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この世界への復讐

誹謗中傷は「誰」に向けられたものか

本当にこれは攻撃対象のみに向けられた
ものなのか

それに対する私の答えは否である。

ここではバッシングを受けた際の
スルースキルや法的訴訟といった
「受ける側」の立ち回りに言及しない。

最も、ここでは誹謗中傷を「する側」に
フォーカスを当て、その奥にある真実を
明らかにしたいのである。

更に重要なのは、私はここで
「誹謗中傷するな」という注意喚起を行う気は
一切なく「誹謗中傷は悪だ」とも思っていないということだ。

ただ、それが起こるメカニズムについて考える
ことで我々の生きる「世界の構造」を知る
という試みでしかない。

よって、私という個人は
誹謗中傷が起こることをある種
「諦めの姿勢」で見ているのだ。


匿名性は手段に過ぎない

「匿名性がバッシングに繋がる」
という論調であるが
私自身このことには懐疑的である。

というのも、匿名性は目的ではなく
手段に過ぎないと思うからだ。

例えば、善を行う時にも匿名性というのは
非常に有効であり、自分の中にある
愛情や感謝といったありのままの
感情をそのまま相手に伝えることができる。

つまり、匿名性というのは
「感情」のみを抽出し
ダイレクトにそれを表現できる手段である。

そのため、善行や攻撃を行う際に生じる
"特別で強烈"な気持ちを相手に伝える時
最も効力を発揮するものと考えられる。


誹謗中傷は何のため?〜差別とバッシングの違いについて〜

やっと本題である。

まず誹謗中傷「する側」の背景について
考えなければならない。

何故ならば、非難するという"行為"
そのものについてとやかく言うことは、
結局それも非難の堂々巡りを起こす
無意味な議論だと考えるからだ。
(このことは後に触れる)

より普遍的な解答を導き出すには
人間の"思考"を紐解く必要があるだろう。

ちなみに、ここで言うバッシングは
以下の4つの条件が揃うものだ。

①根拠のない主観的な判断によるものである
②損得感情に基づかない非合理な行為である
③一時的で突発的な感情によって喚起される
④特定の対象を貶めたい欲求が明らかである

これは「差別」とは似て非なるものであり、
具体的には②と③の条件で異なると考える。

「差別」とは相手の犠牲を顧みずに
己の特権を正当化する行為であるため
至って"合理的な判断"に基づいており、
また決定的な価値判断という"理性"に
基づいた行為である。

したがって、差別は②非合理性③感情的
とは真逆の条件で成り立っていると考える。

そのことは同時に、バッシングは感情さえ
あれば「考えなくても誰でもできる」行為
であると言えるのではないだろうか。


さて、誹謗中傷は何のためにするのか?
という問題の私なりの解は
「生まれてきたこの世界への復讐」である。


生まれてきたこの世界への復讐

バッシングを受ける人間は往々にして
社会的に成功しているように見える人間
である。

「芸能人も人間だよ。」
↑これは間違いようのない事実である。
がしかし、これは全く見当外れな議論に
我々を誘導する事実でもある。

なぜなら、バッシングする側にとって
人間であるかそうでないかは
実際に問題としているところではないからだ。

彼らは言葉という弾丸を放って傷つけられる
ものであれば、人間であれ組織であれ
はたまた作品や建造物にさえその銃口を
向けるのである。

バッシングする側が問題としているのは
「世界がその対象をどう扱っているか」
である。

つまり、彼らは自らが獲得できなかった
あらゆるもの(名声、才能、美貌、学力
人気、富、チャンス、愛情、成功etc)
を、正当な努力なしに手に入れている、
または一見そのように見える対象を通じて
「世界の不平等」を嘆いているのである。

彼らにとって世界とは憎むべき存在であり、
優遇されているように見えるものたちは
全て自らを脅かす「悪」である。

「奴らがいなければ、世界は自分に
より多くのものを分配したはずだ」
という根拠のない憎しみに駆られて
いるのである。

そして、彼らは不当な扱いをする世界に復讐
するため、不公平の象徴である
人間、組織、建造物などを汚し、貶し、
最終的には消し去ろうと努力する。
これが、誹謗中傷「する側」の背景である。


世界は平等だという勘違い

世界は何一つ平等ではない。
これは生きていれば体感で分かる。

しかしなぜか私たちは「平等神話」を
信仰するように求められている。
そこには2つの原因がある。

それは法治国家である以上、法の下の平等が
切っても切り離せない概念であることと
資本主義社会は人間をロボット化することに
よって機能するものであるため
「代わりの人間」はいくらでもいる状態、
つまり人間を等しく同一視する前提で
生きていかなければならないということだ。

こうした二重のレイヤーが私たちに
「平等」という、本来存在しないものを
植え付けている。

この平等神話の中で「不平等」は
決して許されるものではない悪魔であり、
排除しなければならないという義務が
発生することになる。

不平等の差が広がれば広がるほど
誹謗中傷の嵐は当然激しくなる。

そしてこの世界で称賛を受けるのは
持つ者が持たざる者と同じだけ損を
することだ。

大金をタダでばら撒く資本家や
性格の良いブス、多浪の医学部生などは
そのアイコンではないだろうか。

いま一度、人は平等ではないという真実に
我々は立ち戻る必要があるだろう。


誹謗中傷を批判することの無意味さ

前述でも軽く触れたが、
「誹謗中傷する奴はよくない!!」
という主張は至極根拠のない、感情的で
非合理的で相手を「悪者だ」と決め付けて
貶めようとする、"誹謗中傷"そのものである。

つまり誹謗中傷する者を批判することは
無限ループに自らの身を投じることだ。

それは実に無意味でなにも生み出さない
非建設的な行為である。

では今後、バッシングをどのように
捉えるべきなのかについて考えたい。

そのヒントとなるのは「ユーモア」である。


バッシングはコミュ障にしかできない

ここまで、誹謗中傷する人=クレーマーは
一体何をしているのかを明らかにしてきた。

簡単に言えば、自分の思い通りにいかない
ことの原因を何かのせいだと決め付け、
それをこき下ろすことで「復讐」を
果たしたと思い込んでいるのである。

しかし実際には何も得られていないため、
彼らは何度も何度もバッシングを繰り返し
クレーム体質を身に付けることになる。

ここから分かるように、誹謗中傷とは
一方的でコミュニケーションからかけ離れた
行為であり、単なるマスターベーションである。

コミュニケーション技術が乏しいために
起こる現象だと捉えるとすれば、誹謗中傷は
「悪意」というよりもむしろ「未熟さ」から
発生するものであると考えられる。

よってクレーマーに対し高度なコミュニケーションを求めるのは無謀な挑戦だ。

高度なコミュニケーションとは
相手の思惑を十分汲み取った上で
自分にとっても相手にとっても
有意義な意見を交わすことである。

そうしたコミュニケーションでは
互いに自らの「面白さ」を遺憾なく
披露することが求められる。
つまり、「ユーモア」がないと成り立たないのだ。

それはまさしくゲームであり
創造的な営みであり、訓練と技術が求められる
熟練の技である。


ユーモアを磨くには

ユーモラスな人間の必須条件がある。
それはワードセンスでも異色のキャリアでもない。

「世界を面白く解釈する能力」である。

彼にとっては世界すらコミュニケーションの
対象であり、憎むなど言語道断である。
また、ユーモラスな人間は世界を自分の手で
コントロールする技術を持っている。

お笑い芸人を例に挙げれば分かりやすい。
彼らの話すテーマは
「恋愛」「仕事」「生活の困りごと」など
至ってありきたりなものであるにも関わらず
笑えるのだ。

それは、彼らが普段の生活で全神経を
集中させて過ごし、普通の人なら
無意識に見過ごす"常識"をどう覆せば
面白いかを熟考した結果生み出されたものだ。

この、「世界を面白く解釈する能力」の重要性
は案外知られていないのも事実である。

というのも、芸人はただ単にふざけたこと
を言っているだけだと客観的には見えて
しまうことと、その鋭敏な感受性を表に
出すということは「笑い」から遠ざかる
ことになってしまうため、能ある鷹は爪を隠すのだ。


しかし、もうここまできたら分かるように
「世界を面白く解釈する能力」は人間の
クリエイティビティを強化すると同時に、
自分は世界に支配されているという感覚から、
むしろ世界はコントロール可能であるという
マインドを与えてくれるギフトである。

それは技術であり、いつでもどこでも
誰にでも、修行の道は開かれている。


おわりに

あまりにも思考が滝のように溢れて
止まらなかったので、
頭の中を整理したくて書きました。

言語化したことで
漠然と気持ち悪いなと思っていたことが
解決したような気がします。

恐らく数年後掘り出したときに
「馬鹿なこと言ってるな」と笑ってしまう
ような中身だと思います…
まぁそれも、大目に見てやってください。





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