなんてないグランパ。そんなグランパが「今すぐそんな服脱げ」と大声で叫んだ。あんな病床で寝たきりの力ない老人を、愛孫に向かって発狂させるだけの激しい怒り。戦争って本当に酷いものなんだとあのとき自分ごととして知った。

ごめんなさいグランパ。知らなかったから、なんて言い訳にならない。戦争で命を落としたり、命懸けで戦ってくれた人たちのおかげで私は平和に暮らしてるのに。無知は罪だと思う。迷彩柄の服はもう絶対に着ない。

そんなグランパが亡くなったのは10年も前。それからグランマは一人でずっとハワイに住んでた。

親戚がこぞって心配しても「大丈夫よ、あたしハワイが好きだから。だってどこからでも海が見えるのよ」と、未亡人になっても相変わらず超元気。

昔からドライブが好きだからってスクールバスの運転手の仕事に情熱を注いでて、「あたしは子どもがいないから、子どもと関われるのが楽しくてしょうがないの」と、本当に生き生きしてた。

グランマはさらに遊びにも全力で、ヨガ、フラダンス、ウクレレ、銭太鼓とかやたら習い事をしてて、金曜の夜は私たちがハワイにいようと必ずドレスアップしてビンゴパーティーへ出かける。未亡人になってからも友達としょっちゅうベガスに遊びに行ってたし、何なら「ボーイフレンドが3人いるの」とシレッと報告されて腰抜かしそうになったこともある。

母や一緒に住んでいた実の祖母は典型的な昭和の専業主婦だったから、ハワイに行くたびにグランマの生活を見て話を聞いて、そんな女の生き方も面白いといつも思ってたし、私の視野はグランマの影響で確実に広がった。

で、私もいつかハワイに絶対住みたいと思ってた。
そもそもグランマがいるんだから、叶わないわけがない。
そういう時期がきたら、たぶん自然な流れで移住したりするだろうと。
だからハワイでも結婚式をしてグランマにドレス姿を見せたし、
妊娠中もハワイへ行ってお腹触ってもらった。

息子にも「グランマだよ」って、私と同じ経験をさせるつもりでいた。

でも、コロナでタイミングを逃して会わせられず、グランマはハワイを去ることになったと報告が来たのが昨日。

90歳を超えて、60年過ごした土地を去ってまた新しい場所へ移るってどんな気分なんだろう。大丈夫かな、落ち込んでないかな、悲しくないかな。大変じゃないかな。

ていうかグランパのお墓とかどうするんだろう。マンゴーアレルギーなのにマンゴーの木の下に作っちゃったお墓。だからグランマはいつも防護服みたいの着てお墓の掃除してた。グランパが死んでから毎日。

そんな心配して胸が痛くなってシクシク泣いてたら、グランマは長年住んだ家をもうサッサと売っちゃってて、しかも結構な高値で売れちゃったらしく、なんともう来週にはハワイを去って姪っ子(私の母の従姉妹)のいるルイジアナに行って新しい家を買うと。

それ聞いて、涙とまりました。

え、ていうかぜんぶ事後報告......?ていうか日本に戻る気は……ないのね、当然。国籍もアメリカだもんね。

さすが、敗戦後に敵国に渡った昭和の女は違う。

なんだろう。この決断の早さ、行動の早さ、前を向く力。

私は昔からグランマから学んだことが山ほどあるけど、敢えて何かを教えてもらったり、ましてや説教じみた話をされたことは一度もない。

ただ面白おかしく昔話をしてくれて、その行動力を見せてくれただけ。90歳超えたグランマの決断に、また感銘を受けてしまった。

さらに距離が空いてしまうけど、いつか息子を連れてルイジアナまで遊びに行ける日まで、どうか元気でいて欲しい。絶対に遊びに行くから。で、どうか息子にも面白い話を聞かせてあげて。

思いが溢れて仕事そっちのけでnote書いてしまったけど、近い将来グランマの小説書こうと決めました。

まだまだ書き切れないエピソード沢山あるんだ。

きっと面白いよね?


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